さてさて今回は歴史のご紹介であります。


【上野東照宮】は、元和2年(1616年)2月駿河城に徳川家康を見舞いに赴いた、藤堂高虎、天海大僧正が危篤の家康鋼の病床で末永く鎮魂出きる場所を造って奉ってほしいとの遺言をうけて藤堂高虎の屋敷領地であった上野の山に、寛永4年(1617年)本営を造宮しました。

その後三代将軍家光がこの寺院に満足出来ず慶安4年、現在の社殿(金色殿)を造形し、以後江戸の象徴としたとのことです。


【上野東照宮】には家康、八代吉宗、十五代慶喜が奉られていて、入口には石造りの明神大鳥居、参道両側には諸国大名から寄進された200基の石灯篭、48基の青銅製灯篭が並んでいます。


本殿・拝殿・唐門など重要文化財も多く、拝殿には家康公ゆかりの品も沢山ありました。
いかがでしょうか?こんな近くに歴史を堪能できる場所がいっぱいあるのです。


流石、下町!!
小生、見学後は上野ガード下名物!!煮込みの大統領で一杯堪能!!ご満悦でありました。

久々の更新であります。
怠けてました・・・・・。


さてさて、こんなにそばにありながら、今まで一度も行ったことがありませんでした。
しかも、【上野東照宮】は上野動物園のすぐ隣にあったのでありました。


小生の愛読する池波正太郎先生の様々な小説に毎回出てくる門前仲町の富岡八幡宮と上野寛永寺。
そして【上野東照宮】があります。


小生、このGWを利用して初めて訪れて参りました。
5月4日、この日は上野動物園も無料開園日と云うこともあり、沢山の人で賑わっておりました。


小生も先月亡くなってしまったパンダのリンリンに追悼記帳しようと思いましたがあまりの行列で諦めました。
それではせめて話題のパンダ焼きをお土産にしようと思いつき、売店に向かうとここも大行列!!


結局、話題のパンダは全てを諦め第1目的の【上野東照宮】に向かうのでありました。
このまま【上野東照宮】に入り込むと長くなるので次回にします。


次回は【上野東照宮】の歴史と内部の紹介です。

久々の更新であります。
1ヶ月以上も空けててしまいました。


どの会社も決算月を迎える1月・2月・3月は追い込み入り小生も人並みに忙しい日々を実感。
小生御用達の『喫茶リーベ』でさえ足が遠のきます。



この忙しさは、お蔭様で営業成績に【繁栄】させることが出来まして、まずは《めでたし》・《めでたし》。
さてさて、ここで【繁栄】と云う言葉が出て来ましたが、小生のお客様がある木場に【繁栄稲荷神社】なるものがあるのです。

思い起こせば昨年12月・・・営業成績も不振なら棒茄子も不振。
不振だらけの毎日を過ごす小生、ひょんなことから【繁栄稲荷神社】の存在に気付きました。


木場駅からお客様へ向かう途中の横道にこの【繁栄稲荷神社】があったのです。
なんか【繁栄】っていいなあ・・・と思いつつお賽銭を投じ、『大きな大きな受注がありますように~!』と木場に行くたび参拝。


藁にもすがりたい低迷期状態が続く中、まさに困った時の神頼みでありました。
そして迎えた本年1月より大型の受注が続く続く・・・・・続く。


そんなこともありまして今期は《めでたし》・《めでたし》で締めくくることが出来ました。
ありがたいことでございます。


もちろん、今でも参拝はかかしておりません。
そうそう、2月には紅白梅が左右対称に綺麗に咲き誇り、思わず写メってしまいました。


さて、ここで【繁栄稲荷神社】の紹介をしましょう。


木場繁栄稲荷神社の起源は江戸時代の中期、宝暦7年(1757)に木場の地に創祀されたことにはじまります。


大丸の業祖下村彦右衛門正啓は、享保2年(1717)伏見に創業し、寛保3年(1743)日本橋大伝馬町に江戸店を設けましたが、越えて宝暦7年(1757)深川木場4丁目すなわち現在の繁栄橋橋畔に貯木場を備える別墅を営み、その一廓に社殿を造り、伏見稲荷大社の御分霊を祀り、繁栄稲荷と称したのです。


祭神の霊験はあらたかで、地元の木場はもとより江戸一円の信仰を集め、3月12、13日の例祭には門前市がたつ大賑わいで、その側に架せられた橋も、いつしか繁栄橋と称されるようになりました。
と、このように歴史ある【繁栄稲荷神社】。



機会があればお立ち寄り下さいませ。