お疲れ様です。


あるSNSで、学校には行かせなくてもいいのだという

意見を書かれている方がいました。


でも、周りの方たちは、

その意見にとても反発していました。


学校に行かなくてもいいと

親が本気で思ってからが

スタートだと私は思っています。


でも、だからといって、

我が子が不登校になったばかりの方が

そう簡単にそんな風に思えるとは思っていません。


ただ、納得できないなりに、

何が何でも子どもを学校に行かせようとはしないでほしいなと

思います。


学校に行けない子どもを

責めないでほしいなと思います。


子どもたちはとても敏感です。


だから、ただ表面だけ行かなくても大丈夫と

取り繕っても、子どもは簡単に見抜いてしまいます。


だから、親が本気で納得することが必要なのです。


学校に行けなくても、あなたが大事と

素直に子どもに伝わるためには、

本気でそう思わないと伝わりません。


親が独自の教育観を持ち、

経済的にも時間的にも余裕があれば、

学校に行かなくても何の心配もありません。


むしろ積極的に行かないと選択することも可能です。


でも、多くの家庭では、

それはなかなか難しいものです。


学校で学べることもたくさんあります。


一方で、学校で潰されてしまうものもたくさんあります。


そのバランスの中で、

行かなくてもいいと言い切れるには、

親にもそれなりの自信が必要です。


だから時間もかかるのですが、

それでも、子どもが行きたくない気持ちに寄り添い、

そういう選択もありかな、と思うことができたら

親も子も楽になれます。


結果として、なんだ、学校は行かなくても大丈夫なのか、と

それは一人一人が自分の結論として導くことなのです。

お疲れ様です。


8月5日から滞在していた

体験学習の中学生が、今日、

東京に帰りました。


畑や動物や料理や、

様々な体験をしましたが、

何より大事だったのは、

きっと、私たちと話すことだった気がします。


一緒に働き、食事をして、

いろいろ語り合い、

いつもと違う価値観や考え方と出会い、

自分の言葉や思いを確認する、

私たちも、そのために

一人で来てくれるように頼みました。


子どもたちは、時間をかけて、

私たちに馴染んでくれます。


そうして、自分の気持ちを語りだします。


いつもと違うことをするうちに、

できることが増えて行きます。


好きなこともでてきます。


そして、今までと違う自分と出会い、

自信も持ち始めます。


そんな変化を見ながら、

我が子のように可愛いと思えてきます。


「また」があるのかがわからないけれど、

いつかまた、と願ってしまいます。

お疲れ様です。


這えば立て、立てば歩めの親心


そんな言葉があるのを知っていますか?


そもそも親と言うのは、

そういう存在です。


もっともっと、と子どもに

希望を託します。


子どもも一つ一つ達成しながら、

その期待に添えている時はいいのです。


でも、やっとの思いで、

今の状況から出てきたとき、

さらにその先に進むことを求められたら、

どうでしょう。


子どもが前に進めた時、

さっきまでいた場所をちゃんと覚えていてあげましょう。


あそこにいたのだから、

やっとここに立ったのだから、

もう少しここにいていいことにしよう、と

先に進むことが当たり前ではなく、

ここに来たことは奇跡に近いのだと思うことで、

過剰な期待はしなくてすみます。


這うことも立つことも、歩くことも、

多くの子どもにとって

当然のことです。


でも、それができない子どもたちにとって、

期待されることは、とても大変なことなのだと、

親だからこそ、わかってあげましょう。