のんびり空日記

のんびり空日記

空のように移り行く、好きなことと大切なことの置き場所

こんにちは、うるしーです。

好きだな、大切だなと思ったことでも
いずれは忘れてしまうから
一生懸命考えたことも
いずれは形を変えてしまうから

刻一刻と表情を変える空模様と一緒に
変わりゆく今の置き場所として
文章を書いています。





Ameba会員以外の方でもコメントできます。待ってます。なるべく返します。



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明日、といっても夜が更けて日付が変わってしまったので今日、

私が浪人生のときに亡くなった祖母の七回忌が岐阜で行われる。

精進料理も出前にして、全て親戚宅で行われるらしい。

 

2020年、世界中がパンデミックで大混乱に陥ったとき、

ネットで拾い読みして衝撃を受けた記事がある。

当時、感染症対策が何よりも最優先であり、感染者の葬儀すら

まともに行えなかった状況を踏まえて書かれた記事で、

その記事の要旨は「衛生が儀式を超えた」というものだった。

筆者の意図が、科学賛辞にあったのか文化への警鐘であったのか、

はたまたただこの混乱を見つめる一つの切り口の提案に過ぎなかったのか、

それはもう覚えてはいない。

 

衛生が儀式を超えた、これはつまり「衛生が生命を超えた」だと思った。

人類は「“生きる”ために生きる」ようになったのだと。

不要不急という言葉はまさに「要るもの以外は要らない」ことを意味していた。

空間が切り離されて、音楽も文化も儀式も、あらゆる生命が死んだと思った。

死んでも生き延びなければいけないこの状況をとても可笑しく思った。

人は生物の中でもほぼ唯一「生きる意味」を探す生き物なのに。

 

あれから2年半、私は明日、大阪の自宅から岐阜の親戚の家まで

ただ、おばあちゃんにお経をあげ、親戚と昼食を囲むためだけに行く。

6年前に亡くなった祖母を囲む、その儀式と空間に生命はあると思う。

法要というのはどうしてもつまらなく、長い移動は気の進まないものだが、

誰もを納得させる、絶対に必要であるという説明もまたできないものだが、

ないよりはあった方がいいと思うのだ。

おばあちゃんが喜ぶとか、こんな機会でもないと親戚が集まらないとか、

そんな実利的な理由ではなく、これが生命だからとしか言えない。

美学の講義で「価値はわからないが、何となくあった方がいいと思う直感」こそ

一番大切なものを知っているというような話を聞いた。

おそらくその類のものだと思う。

 

大衆音楽を対象に研究される先輩が、パンデミック下の音楽についての観察を

まとめた発表をしてくださったことがあった。

年表は大体2020年2月26日のPerfumeの東京ドーム公演が直前に中止になった

ファンにとっては痛ましいあの事件で始まる。P Cubedの最終公演である。

2年半ぶりのツアーPLASMAが今、行われている。

私も6日の大阪城ホール初日に参戦した。

会場ではPLASMAではなく、P Cubedのタオルを持つ人もいた。



PLASMAはアナログとテクノロジーの中間の言葉として名付けられたらしい。

私は最初その意味がよくわからなかったが、当日あ〜ちゃんの口から

その意味を聞くことになった。

 

「Amazon primeのやつみて、今日初めて来てくれた人は、ずいぶんアナログだなと

感じただろうと思います。人間臭いところに戻ってくるんです。これが私たちの"PLASMA"です」

「テクノロジーの力でもっと距離を無くす方に努力していくこともできるんだろうと思います。

でも私たちはやっぱりライブがいいんです。またみんなと会える機会を必ず作ります」

(筆者うろ覚え書き起こし)

 

3人は何度も「私たちはライブ」「みんなと会えて」「一つの空間」といった言葉で

話していて、やっぱり音楽は空間があって息をするし、これが生命だと思った。

 

2020年一度は息をしなくなった生命が、確かに息を吹き替えしているのだと思う。

これは感染症対策なんてもういいじゃん、という意味ではない。

生きるために生きた時間があるからこそ、何かのために生きる喜びを、

また思い出せたらいいと思うのだ。

そのためには生きなければならない。当然、病気にならない・広めないは大前提だ。

感染症対策のために、そして生きる喜びのために、何が「必要」か、

コロナ禍3年目、もう一度落ち着いて考えてもいいと思っている。