父と娘 

大腸癌で余命半年の父と、その最期までを看取る娘の記録。


2005年8月末日、父がガンで余命6ヶ月との宣告を受けました。

アルコール依存症で暴力的だった父。

そんな父を嫌悪しながら育った娘。

自分の心の整理と、あとわずかな父との日々を忘れないために。

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命日

今日(厳密に言えば昨日だけど)、命日でした。

先月末に1周忌も京都にて無事終えました。


昨年の夏から、ずーっと未更新。

色々感じたことを書き続けたかったけど、父を失ってしまうとここをのぞく事すら

なぜかできなかった。


ブログを通じて知り合った人にお礼を書きたかった。

同じような状況だった、tamitamiさんもお母さんが亡くなられた。

気づいたのはしばらくたってからだった。

バニラさんには、本当に本当に本当に心からお礼が言いたい。

”怖い””不安”って、ここでしか言えなかったとき、いつも日記を読んで励ましてくれた。

私がどれだけ勇気付けられたか。

見守ってくれている気分にもなっていた。


もう、すでにここをのぞいてはいないと思いますが

ありがとうございました。

心から。


私はあの後、すっかり落ち着いた頃に

一番近くで私の力になってくれているはずだった彼に、実はめちゃくちゃ浮気されていたことがわかって枯れるまで泣きました。

口が上手いだけの、最低男でした。騙された私が悪いのでしょうけど。


去年は、父の死、裏切り、ダブルパンチのつらい一年でした。

それでも、時はいろんなことを解決してくれて、新年から希望通りの新しい職場で働き始め、しばらく一人で暮らして、ネコを飼い始めて、そしたら本当に心から信頼できる人に会うことができました。


今日は、父のことを思ってかなり感傷的な気分。

ずっと言いたかったお礼を、今日、ようやく書きます。


ありがとうございました。





四十九日を終え

8月20日。

無事四十九日法要を済ませた。父は、祖父と共に京都のお墓で眠っている。

幼少の頃以来で訪れたお寺は、庭が美しく、京都らしかった。

父がここで眠ることができること、これからここへお墓参りに来れることを嬉しく思った。

祖母は、父の最期を”幸せな最期”と言う。

(おそらく)苦しむ時間が少なかったこと、子供達3人に見守られながら逝ったからだ。

数日前、父の高校から”還暦祝い同窓会”のハガキが届いた。

還暦を迎えられず、年金も一銭ももらえなかったことを改めて思うと、私まで悔しい気持ちになった。

この日記で”(父の)長生きを望んでいない”と率直に綴ったが、早すぎる死だと十分わかっている、父に孫を見せたかったという夢すらみた。

私は、父に死んで欲しかったわけではなく、父に変わって欲しかったんだと思う。

温かな家庭、健全な親子関係を望まない人なんていない。

私は、父と母に数え切れないものを与えられたことを忘れてはいけない。

それでも、父と私の間には大きな溝を埋められないままだった。父が”良い父親”だったとも思わない。

どんな父親になって欲しかったかなんてビジョンは全然ないけれど、私はいつまでも”子供”として安らぎを求め続けた。

散々無茶をしてきて、59歳まで生きられたことの方が驚きなのだが、”幸せな最期”だったんだろうか。

父にとっての”幸せ”っていったいなんだったんだろうか。

酒?

今でもほぼ反射的にそう思う。

京都へ

明後日の納骨のため、明日の早朝から京都へ向かう。

父と一緒に県外へ出るなんて何年ぶりだろうか。

親子で京都の祖母宅へ訪ねるのも遠い昔の出来事だ。


私は壷のなかに入った父をそおっと膝の上に乗せてバスに乗る。



父のいない病院にて

来週ようやく納骨のために京都に向かう。

父は、父の両親と同じところで眠ることになる。


納骨が終われば、だいぶ気持ちも楽になれる気がする。

大人として、対外的なことをきちんとしておかなければならないというプレッシャーを楽しむ余裕はない。


父が亡くなって1週間程した時、病院に入院費を支払いに行った時のこと。

父のいない病院に行くのはとてもつらいことだった。

父と似た背格好の人にフト目を留めてしまう。

4階に行けば、父のいた病室に早くも次の患者さんが入っている。

何ヶ月も過ごした場所に、すでに父がいないことが当たり前の風景の中に自分がいることが、また違った形で父の死を私につきつけてきた。


私はうっかり父の小銭を病室の机の中に忘れていたみたいで、師長さんがそれを渡してくれた。

師長さんは「ちゃんとお返ししないとお父さんに怒られそうや。」と笑いながら言った。

詰所の前で少し話をした。

父のことを話すとき、父のいた病室を指差しながらしゃべってしまった。

そこには既に別の人がいるというのに・・・


師長さんに、”奥さんは先に逝かれてたの?”と訊ねられた。

デリケートな話題なので、聞くに聞けなかったのだろう。

師長さんは、父の難しい性格にも寛大で、最近ではわりと打ち解けてくれていたらしい。

父には最後まで”悲壮感なかった”と師長さんは感じていたみたいで、私はそれを聞いて心からほっとした。

私が病院にいる時間が少なかったことを口にすると、

”一人で過ごすのが好きで、一人でも何かと色々する人だったから、そんなに気にすることない”というようなことも言ってくれた。

娘の私が、他人にそうやって言われるのも何だかおかしな話しだが。


父に余命を告げなかったこと。

これについて後悔はないし、父にとっても悪くない選択だったと信じている。

けれども、多少なりとも心にひっかかるものがあるのも確かで、答えがないかもしれない難問を一生考え続けることも必要なのかもしれないと思っている。


1ヶ月

気がつけば、いつの間にか今日で父が亡くなって1ヶ月経っていた。


日記を書くとき、テーマを”父と娘”に選択。

父が亡くなっても、”父と娘”の関係は永遠に続く。

またそれは、もちろん私達だけでなく、娘を持つ全ての父親のもので、この世界中全ての女性達のもの。

女の数だけ”父と娘”の関係があるのだけど、”死”は等しくやってくる。

何も特別なものはない、父と私の関係。

しかし、私の日記は、まだもう少し続きそうだ。

父の死後、思ったことなどを日記に書いて気持ちの整理をしたいのに、たくさんありすぎてか、気が抜けたのかなかなか進まない。

私は小学生の頃から、童話作家を夢見た母親の血のせいか、日記をつけたりすることが好きで、その行為でストレスや欲求を解消していた。

だから、単なる記録欲が今はなりを潜め、父というストレスから解放され、書かなくても心が凪いでいるということなのかもしれない。


仏事にそんなにお金をかけずにいこう、と決めた私は、廻りの日も、今日の月命日にも特にお寺さんに来てもらうこともせず、いつもよりしっかりお祈りをすることにしている。

また、49日までは絶対に花を絶やさないようにしている。これには父ばかりか私も慰められる思いだ。しかし、この暑さ、すぐに花は元気をなくしてしまう。

父はどこへ行っただろうか、こんな暑い思いをしなくていい住みよいところに行っていればいいのだけれど・・・

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