宮沢賢治は1926年(大正15年)3月末で、農学校を退職し「新しい農村」を建設するとして、宮沢家の別宅を改造し、自給自足の生活を始める。この別宅は妹のトシが結核に冒されて、亡くなる8日前まで療養所としても使用された。

同年夏、周囲の若い農民とともに、羅須地人協会を設立。「協会」とはいっても、実質的には賢治一人の手になる私塾である。賢治は昼間周囲の田畑で農作業にいそしみ、夜には農民たちを集め、科学やエスペラント、農業技術や芸術などを教え、自らの理想の実現を目指した。

実現とはほど遠かった活動を休止した後に、「禁治産」と題した戯曲の構想メモで、「ある小ブルジョア」の長男を「空想的に農村を救わんとして奉職せる農学校を退き村にて掘立小屋を作り開墾に従う。借財によりて労農芸術学校を建てんという。父と争う、互に下らず子ついに去る。」という人物設定をし、厳しい自己評価をしている。

・盛岡高等農林学校の後輩に当たる山形県出身の松田甚次郎(1909 - 1943)は、卒業を控えた3月に賢治の元を訪れ卒業後、故郷の新庄市鳥越に戻って農耕生活に入り、戯曲を執筆する。8月に賢治を再訪して戯曲の原稿を賢治に見せ、「水涸れ」というタイトルとアドバイスを受けて9月に鳥越でこれを上演した。協会時代に賢治に接して、その実践にならった(地元以外では)唯一の人物である。

草野心平は、賢治が「トラクターを使うようなアメリカ式の農場」を経営していると思いこみ、1927年に「宮沢農場に行って働かせてもらおう」という考えを抱いて赤羽駅から列車に乗ったところ、それが新潟行きだったため新潟経由で花巻に行くつもりでいたが、新潟に着いたところで東京に戻るよう促す電報を受け取った。その結果、草野は生前の賢治に面会する機会を失うことになった。

・羅須地人協会設立には当時流行したユートピア思想、「新しき村(武者小路実篤)1918年」、「有島共生農場(有島武郎)1922年?」、「満州・王道楽土(国柱会の石原莞爾)」などの社会思潮の影響も大きかったと考えるべきである。

賢治と同じ国柱会会員の石原莞爾は満州建国が自分の理想には進まないことに、東条英機とことごとく対立、後に山形県吹浦に理想郷を開墾、全国から有志が集まった。


             羅須地人協会
$新時代のキリスト教