きょうは マレーシアでのお話です。

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1991(平成3)年12月、マレーシアのコタバルを首都とするケランタン州政府は、日本軍の上陸50周年を記念して特別式典を開催し、さらに戦争博物館を設立しました。その館長でケランタン州副知事のロザリー・イソハック氏はこんなふうに言っています。


1991年、私達は日本のコタバル上陸50周年を祝いました。これがケランタン、つまり当時のマラヤにとって、意義ある出来事であったからです。ここコタバルは、日本軍最初の上陸地です。私は、戦争博物館の館長として記念行事を担当しましたが、多くの人がこの重要な出来事を、長く記憶に留めていただきたいと願っています。」


50年前といえば、1941(昭和16)年の12月。同じ年の12月8日は“戦争を始めた日”としてなんとなくマイナス・イメージを持たされており、アジアへの侵略や現地住民の虐殺などが報道されています。しかし当のマレーシアでは日本軍の上陸を祝って記念式典が行われていたのです。なぜ日本軍のマレー上陸がマレー人に祝福されるようなことなのでしょう。


1941(昭和16)年12月8日、日本軍は真珠湾のアメリカ軍艦隊を攻撃すると同時にマレーシアに上陸し、さらにマレー沖のイギリス東洋艦隊に攻撃をしかけました。ことにイギリスの誇る世界最新鋭の戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスという2隻を航空機による爆撃で撃沈したことは、世界戦史上、前例のないことでした。この衝撃的な知らせを受けた当時のイギリス首相チャーチルは「戦争の全期間(第二次世界大戦)を通じて、わたしはそれ以上の打撃をうけたことはなかった。いかに多くの努力と希望と計画が、この2隻の軍艦とともに沈んでしまったか。ベッドのなかで寝返りを打ち、身もだえするわたしの心にこのニュースの持つ恐ろしさがしみこんできた。」(チャーチル『第二次大戦回顧録』)と書いています。


そして、150年以上にわたるイギリスの植民地支配に苦しめられていたマレー人は半島を進撃する日本軍を心から歓迎し、食糧を提供し、ジャングルの地理案内をし、軍需物資の運搬まで手伝ってくれました。当時16歳だったラジャー・ダト・ノンチック元上院議員はこう言います。「私たちは、マレー半島を進撃してゆく日本軍に歓呼の声を上げました。敗れて逃げてゆくイギリス軍を見たときに、今まで感じたことのない興奮を覚えました。日本軍は永い間アジア各国を植民地として支配していた西欧の勢力を追い払い、とても白人には勝てないとあきらめていたアジアの民族に、驚異の感動と自信を与えてくれました。」


このような現地の人々の支援もあって、日本軍は60日間の激戦の末、イギリス軍のアジア最大の要塞、シンガポールを攻略します。1942年(昭和17)2月15日、ついにイギリス軍は降伏し、150年におよんだイギリスのマレー支配は終わりを告げたのです。フランスのドゴール将軍はこの日の日記に「シンガポールの陥落は白人植民地主義の長い歴史の終焉を意味する。」と記していますが、本当に歴史的な日であったといえるでしょう。


さてイギリス軍を追い払ったあと、日本軍はマレーの青年教育に力を注ぎました。1942年5月シンガポールに「昭南興亜訓練所」を開設し、マレーのすべての民族から優秀な青年を招いて心身共に訓練をしました。これはのちにマラッカの「マラヤ興亜訓練所」に引き継がれ、1000名を越える卒業生を送り出します。この卒業生の大半がマラヤ義勇軍、マラヤ義勇隊の将校となり、マレーシアの独立と、その後の新しい国づくりの中核となりました。


ノンチック氏は言います。「新国家マラヤ連邦の建国の基本策と具体策は当時のマレー人青年の日本グループによって進められたと言っても過言ではありません。あの当時の国家計画庁本部は、昭南、マラヤの両興亜訓練所や日本に留学した南方特別留学生の同窓会の雰囲気でした。」


また、日本の軍政部がそれまで西欧人専用だったクラブやプールなどを、肌の色にかかわりなく一般に開放するなどの政策をとり、民族の平等を掲げたことは、マレーの人々の間にあった白人に対するコンプレックスを取り除き、“自分たちの祖国を自分たちの国にしよう”という独立心を目覚めさせました。


しかし、その3年8ヶ月後の1945年8月15日に日本軍は連合軍に降伏してしまいます。その結果、またイギリス軍が再びマレーを占領し、植民地にするために戻ってくるのですが、マレー人は以前の従順なマレー人ではなくなっていました。


マラヤ大学の副学長のウンク・アジス氏は「日本軍がもたらした『大和魂』のような考え方をもつことは、独立のためにどうしても必要でした。日本軍政下の訓練の結果、日本が降伏した後、英国人が戻ってきて植民地時代よりも悪質な独裁的制度をマレーシアに課そうとしたとき、人々は立ち上がったのです。」と言い、またマレーシア外務省情報センター所長のニック・モハマド氏は「これまで独立なんて考えたこともなかったので、徐々に植民地にされたのですが、日本の軍政下で反植民地主義に目覚めたのでした。民族意識は若者に影響を与え、彼らはもはや怠けてはいませんでした。皆、立ち上がったのです。これまでになかった大変貴重な3年と8ヶ月の経験でした。」と言っています。


マレーシアというのは複雑な民族構成で成り立っています。それはマレーが良質の錫を産出することからイギリスがこの錫を採取するための労働力として大量の華僑を移住させたからなのです。そしてそののちイギリスとマレー人の間にあって経済活動を握り、搾取階級となった華僑は、イギリスを駆逐し、自らの利益を剥奪してしまうような日本軍の進撃を喜びませんでした。むしろその権益を守るために、イギリスに協力して抗日ゲリラ活動を行ったのです。また支那事変以来、日本と本国が戦争状態にあったことも作用したでしょう。これらの理由からイギリス軍の敗北、撤退を喜んだマレー人と、それを快く思わない華僑の対日観には大きな開きがあることを充分知っておく必要があります。


現在のマレーシアにおいてもマレー人と華僑の比率は45%対35%で、その華僑が経済界の実権を握っており、発言権も強い状況にあります。こうした植民地時代からの華僑の経済独占は戦後になっても続き、経済進出を閉ざされたマレー人との民族間の対立は、時として多数の国民の血を流すことさえありました(1969年の5.13事件など)。ですから戦争中に華僑の利益を抑制し、マレー人に機会を与えようとした日本が嫌われてしまったのも無理はありません。日本軍を残虐であったと言い立てる声が大きく聞こえてきたのもそのためだったと言えますが、マレー人は冒頭で紹介したように、けっして反日などではなく、日本軍の上陸を意義あることとして記念するような行事を行っているのです。

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どうも我々が習ってきたり、新聞で目にする自虐的歴史観とは違う話が続きますね。恥ずかしながら最近になるまで私もこのような話はよく知りませんでした。マスコミから流れる映像や文字にすっかり踊ってしまっていたのです。一部のマスコミは国賊的な立場で論調を続けているのも知らずにです(恥)。私くらいの理解しかない方も多くおられると考え、記事にしようと思いました。ひとつの事実として、または国に対する「誇り」を取り戻すための話として知るべき事柄であると強く思います。

なお、この記事も「教科書が教えない歴史」を抜粋・加筆させていただいたものです。

http://www.jiyuu-shikan.org/faq/index.html

ここしばらくミャンマーを相手にプロジェクトを手がけており過去一年ですでに3回渡航しています。今日は、私にとって現在一番身近な国であるミャンマーを記事にしたいと思います。

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ビルマの竪琴でよく知られているミャンマー(ビルマは旧国名)では3月27日の国軍記念日になると、国軍が首都ヤンゴンに集まり盛大なパレードを繰り広げます。その最初の曲はパチンコ屋さんでよく聞く「軍艦マーチ」から演奏し始めるのです。それだけではなく日本の歌を次々と演奏して、パレードを続けます。東南アジアでも特に親日的なミャンマーはどのような経緯でそこまで親日的になったのか調べてみました。


ミャンマー(旧ビルマ)は19世紀に三度にわたってイギリスの攻撃を受け、ついに1886年にイギリスの植民地とされました。イギリスによる搾取は過酷を極め、その上インド人と中国人の商人たちがそれに続き搾取を繰り返していました。


ビルマ人はというとチーク材の切り出しなどの重労働にこきつかわれました。現在もミャンマーでは先端の尖っていない鎌や包丁が売られていますが、これは植民地時代、イギリス人に抵抗する武器にならないようにした名残だといいます。こんな悲惨な状況を一転させたのが日本軍の進攻、また日本によるビルマ独立志士たちの育成でした。


明治時代、日本は膨張を続けて南下を推し進めるロシアを相手に、国を挙げて戦いをしました。日露戦争(1904~05)です。当時、アジアの国々はほとんどがヨーロッパの白人諸国の支配下に置かれ、ビルマも例外でなく植民地とされていました。。誰もが、アジアの小国、日本の敗戦を予想していましたが、それを裏切って世界最強の軍事大国ロシアに陸と海で勝利をおさめました。有色人種であるアジアの国が白人をやっつけてしまった知らせを聞いた他の有色人種たちは歓喜し、こぞって日本に学び始めます


その中の一人にビルマの僧オッタマがいました。オッタマ僧正は抗英独立運動をおこなって投獄されたこともある人物で、日本にやってきたのは1907年のことでした。彼は3年間日本に滞在して取材した内容を『日本』という本にまとめ、その中で「日本の興隆と戦勝の原因は明治天皇を中心にして青年が団結して起ったからである。われわれも仏陀の教えを中心に青年が団結、決起すれば、必ず独立を勝ち取ることができる。」「長年のイギリスの桎梏からのがれるには、日本にたよる以外に道はない。」と主張したのです。


その後オッタマは獄死してしまいますが、その反イギリス精神は独立の志士たちに受け継がれていきました。この若き志士たちこそ、のちに「ビルマ建国の父」と呼ばれるオン・サンたちタキン党の青年たちでした。オン・サンとは当時の表記ですが、現在ミャンマー軍により軟禁されているアウン・サン・ス-・チー女史のお父さんに当たる人です。1930年代後半にイギリスは独立運動の大弾圧を始め、オン・サンは独立蜂起のため日本へ亡命しました。


同じ頃イギリス・アメリカは日本への敵視政策を取り、日本と敵対関係にあった蒋介石軍に多大な軍用物資の援助をおこなっていました。それを運ぶ道程がイギリス領ビルマを通って中国に入るビルマルート、いわゆる「援蒋ルート」でした。早く蒋介石との戦争状態を終わらせたい日本にとっては、このビルマルートを遮断することが不可欠の問題となってきたのです。


そこで日本はビルマ青年たちを支援し、イギリス勢力を追放するため、ビルマ独立を達成しようとしたのです。1940年、日本陸軍は鈴木敬司大佐をビルマに派遣、オン・サンらを救出し、大佐の故郷である浜松に亡命させます。そして、鈴木敬司大佐を機関長としたビルマ独立のための「南機関」が誕生するのです。


「南機関」の活動計画は、独立運動の中核となるビルマ人志士30人を、ひそかに日本に脱出させ、彼らに武装蜂起に必要な軍事教育をすること。その教育訓練の終わったビルマ人志士を、再びビルマに潜入させ、反イギリス運動を起こし、ビルマ独立政府の樹立を宣言すること。蒋介石を支援するビルマルートを遮断することにありました。このときの彼らこそ後にビルマの独立と建国の英雄として仰がれる「ビルマ30人志士」になります。


1941(昭和16)年、大東亜戦争の開戦とともに、タイのバンコクで30人志士を中心に「ビルマ独立義勇軍」が結成されました。日本軍による厳しい訓練を受けた青年たちは独立ビルマを象徴する孔雀の旗を掲げて、ビルマ独立を誓い合ったのです。義勇軍の司令官には青年たちが心から慕う鈴木敬司大佐が就任しました。もちろんビルマ民衆は歓喜して彼ら義勇軍を迎え、その協力もあって3ヶ月で首都ラングーンを陥落させ、イギリス軍を敗走させてしまいます。そして日本の軍政を経た後の1943年8月1日、ビルマはついに独立を宣言したのです。


そのとき外相に就任したウー・ヌーは次のように演説しました。「歴史は、高い理想主義と、目的の高潔さに動かされたある国が、抑圧された民衆の解放と福祉のためにのみ生命と財産を犠牲にした例をひとつくらい見るべきだ。そして日本は人類の歴史上、初めてこの歴史的役割を果たすべく運命づけられているかに見える。」


しかし日本と同盟を結んで米・英に宣戦布告したビルマにも、日本の敗戦が色濃くなってきた頃、日本と離れてイギリスと結ぶべきだとの声が高まってきます。日本と一緒に敗戦国になって、再びイギリスに占領されるのを怖れたのです。それまで日本とともに闘ってきた30人志士たちも動揺します。一部の青年は日本を裏切ることは恩義に欠けるとして自決してしまいました。けれどもオン・サンは「反日に立つのは、ビルマを生き残らせるための唯一の方法」であるとして1945(昭和20)年3月、ついに日本に反旗をひるがえすのです。この決断によって、日本軍はビルマから撤退し、代わりにイギリス軍が戻ってきました。


再び植民地支配を目指すイギリスに対してオン・サンは日本軍に育てられた10万人の義勇軍を率いて、イギリスと独立交渉をします。もう昔の従順なビルマ人ではなかったのです。

そしてついに1948年1月4日、イギリスのアトリー内閣が独立を承認し、ビルマはようやく独立を達成したのです。


その20年ののち、バー・モウは『ビルマの夜明け』と言う著書を発表し、この本がイギリスでも出版されることになりました。このとき「ロンドンタイムス図書週報」1968年5月23日号ではこの本について次のように紹介しています。


「ビルマを長い植民地支配から解放した者は誰か。それはイギリスでは1948年、アトリー首相の労働党内閣だということになっている。しかし、バー・モウ博士はこの本の中で全く別の歴史と事実を紹介し、日本が第二次世界大戦で果たした役割を公平に評価している」とし、序文の一部を引用しています。それは「真実のビルマの独立宣言は1948年の1月4日ではなく、1943年8月1日に行われたのであって、真のビルマ解放者はアトリー率いる労働党政府ではなく、東条大将と大日本帝国政府であった」というバー・モウの歴史観を現した一文でした。

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なお、この記事も「教科書が教えない歴史」を抜粋・加筆させていただいたものです。

http://www.jiyuu-shikan.org/faq/index.html


昨日はあまりにも沢山のテーマを一挙に書き過ぎてしまいました。いわゆる「とりとめがない」状態ですね。あれでは読む方にも伝わりにくいと思いましたので、ひとつずつテーマを絞りながら書き続けたいと思います。


これを書く目的は、排他的ナショナリズムを高揚させるものではなく、できれば両国との友好を深める道を探す事と、日本人としての誇りを再確認するためのものです。多少過激な表現等もあるかもしれませんが、ご容赦いただければ幸いです。


まず「あの戦争」についてです。

中国・韓国からの非難に目を奪われがちですが、

他の国はどのように考えているのでしょう。

今日はインドネシアです。


16世紀のヨーロッパ列強の帝国主義はその波をアジアにまで拡大させ、オランダがインドネシアを治めることになりました。以後350年間インドネシアは植民地として統治されることになりました。計算されつくした統治術によりインドネシア民衆は「独立」する考えも気概も失っていました。


ところが、昭和17年3月(1942年)に日本軍が進駐し、わずか9日間でオランダ軍を全面降伏させたのです。加えてオランダにより流刑されていたインドネシア独立運動の指導者であるスカルノ氏ハッタ氏を獄中から救出し、日本軍への協力を求めました。日本が敗戦するまでの3年半違った軍政が実施されましたが、果してどのようなものだったのでしょう。


インドネシアの中学3年生の歴史教科書を見ればよくわかります。


「日本の占領は、後に大きな影響を及ぼすような利点を残した。第一に、オランダ語と英語が禁止されたので、インドネシア語が成長し、使用が広まった。日本軍政の3年半に培われたインドネシア語は驚異的発展をとげた。第二に、日本は青年達に軍事教練を課して、竹槍、木銃によるものだったとはいえ、きびしい規律を教え込み、勇敢に戦うことや耐え忍ぶことを訓練した。第三に、職場からオランダ人がすべていなくなり、日本はインドネシア人に高い地位を与えて、われわれに高い能力や大きい責任を要求する、重要な仕事をまかせた。…」


独立を約束していた日本が連合国に破れ、欧州列強は再占領するために戻ってきましたが、スカルノ氏とハッタ氏は昭和20年8月17日(1945年)独立宣言文を民衆の見守る中で読み上げました。この宣言文の日付も興味深いものがあります。「17-8-‘05」と記されていますが、これは日本の「皇紀」で昭和20年が2605年に当たるためその下二桁を取ったものです。(バリのお土産屋さんにはこの「皇紀カレンダー」がまだ売られています。)


独立宣言をしたとはいえ、欧州列強から勝利を勝ち取らなければなりません。独立を約束していながら敗戦によりそれが不可能になったため、日本軍の多くの兵士は現地に残り民衆の先頭に立って戦いました。独立戦争は4年間に及び、80万人の犠牲者が出る中、日本兵も約半数が命を落としました。命をささげた日本兵は独立の英雄として国立英雄墓地に祀られています。


インドネシアの独立記念日には、インドネシアの男女2名に日本兵の服装をした1名の3名で国旗を掲揚します。これを見ても日本の果たした役割を理解できるというものです。敗戦後日本はインドネシアに賠償金を払いましたが、国会議長のアルジ・カタウイナタ氏(祖国国防義勇軍の大団長)の談話があります。「独立のお祝いとして賠償金をお支払いください。日本は悪い事をしたから賠償しろというのではありません。」


中国の政府発表に「東南アジアで犯した戦争責任」という表現があり、新聞等で目にしますが、このような歴史的事実を知ると、少なくとも「東南」のうち「南」は含まれないことがわかります。これから記事にする他国での歴史的事実を知る事でそれは確信と変わることを予言しておきます(笑)。お楽しみに。

 

なお、記事の内容については「教科書が教えない歴史 」から引用させていただきました。

対中・対韓関係について


この記事を書くに当たって「靖国問題」から調べ始めましたが、いろいろな方のブログや様々な論文等に触れるに従い、自分の不勉強を恥じると同時に、中国・韓国の異常とも言えるほどの外交戦術を知りました。平和な日本にはこの問題に関して私と同じかそれ以下の意識しかもたない方が多くいます。ひとつ間違えば国家的危機にもつながりかねない状況をみんなで考えたく思い記事にすることにしました。同意いただく方や反論される方によりこれからの日本の歩む道の方向性の一端を模索したいと考えていますので活発な議論のためのコメントをお待ちしております。


「弱腰外交」と言われて久しい日本の対外政策ですが、最近は特にそれが目立つようになってきました。中国との東シナ海の海底油田開発問題や逃亡した韓国船の後処理の問題などを見ていると、歯痒い思いを感じざるを得ません。この歯痒さの不快感をなくするためにはどのようなことが必要なのでしょう。


その前に両国との良好な関係をキープするのにまず不可欠なことは「靖国問題」をどう解決するかということです。両国は首相による靖国参拝に対して異常ともいえるほどのこだわりを見せて非難を続けています。ところが、彼らの目的が靖国参拝を阻止する事でないのは明らかで、単純にこれが日本を政治的に非難するのにとてもわかりやすいことだからなのです。


もし仮に中曽根前首相のように小泉首相が参拝をやめたとしても、中国は「南京」韓国は「慰安婦」をそれぞれ掲げ、同じように「過去の清算!」と叫びながら日本に対する非難を継続のは間違いありません。結局日本に頭を下げさせ政治的に有利な立場を得ることで、今後の外交戦略を自国に益する形で展開したいというのがミエミエなのです。また、日本人の精神的支柱である神道の形式を変えるということは、自国文化を捨て去ることですから何があっても小泉首相は今のかたくなな形を継続すべきだと考えています。終戦記念日に参拝してもいいくらいです。


私はこの素晴らしい日本が大好きな一国民です。そんな私は、今の日本人が失おうとしている「日本人としての誇り」を失ってまで両国に頭を下げたくはありません。これまで十分に国として謝罪したはずですからね。それに加え、「南京」「慰安婦」のふたつの問題も、精査すると彼らが歴史を「捏造」している箇所が多いことは明らかで、そのような「悪意」に満ちた外交戦略の前に屈するということは、日本の輝かしい将来を自らが投げ出してしまうことになる懸念があります。


戦後日本は両国からの非難を真摯に考え、それ相当の形で答えてきたはずです。「理不尽な非難」「自虐的な改悛」の構図はまるでSMショーの様にも見えます。東南アジアで日本に対する非難を継続しているのはこの2国に「北」を含めた3国だけです。他の国の「戦後」はすでに完了しており、国によっては、欧州列強から独立する時に「極悪非道な日本軍」による多大な戦力・物資援助があったためそれが早まり、日本に対し感謝を表している国もたくさんあるのです。それらの「いい戦中史」も含めて日本政府は自国民に対し何も包み隠す事もなく堂々と説明すればいいのにそれを怠ってきました。それに加え○○新聞などに見られる一部左翼系エセインテリの書きたい放題が、両国からの非難を事実だと「誤解」して「誇り」を失くす日本人が増やすことにつながっているのです。そりゃそうです。後ろから後頭部めがけて矢を射られるようなものなのですから。


人口が30万人しかいなかった南京でどうしてそれを超える数の虐殺が可能なのか?

ということを筆頭に中国が公式に発表している「南京問題」には数限りない疑問点が浮上しています。戦争中ですから大量殺戮の事実は確かにありますが、客観的事実からその縺れた紐を解くと、そこには「捏造」という言葉がここかしこに見えます。その「捏造された歴史」をベースに中国各地に「記念館」が建てられそこに何度も訪れさせたり、捏造された事実が書かれた教科書で「反日教育」が戦後60年に渡り堂々となされています。この教育は政権に対する不満分子の矛先を日本に向けることが目的であり、それに対して日本は言われるがまま謝罪を続けているのです。


戦時中の兵士に支給されていた金額の数倍~数十倍にもなる「お手当て」を得て、あの時代に家まで建てることができた「女性たち」が、はたして戦争の犠牲者だったのでしょうか?それとも自ら望んだ単なる「高級娼婦」だったのでしょうか?「娼婦」として女性を取り扱ったことは非難されてしかるべきですが、軍が人さらいのように連れて行ったという事実はありません。小野田寛郎さんはあくまで「商売」として成立していたと分析されています。金銭的にいい思いをした者が国の扇動により被害者面をして日本を非難する姿はどうも解せません。その方向に持っていかされるような日本の朝○新聞の責任もあるんですけどね。


これらの疑問に対する答えは歴史的事実の中にしかなく、それをきちっとした形で国内外に示すことで他国の理解を得、それに基づいて対応しなければ、「捏造」された歴史を根拠とした日本に対する非難は止むことはなく永遠に続くでしょう。


ワールドカップ・ヨン様フィーバー・韓流ブームなど民間レベルでいい関係が構築され始めているにもかかわらず、「竹島」や「泥棒漁船」問題であれほどまでに態度を硬化させ理解不能な声明を出す韓国。


「抗日デモ」を容認したのに、良好な経済関係に悪影響が出ると見るや否や損傷を受けた大使館の「謝罪なき損害賠償」に応じ、支払いはなされるのに「国ではなく民間による賠償」とうそぶく。そしてその間に着々と東シナ海での油田開発を進める中国。


どこかの新聞にもありましたが「誠」をもって何十年も対処してきたにも拘らず、一切それに対し理解を示さず「不誠実」な対応をする両国と、これからも何度も何度も「ぶたれる」のを覚悟で付き合っていく必要があるのかどうかを考えると、その方向を転換する必要があるのかもしれないと考えています。


中国市場の経済成長に対する魅力は理解できますが、これ以上あちらが今の対応を継続するなら、国をあげて中国市場から撤退し(韓国も同様に)することもひとつの考え方です。日本が敗戦したことで独立に拍車がかかった親日的で巨大な国であるインドインドネシアにシフトするのもひとつの方法かもしれません。輸送コストが少しアップしますが、優秀な頭脳を持つ国民と豊富な資源を持つ国との関係が深まります。


3兆円以上の巨額なODAを出し続けても理解の一端も示そうとしない「性悪(この場合はしょうわると読みます)国家=中国」に対する経済政策は即刻転換すべきだと考えます。そのODAは変質して軍事力増強にも当てられているなどどいう推測も一部でなされていますから。その軍事力で尖閣周辺に出没して脅威を与えられているんですからね。もう敵に塩は送る必要など皆無ではないでしょうか。


わが国の進む道は、中国・韓国・北朝鮮の3国を除く他の親日的なアジア諸国にもっと手を差し伸べて(経済援助・企業進出・技術移転等)その上で日本をちゃんと理解してもらい、朝鮮半島は拉致問題を除いてアメリカに任せ、手も口も金も出さない形にもっていくよう世論を高めていくのが最善だと思います。今の対応が続くようであれば「関税引き上げ」のような形で「政冷経冷」も辞さずという対応もできます(あくまで最後の手段ですが)。


この問題に無関心だった多数の人たちも、彼らの度重なる「無礼」さとネットから歴史的事実を学ぶ事でより高い愛国心を持ち始めている今、意外にこの方向性は王道(決して覇道ではありません・笑)に近いと思うのですがいかがでしょう。




メンテナンス明けのトラックバックステーションのお題。

「癒し系の音楽といえば?」

ふっふっふ・・・・・

 

CELDEKAIRO(セルデカイロ)  

  

もう、ぴったりはまりすぎです(笑)。

このブログも元々は彼らの応援のために始めたものです。

1月の寒い夜、新橋のストリートで出会ったのが最初でした。

 

大きな空の下 君が果てしない大地の上で
自分らしい道しるべを いつか歩き出すよう
どんなに強い風にも 怯まないこころでいれば
ほら咲いた ほら咲いた 誇らしく咲けるんだ
凛々と咲く花のように 明日を追うまなざしは力強く
凛々と咲く花のように あぁ君に輝きあれ
 
どんなに負けそうでも どうか自分を信じていてほしい
生きることの辛い過去や 苦しさをこぼすまえに
小さな名もなき僕らにも 始まりが ひかりがあるから
ほら咲いた ほら咲いた 誇らしく咲けるんだ

凛々と咲く花のように だから君の涙は美しい
凛々と咲く花のように 僕たちに輝きあれ

 

(凛と咲く花のように)

 

 

寒い風も忘れるような透明感のある声でした。

それとうまくマッチする優しいギターの音色。

それまで、ストリートライブで足を止める事はあっても

聞き入ることはほとんどなかったのですが、

どういうわけかずっと聞いていたくなったんです。

 

私と同じ感覚を持ったあるミュージシャンがいます。

その方もアメリカで起こった「9・11」の日に

池袋のストリートで耳にして心を動かされたとのこと。

それがきっかけになり、なんとプロデューサーとして

彼らを世に出すべく粉骨砕身の努力をされています。

 

森友嵐士(元T-BOLAN)がその人です。

 

さよなら涙もなくて 何度も恋を傷つけた
誰かのためにすべてを 失うことさえいいと思えたら
ぬけがらのような僕を 君は強く抱きしめた
世界で一番やさしい声を ぬくもりから聞きました
 
ひとつただひとつの恋だから
何もない僕の心に色をくれた
君のためになにができるかな
初めて知った恋模様

 

(僕の心に色をくれた)


HPではファーストアルバム「KAIRO」を試聴できます。

http://www.axel-gee.com/cel-de-kairo/word/index.html

恋に悩む人、人生に迷う人の道しるべになります。

一度聞いてみてください。

 

独りきりの夜 窓にあなたの
名前を書いて映し出す私の涙に変わる
最終列車あなたから 遠くなっていく
この想いと体が引き裂かれていく
 
私さよならばかりの恋だから 
とぼけたふりして出て行くわ
旅立つ私をせめないで
私さよならばかりの恋だから
恋に落ちる仕草が怖いから
旅立つ私をせめないで 抱きしめて

 

(さよならばかりの恋だから)

   

時間があれば携帯サイトで調べて一度ライブをお聞きください。 

http://diary1.fc2.com/cgi-sys/ed.cgi/cel-de-kairo/


池袋西口公園や品川港南口でストリートライブ中です。

いくら言葉を重ねてもその良さはライブに優りません。

トレンチおじさんが言うんだから間違いないです(笑)。 

  
では、どこかのストリートでお待ちしております。

 

コンフェデレーションズカップはブラジルの4大会ぶり・2度目の優勝で終了しました。なんといっても決勝戦は圧巻でしたね。アドリアーノ・カカ・ロナウジーニョ・アドリアーノのそれぞれの得点シーンを見ることができました。それはまるで高級料亭で贅沢な食事を一皿ずついただいているようで、本当におなかいっぱいになりました。開催地がドイツであったために放映時間が朝方になることが多く、寝不足の方も多かったのではないでしょうか。お互いにお疲れ様でしたね(笑)。

 

MAN of the MATCHロナウジーニョが受賞しました。彼の本名はロナウド・アシス・モレイラでFWの大五郎カットのロナウドと区別するためにロナウジーニョ(ロナウドジュニア=小さい方のロナウド)と呼ばれるようになりました。生まれはリオグランデ・ド・スル州でジュビロにもいたドゥンガと同じ出身です。

 

今日は彼の写真を中心に掲載します。彼のプレーは見た目は決してカッコよくはありませんが、華麗なプレーがサッカーファンの目を釘付けにします。そしてあれほど楽しそうにサッカーをしている選手は他に見当たりません。それはブラジルの貧しいストリートで培われたもので、サッカー大好き小僧は友達が疲れた後でも犬を相手にずっと練習を続けていました。その頃のある試合で20得点したことから注目を浴びるようになり、その後は順調に1997年のU-17代表に選出されるまでになり世界から大きく注目されることになります。

 

 

 

  

1999年のコンフェデ杯メキシコ大会では得点王、日韓共催ワールドカップではベストイレブンに選ばれ、2004年にはFIFA年間最優秀選手に選ばれるまでになり、今では子供達を含めた世界中のサッカーファンを最も興奮させる選手であることは誰も否定できないでしょう。ほんとうに素晴らしい選手ですが・・・それにしてもあの神業的ドリブルの最中に見せる「ガニ股」を見て「ドジョウすくい」を思い出すのは私だけではないはず・・・(笑)。

 

 

 

 

なお写真は全てFIFAのサイトから転載したものです。

http://fifaworldcup.yahoo.com/06/en/index.html

 

 

 

参考までに各試合のMAN of the MATCHは以下の通りです。

 

ブラジル4:1アルゼンチン ロナウジーニョ/ブラジル

ドイツ4:3メキシコ バラック/ドイツ 

メキシコ1:1アルゼンチン ザネッティ/アルゼンチン

ドイツ2:3ブラジル アドリアーノ/ブラジル

日本2:2ブラジル 中村俊輔/日本

ギリシャ0:0メキシコ サンチェス/メキシコ

アルゼンチン2:2ドイツ リケルメ/アルゼンチン

オーストラリア2:2チュニジア サントス/チュニジア

ギリシャ0:1日本 中村俊輔/日本

メキシコ1:0ブラジル サンチェス/メキシコ

オーストラリア2:4アルゼンチン 

フィゲロワ/アルゼンチン
チュニジア0:3ドイツ バラック/ドイツ
ブラジル3:0ギリシャ ロビーニョ/ブラジル
日本1:2メキシコ ジーニャ/メキシコ
ドイツ4:3オーストラリア バラック/ドイツ
アルゼンチン2:1チュニジア リケルメ/アルゼンチン 
 

なお今回2度受賞している選手は
中村俊輔
サンチェス(メキシコ)
バラック(ドイツ)
リケルメ(アルゼンチン)です。
俊輔、おめでとう!

 

http://fifaworldcup.yahoo.com/06/en/c/mom.html

このページにはそれぞれの選手雄姿の壁紙がありますから

熱狂的なファンの方は行ってみてはいかがですか?

タイトルを見ただけで何やら不穏な気配がしてしまう言葉。

 

「逮捕」

 

いやですよね、この文字。一生消えない烙印を押されるようで。

この感覚はみんな似たようなものを持っているらしく、面白いニュースがありました。


「逮捕する」効果てきめん 反則金納付、アクセス急増

 

「出頭しなければ逮捕する」と悪質ドライバーの逮捕予定を事前公表した大阪府警で反則金納付が急増し、納付方法を解説したホームページへのアクセスが通常の250倍に急増したことが28日、分かった。
 「逮捕されてはかなわない」と出頭したドライバーも2人現れた。府警交通指導課は「予想以上のすごい効果」と驚いている。
 府警は今月21日、再三の出頭要請に応じず、反則金を払わないなど悪質なドライバー124人について「1週間かけて逮捕状を一斉に執行するが、出頭すれば任意捜査に切り替える」と発表。報道を通じ出頭を呼び掛けた。

(共同通信) - 6月28日18時28分

 

違反切符を切られているにもかかわらず、反則金の支払いをしない「不届き者」が多くなっています。取り締まる方も厳しいチェックをしないためにますます「厚顔」になり、何度も違反しては無視することを繰り返す「厚顔族」になってしまっています。

 

「単なる」駐車違反やスピード違反という認識はまるで「万引き」に対する感覚のようです。どちらも法律を犯しているわけですから厳しく取り締まり、反則金も厳しく取り立てるべきだと思うのですがちゃんとやっていなかったのでしょう。それに加え「罪を憎んで、人を憎まず」という日本独特の考え方が彼らの甘えを助長していたと思います。

 

以前、大阪を舞台とした「迷惑駐車」撲滅の政府広告がありましたね。

 

私だけちゃうやんか~」と叫ぶオバちゃん。

頼むさかい、堪忍してえなぁ」とすがるオヤジ。

 

私も高校1年まで大阪にいましたからあの厚かましさはよくわかります。「ダメ元」でもとりあえず口にしてみて、ひょっとしたら見逃してくれるかも・・・という淡い期待もあるのでしょうね。数万円の反則金がかかった大勝負ですから(笑)、演じ方も半端じゃないですね。


で、その叫びが現場で通じなくても、「ダメ元」感覚は継続され「言われるまで支払わない」という行動に変化します。知り合いも同じようにしていますから、つい「みんなで渡れば怖くない」というようになって、その数はとんでもなく多くなっていたのでしょうね。

 

それに対し厳罰である「逮捕」に踏み切ると予告した途端・・・一応対象は124人だったんですが・・・納付方法が書かれているHPのアクセスが250倍??「隠れ厚顔族」のみなさ~ん、ちゃんと反則金を納めないとあなたも・・・

 

「逮捕しちゃうぞ!」(笑)

 

 

ひとつ気になることは、昨今のお笑いブームに乗ってその厚かましさが全国に広がっていることです。こうなったら全国レベルで同じキャンペーンを張ればどうなんでしょうね。これを読んでいるあなた、ちゃんと納めていますか?

 

えっ?私ですか?

ふふふ、その心配ないんです。

今は車には乗っていませんから(笑)。


【北京=野口東秀】中国中部の安徽省池州市で二十六日、一万人の群衆が交通事故をきっかけに暴徒化し、パトカーや派出所を破壊したほかスーパーを襲撃する騒ぎとなった。鎮圧に出動した武装警察隊員六人が負傷、警備当局は首謀者として参加者十人を拘束した。
 中国国内では、地方住民が警備当局と衝突する大規模な事件がこのところ相次ぎ発生。今回の事件も、ささいなきっかけで騒乱に発展する中国社会の不安定ぶりを示すものとなった。
 地元紙「池州日報」などによると、きっかけは乗用車が歩行者をはねたうえ、被害者が運転手から暴行されたことだった。市民の通報で警官が派出所に運転手を連行したが、群衆が派出所を取り囲み、人数は一万人近くに膨れ上がった。

 
 このうちの「少数の不法分子による扇動」で群衆が騒ぎ始め、乗用車をひっくり返したほか、パトカーや消防車にも襲いかかり、派出所にも放火した。近くのスーパーも襲撃され、商品が略奪される事態となった。
 地元当局は事態の拡大を重視、市幹部の緊急会議を開催。交通事故発生から九時間後に武装警察部隊約七百人を出動させてようやく鎮圧した。これまでのところ、騒ぎの理由に関する住民側の情報は伝えられていない。
 最近明らかになった中国国内の騒乱では農地の強制収用をめぐり、農民と工事関係者らが衝突するなどのケースが多い。今月だけでも、河北省で立ち退きの補償金をめぐるトラブルで、村民らが猟銃などで武装した二百-三百人の集団に襲撃され、五十人以上が死傷。広西チワン族自治区でも、立ち退きを拒否する住民と警官隊が衝突し、多数の死傷者が出ていた。

(産経新聞) - 6月29日2時57分

 

ここからしばらく日中・日韓問題を取り上げようと思っているのですが、週末からアメブロが長期メンテナンスに入るため、来週からにしたいと思った矢先にこんな暴動が起きています。

 

このような中国国内のニュースを目にするたびに、彼の国は「三国志」の時代から何も変わっておらず、どこの国にでもいるであろう不満分子が、他の国に比べて非常に好戦的だなぁ、と思います。

 

先日の抗日デモにしても、ピクニック気分で参加した市民がインタビューを受けていましたが、集団ヒステリーの状態になることが非常に多く、それだけに中国当局の統治能力が限界に来ているのを感じざるを得ません。

 

その爆発しやすい民衆の怒りの矛先を、「捏造」された対日史観をベースに日本に向けようとする意図はミエミエであり、靖国・尖閣問題など「衆愚」でも理解しやすい題材を国際政治問題レベルにまで高めています。

 

それに対して、平和な日本の国民は「周辺国への配慮」を考える人が多く、本当に「お人よし=世間(世界)知らず」だと思うばかりです。相手国民の思考回路と行動パターンをしっかりと認識すればもう少し強硬な意見も増えるのでしょうが、直接被害にあったことが無い限り相手を信じようとする国民性が裏目にでる前に、中国や韓国の実際の姿を認識すべきだと強く思う・・・・けふこのごろ。

残るはブラジルvsアルゼンチンを残すだけになりましたが、日本代表の成長の姿を見ることができたいい大会になりました。残念ながら予選で敗退したものの、FWの決定力や中盤のパス回しなどは個々のモチベーションの高さから成長のあとが見られたのは喜ばしい事です。

 

何日か日本戦を中心にして写真をアップしたのですが、いろいろな方から感謝の言葉をいただきました。あの写真はFIFAの英語のサイトから転載したものですが、見つけたのはたまたまでした。日本がギリシャに勝利してブラジル対メキシコ戦の結果が気になり、ライブで試合経過を知りたいと思った時に見つけたものです。

 

その時にかなりの枚数の写真があることを知ったのですが、いかんせん時間の経過を無視した形で並べてありました。そこは「マメ」なトレンチおじさんです(笑)。全部の写真をダウンロードして、1記事あたりの画像枚数制限の10枚ずつにまとめました。どちら向けに攻めているのか、交替した選手が写っていないかなど矛盾がないように並べました(でも2枚くらい矛盾があるかも・・・当ててみてください)。自分が今見ても震えがくるくらい興奮できるものを残せたので満足しています(笑)。

 

FIFAのサイト ではチーム別に写真を見ることができますので、海外のチームにも興味がある方は一度行かれるのも面白いと思いますが、あれだけ英語が並んでいると(当たり前ですが)うんざりしますよね。そこで今日はチーム別の写真集のURLを紹介したいと思います。サイト内で国名をクリックするとその国のページが出てきます。ページ中段の写真の下

 

More Team Photos | Slide Show  

 

とあります。これをクリックするとアルバムの中に入ることができます。「Slide Show をクリックするとスライドショーで写真を楽しむことができます。写真が変わるスピードもコントロールできます。ぜひお楽しみください。

 

えっ?探すの面倒ですか?

 

しょうがないなあ・・・。

じゃあ・・・・・

 

ページに入ると上段に次のような表示があります。

 

1-9 of 225     < Previous | Next >     Slideshow  

 

この一番右の「Slideshowをクリックするとスライドショーになり、

写真も大きくなりますからみ見やすくなります。

 
 

(日本)225枚 http://fifaworldcup.yahoo.com/06/en/c/photos/jpn.html

(ブラジル)300枚 http://fifaworldcup.yahoo.com/06/en/c/photos/bra.html

(アルゼンチン)300枚 http://fifaworldcup.yahoo.com/06/en/c/photos/arg.html

(メキシコ)300枚 http://fifaworldcup.yahoo.com/06/en/c/photos/mex.html

(ドイツ)300枚 http://fifaworldcup.yahoo.com/06/en/c/photos/ger.html
(ギリシャ)199枚 http://fifaworldcup.yahoo.com/06/en/c/photos/gre.html

(チュニジア)182枚 http://fifaworldcup.yahoo.com/06/en/c/photos/tun.html

(オーストラリア)173枚 http://fifaworldcup.yahoo.com/06/en/c/photos/aus.html  

  

これならどうでしょう(笑)。






昨日書いたアクセス解析についてとても不思議なことがあります。

アメブロではランキングの中で訪問者数が表示されますが、その数とアクセス解析で出てくる数字に隔たりがあるのです。昨日すでに解析のバナーははずしましたので(あっ、外されたんだった・・・笑)具体的にどのくらいかわかりませんが、今までの経験では数十人の差がありました。

 

訪問者数が取り扱う会社によって違うというのもおかしな話でですが、ブログを始めた人にとってランキングや訪問者が多いことは嬉しい事ですから、そのあたりの「作為」が入っているのかもしれませんね。ただ、ランキングの伸びもとても不思議な動きになることが多いです。実際に私のブログへの訪問者を例にとってみます。

 

順位は訪問者数・総合ランキング・ジャンルランキングの順です。

6/18 132人 1737位 54

6/19 114人 1716位 54

6/20 365人 1520位 41

6/21 186人 1479位 41位 ←?

6/22 221人 1418位 39

6/23 153人 1408位 38位 ←?

6/24 829人 1106位 29

6/25 276人 1068位 27位 ←?

6/26 264人 1035位 25位 ←?

 

620日と24日に爆発しているのは、FIFAのサイトから写真を転載した記事を多数書いたからです。特に24日はブラジル戦をアップしましたので信じられない訪問者数です(笑)。通常は100人くらいですが、あれほどいい試合もこれから先あるかどうかわかりませんから、この数字が自己最高記録となるでしょうね(笑)。

 

それにしてもよく見るとおかしいところがありますよね。2021日で訪問者が半分くらいになっているのに総合ランキングは上昇し、ジャンルランキングは変わらず。2223日も訪問者が3分の270名減)なのにどちらのランキングもわずかに上昇しています。800人の訪問者があっても29位がやっとなのに、2526日は300人に届いていないのに順位がジリジリ上がっています。どうもよくわかりません。

 

そう思って20日の音楽ジャンルの上位50位の中で解析ツールを使っている人の訪問者数を比較してみました。忍者ツールというのが多かったのですが・・・これも摩訶不思議な現象になっています。まあとりあえずご覧ください。

 

項目はジャンルランキング・総合ランキング・訪問者数・解析ツールです。

10位  474位 227人 XREA

21位  870位 146人 忍者ツール

28位 1108位 152人 忍者ツール

30位 1155位  13人 XREA

34位 1320位  57人 忍者ツール ←?

35位 1351位  63人 忍者ツール ←?

36位 1380位 110人 忍者ツール

41位 1520位 365 アメブロ(私)

50位 1661位 137人 忍者ツール

 

なんじゃこれは?(笑)

同じ解析ツールを使っているのに・・・。

訪問者数という事実はひとつだけなのに、

取り扱う組織によって変わってしまうんでしょうか?

どなたか納得できる説明ができる方おられますか?

 

いずれにしてもこれ以上の上位は狙えないですね。

思い切って「エロ」路線にしない限り・・・(笑)。

そりゃ無理です。子供達も読んでいますから。

一度くらい1000位を越えて3ケタの順位にならないかな。

それで十分です(笑)。