フタバから遠く離れて | 放射能はいらねえ~ 牛乳を飲みてぇ~

放射能はいらねえ~ 牛乳を飲みてぇ~

清志郎が生きていたら、今の現状に何を叫んでいたんだろう。

宮城の放射線量過去平常値 0.0176~0.0513μSv/h(文科省発表)
堀場製作所Radi PA-1000でγ線(μSv/h)を測定。

「フタバから遠く離れて」
http://nuclearnation.jp/jp/

放射能はいらねえ~ 牛乳を飲みてぇ~-0708-1

2011年3月12日
双葉町民は1号機の水素爆発を耳にし『死の灰』を被った…
町は全面立入禁止の警戒区域となり、1400人が250㎞離れた埼玉県の高校へ避難した…
地域社会丸ごと移転したこの高校は、まさに現代のノアの方舟と化した…

福島第一原発が立地する福島県双葉町の避難生活を描いたドキュメンタリー。
原発により潤い栄えたとされる町の盛衰と、故郷を奪われた町民の日常を見つめ続ける。

双葉町長井戸川克隆は、財政破綻した町を救うため7・8号機を誘致した原発推進派だった。
しかし、町民が被爆に遭い、事故が長期化するにつれ、その信念が変化してゆく。

建築作業員・中井祐一さんは津波により家を流され、母を失った。
農地全てを流された父とともに避難所暮らしを続けながら、
震災翌日に予定された救助活動がベント・水素爆発により中止となったことを悔やんでいる。
原発事故により助からなかった命は少なくない、そう訴えつつ、次の人生を模索してゆく。
避難から3ヶ月後初めて一時帰宅が許され、無人地帯となった故郷へ帰還する彼が見たものとは…?

原発により1960年代以降経済的繁栄が約束されてきた場所・双葉町。
町民は、いまだ奪われた家・土地・財産の補償を受けずに、5年以上とも言われる避難生活を続けている。

高校の教室に畳を敷き、10~20人で寝食を共にする共同生活。
毎日のお弁当で命をつなぐも、肝心の原発事故は収束したのかどうか定かではない。
時間が経つにつれ東北の復興が加速してきても、取り残されていく避難所の日々。

先進国日本の片隅で忘れ去られて行く人々。
先の見えない待つだけの避難所の時間をカメラは9ヶ月にわたり記録した。

日本の原子力政策の成れの果てがここに凝縮されている。