きょうは マレーシアでのお話です。
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1991(平成3)年12月、マレーシアのコタバルを首都とするケランタン州政府は、日本軍の上陸50周年を記念して特別式典を開催し、さらに戦争博物館を設立しました。その館長でケランタン州副知事のロザリー・イソハック氏はこんなふうに言っています。
「1991年、私達は日本のコタバル上陸50周年を祝いました。これがケランタン、つまり当時のマラヤにとって、意義ある出来事であったからです。ここコタバルは、日本軍最初の上陸地です。私は、戦争博物館の館長として記念行事を担当しましたが、多くの人がこの重要な出来事を、長く記憶に留めていただきたいと願っています。」
50年前といえば、1941(昭和16)年の12月。同じ年の12月8日は“戦争を始めた日”としてなんとなくマイナス・イメージを持たされており、アジアへの侵略や現地住民の虐殺などが報道されています。しかし当のマレーシアでは日本軍の上陸を祝って記念式典が行われていたのです。なぜ日本軍のマレー上陸がマレー人に祝福されるようなことなのでしょう。
1941(昭和16)年12月8日、日本軍は真珠湾のアメリカ軍艦隊を攻撃すると同時にマレーシアに上陸し、さらにマレー沖のイギリス東洋艦隊に攻撃をしかけました。ことにイギリスの誇る世界最新鋭の戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスという2隻を航空機による爆撃で撃沈したことは、世界戦史上、前例のないことでした。この衝撃的な知らせを受けた当時のイギリス首相チャーチルは「戦争の全期間(第二次世界大戦)を通じて、わたしはそれ以上の打撃をうけたことはなかった。いかに多くの努力と希望と計画が、この2隻の軍艦とともに沈んでしまったか。ベッドのなかで寝返りを打ち、身もだえするわたしの心にこのニュースの持つ恐ろしさがしみこんできた。」(チャーチル『第二次大戦回顧録』)と書いています。
そして、150年以上にわたるイギリスの植民地支配に苦しめられていたマレー人は半島を進撃する日本軍を心から歓迎し、食糧を提供し、ジャングルの地理案内をし、軍需物資の運搬まで手伝ってくれました。当時16歳だったラジャー・ダト・ノンチック元上院議員はこう言います。「私たちは、マレー半島を進撃してゆく日本軍に歓呼の声を上げました。敗れて逃げてゆくイギリス軍を見たときに、今まで感じたことのない興奮を覚えました。日本軍は永い間アジア各国を植民地として支配していた西欧の勢力を追い払い、とても白人には勝てないとあきらめていたアジアの民族に、驚異の感動と自信を与えてくれました。」
このような現地の人々の支援もあって、日本軍は60日間の激戦の末、イギリス軍のアジア最大の要塞、シンガポールを攻略します。1942年(昭和17)2月15日、ついにイギリス軍は降伏し、150年におよんだイギリスのマレー支配は終わりを告げたのです。フランスのドゴール将軍はこの日の日記に「シンガポールの陥落は白人植民地主義の長い歴史の終焉を意味する。」と記していますが、本当に歴史的な日であったといえるでしょう。
さてイギリス軍を追い払ったあと、日本軍はマレーの青年教育に力を注ぎました。1942年5月シンガポールに「昭南興亜訓練所」を開設し、マレーのすべての民族から優秀な青年を招いて心身共に訓練をしました。これはのちにマラッカの「マラヤ興亜訓練所」に引き継がれ、1000名を越える卒業生を送り出します。この卒業生の大半がマラヤ義勇軍、マラヤ義勇隊の将校となり、マレーシアの独立と、その後の新しい国づくりの中核となりました。
ノンチック氏は言います。「新国家マラヤ連邦の建国の基本策と具体策は当時のマレー人青年の日本グループによって進められたと言っても過言ではありません。あの当時の国家計画庁本部は、昭南、マラヤの両興亜訓練所や日本に留学した南方特別留学生の同窓会の雰囲気でした。」
また、日本の軍政部がそれまで西欧人専用だったクラブやプールなどを、肌の色にかかわりなく一般に開放するなどの政策をとり、「民族の平等」を掲げたことは、マレーの人々の間にあった白人に対するコンプレックスを取り除き、“自分たちの祖国を自分たちの国にしよう”という独立心を目覚めさせました。
しかし、その3年8ヶ月後の1945年8月15日に日本軍は連合軍に降伏してしまいます。その結果、またイギリス軍が再びマレーを占領し、植民地にするために戻ってくるのですが、マレー人は以前の従順なマレー人ではなくなっていました。
マラヤ大学の副学長のウンク・アジス氏は「日本軍がもたらした『大和魂』のような考え方をもつことは、独立のためにどうしても必要でした。日本軍政下の訓練の結果、日本が降伏した後、英国人が戻ってきて植民地時代よりも悪質な独裁的制度をマレーシアに課そうとしたとき、人々は立ち上がったのです。」と言い、またマレーシア外務省情報センター所長のニック・モハマド氏は「これまで独立なんて考えたこともなかったので、徐々に植民地にされたのですが、日本の軍政下で反植民地主義に目覚めたのでした。民族意識は若者に影響を与え、彼らはもはや怠けてはいませんでした。皆、立ち上がったのです。これまでになかった大変貴重な3年と8ヶ月の経験でした。」と言っています。
マレーシアというのは複雑な民族構成で成り立っています。それはマレーが良質の錫を産出することからイギリスがこの錫を採取するための労働力として大量の華僑を移住させたからなのです。そしてそののちイギリスとマレー人の間にあって経済活動を握り、搾取階級となった華僑は、イギリスを駆逐し、自らの利益を剥奪してしまうような日本軍の進撃を喜びませんでした。むしろその権益を守るために、イギリスに協力して抗日ゲリラ活動を行ったのです。また支那事変以来、日本と本国が戦争状態にあったことも作用したでしょう。これらの理由からイギリス軍の敗北、撤退を喜んだマレー人と、それを快く思わない華僑の対日観には大きな開きがあることを充分知っておく必要があります。
現在のマレーシアにおいてもマレー人と華僑の比率は45%対35%で、その華僑が経済界の実権を握っており、発言権も強い状況にあります。こうした植民地時代からの華僑の経済独占は戦後になっても続き、経済進出を閉ざされたマレー人との民族間の対立は、時として多数の国民の血を流すことさえありました(1969年の5.13事件など)。ですから戦争中に華僑の利益を抑制し、マレー人に機会を与えようとした日本が嫌われてしまったのも無理はありません。日本軍を残虐であったと言い立てる声が大きく聞こえてきたのもそのためだったと言えますが、マレー人は冒頭で紹介したように、けっして反日などではなく、日本軍の上陸を意義あることとして記念するような行事を行っているのです。
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どうも我々が習ってきたり、新聞で目にする自虐的歴史観とは違う話が続きますね。恥ずかしながら最近になるまで私もこのような話はよく知りませんでした。マスコミから流れる映像や文字にすっかり踊ってしまっていたのです。一部のマスコミは国賊的な立場で論調を続けているのも知らずにです(恥)。私くらいの理解しかない方も多くおられると考え、記事にしようと思いました。ひとつの事実として、または国に対する「誇り」を取り戻すための話として知るべき事柄であると強く思います。
なお、この記事も「教科書が教えない歴史」を抜粋・加筆させていただいたものです。
http://www.jiyuu-shikan.org/faq/index.html