さて、気が付けばこのブログを更新するのは4年ぶりとなり、時の速さに驚いています。
久しぶりに更新しようと思った理由は2019年2月24日に大阪にある太融寺という場所で講演する機会を賜り、そこで話した事の補足をしたいと思ったからです。
講演の内容をご存知ない方にとっては何を話しているのか分からないと思いますので、今回の記事は飛ばしていただいて結構です。
本題に入ります。
講演を終えた直後から何とも言えない違和感に包まれており、その正体が分からなかったのですが、おそらく話のバランスが悪かったためだと思い当たりました。
講演の内容は当事者と援助者との間にある壁のようなものを出来るだけ小さくしたいという目的で構成したものです。
そのために援助者側から見た疑問点などについて話す割合が多くなり、当事者側から見た風景についてはほとんど触れる事が出来なかったのです。
仮に私が当事者としての背景を持っていなければ、ともすると聞く耳すら持たれなかったかもしれません。
例えば、自分と全てのものは繋がっているという説明の際に「自分が虐待をする当事者になる可能性を持っている」という点に触れました。
しかし、おそらく当事者のほとんど全ての方はその事実を言われなくても実感している事でしょう。
怒りが激しく沸き起こった時、悲しみが深く嘆いている時、私たちは自分の姿の中に親の姿を見ます。
幼い頃にはなるまいと思っていた親と同じように怒り、嘆く自分をどこかに感じた時、私たちは否応もなく親との繫がりを感じます。
それだけではなく、私たちには血の繋がりというどれほど逃れようと思っても逃れられない部分があり、その面から見てもやはり親と自分は同根の存在なのだと感じざるを得ません。
「今更誰かに言われなくても自分が虐待をする側に回る危険性くらい分かっている」と思われても仕方ないと思います。
それは当然の事として周りからは理解されていなかったのだと知った時、非常に大きな衝撃を受けた覚えがあります。
これは周囲の人たちが無理解であると批判したいから書いているのではありません。
やはりそれだけ虐待という出来事は「一般的ではない」という事なのだと思います。
しかし、こうした説明をするにも体力、精神力が必要になります。
私たちが私たちの経験や思いを話す時、少なからず過去を思い出し、緊張や不安と向き合うからです。
だからこそ、なかなか説明が出来ない状況が生まれます。
そこに間隙が生まれ、その小さな空白の積み重ねが当事者と周りの人との壁を構築している要素の1つなのだと思っています。
繰り返しになりますが、これは当事者の努力不足であったり、援助者の理解不足から生まれるものではありません。
大抵はそのようにしかならないのです。
ただでさえ限界に近い当事者は話す事による体力、精神力の消耗を避けようとし、援助者はなるべく当事者に負担を掛けたくないのですから。
「自分が虐待をする当事者になる可能性を持っている」という点に言及したのは、あくまでも「視野を広げていくため」「繋がりを持っていないものはないと自覚するため」の手段としてです。
つまり、これは1つの思考訓練のようなものであり「全てと繋がりを持っている」と気付いたからと言って気持ちの±があってはならないのです。
というのも、気付く前と何も状況に変化はありません。
悪いもの、人とだけ繋がっているのではなく、この上なく素晴らしいものや人とも私たちは繋がっているのです。
当事者の立場からすると「自分が親と繋がっている事に気付く」のは自傷行為に近いものがあるとさえ言えます。
そう思うだけで自分を痛めつける事が容易に出来てしまうのです。
ですから、もしもそう思う事で落ち込み、傷付いてしまう場合には考えるのをやめてください。
当事者の立場からすれば何よりも回復が優先されます。
講演の中で申し上げたように「痛みの緩和」がどうしても先決なのです。
痛みが激しい時にさらなる痛撃を与えるようなものとは距離を置いた方が良いと、私は思います。
補足を始めると止まらないものなのですが、こうした事を含めてやはり説明不足の感が否めません。
混ざっていくのと染まるのが異なるという話の際にも一方的に当事者の話を聞くのでは主従関係にすらなる危険がある、と言いましたが、ここも丁寧に説明をするべきだったと思っています。
もちろん、当事者としては援助者を支配しようという目論見を持っているわけではありません。
例えるのであれば100m走を全力で走っている人と、ただ100mの距離をのんびり歩いている人の違いのようなものなのです。
全力で走っているのであれば選択肢は走るか、止まるか以外にあり得ません。
全力疾走中に風景を楽しんだり、靴紐が解けているから結ぼうなどとは到底考えられないのです。
しかし、ゆっくりと歩く余裕を持っている人であれば風景を楽しんだり、靴紐を結ぶ事も出来るでしょう。
つまり「痛みの緩和」という部分でお伝えした内容と同じように、余裕があるかどうかという話になっていきます。
当事者としては誰かから異なる視点を提供されたり、あなたの考えは違うと思うなどと言われてしまうと私という存在に対する全否定にしか聞こえない時もあります。
走るか止まるかという部分が、今度は全否定か全肯定かに変わってしまうのです。
そのために当事者として私たちはこの上なく傷付いたと感じますし「お前に何が分かる」という気持ちが沸き上がるのも当然なのかもしれません。
そこをしっかりと言葉にしてから、話を進めていくべきだったかもしれないと反省しています。
傷付けてしまった人もいるでしょう。
本当に申し訳ないです。
当事者側からしてみれば1日を生きるだけでも辛いのは当然です。
延々と続いていく苦悶の中で、いつの間にか自殺と隣り合わせの生き方をするようになった方もいるでしょう。
当事者の世界観というのはもちろん一様に同じものではありませんが、絶望が深いという点ではおそらく一致すると思います。
そして、周りの人に出来る事は悲しいほど少ないのです。
周りにいる人は苦しむ当事者の隣でただ回復する事を祈るしか出来ないのかもしれません。
それでも何か出来る事があるはずだと信じて、これからもあれこれとやっていこうと思います。
今回の講演の機会を作るためにご尽力いただいた方々に深く感謝しています。
本当にありがとうございました。
最後に私の当事者に対する思いを簡単に記しておきます。
当事者としての私たちが虐待に関するニュースを見て、こんな小さな子が惨い死に方をしたのだと思うと胸が締め付けられると同時に「どうしてこれが自分ではなかったのか」と羨む気持ちもあるかもしれません。
もしかすると、それは自分自身を憐れんでいるだけなのかもしれませんが、それだけではなく生き残った後の苦しみが如何程のものか知っているからこその思いでもあるでしょう。
文字通り死ぬほどの痛みを受け亡くなった幼い子供に対して羨望の思いを持っているなどとは、きっと誰にも言えないでしょう。
そんな事を口にすれば私たちは、自分がどれほど異常で人でなしなのかを思い知る事になるからです。
私たちが私たち「だけ」の人生を振り返る時、そのあまりにも惨憺たる有様と現在抱える鋭い痛みによって絶望しか見つける事が出来ないかもしれません。
こんな人生を送るくらいなら生まれない方が良かった、と何度思ってきた事でしょうか。
どうしてあの時、兄弟や親は私を殺してくれなかったのかと悲嘆に暮れる気持ちも分かります。
しかし、私たちと同じように苦しむ人たちや私たちと同じように苦しむ人たちを愛そうとする人達に対して、私たちの経験があるからこそ励し、支え、何か1つでも役に立つ事が出来たのであれば。
私たちが苦しんできた意味はあるのではないでしょうか?
私の苦しみが誰かの糧になるのであれば、苦しみを昇華したと言えるのではないかと私は思っています。
何度も言いますが、回復が何よりも先決です、今すぐ誰かの役に立たなければならないわけではありません。
まずは「痛みを緩和」し回復してください。
そして、余裕が生まれ何かしたいと思う日が来たなら、一緒に何が出来るか考えさせてください。
その日が来るのを私は楽しみに待っています。