言えない心の傷 ブログ

言えない心の傷 ブログ

虐待などを中心に問題解決を目指したい、という願いを込めたブログです

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さて、気が付けばこのブログを更新するのは4年ぶりとなり、時の速さに驚いています。

 

久しぶりに更新しようと思った理由は2019年2月24日に大阪にある太融寺という場所で講演する機会を賜り、そこで話した事の補足をしたいと思ったからです。

 

講演の内容をご存知ない方にとっては何を話しているのか分からないと思いますので、今回の記事は飛ばしていただいて結構です。

 

 

 

本題に入ります。

 

講演を終えた直後から何とも言えない違和感に包まれており、その正体が分からなかったのですが、おそらく話のバランスが悪かったためだと思い当たりました。

 

講演の内容は当事者と援助者との間にある壁のようなものを出来るだけ小さくしたいという目的で構成したものです。

 

そのために援助者側から見た疑問点などについて話す割合が多くなり、当事者側から見た風景についてはほとんど触れる事が出来なかったのです。

 

仮に私が当事者としての背景を持っていなければ、ともすると聞く耳すら持たれなかったかもしれません。

 

 

 

 

例えば、自分と全てのものは繋がっているという説明の際に「自分が虐待をする当事者になる可能性を持っている」という点に触れました。

 

しかし、おそらく当事者のほとんど全ての方はその事実を言われなくても実感している事でしょう。

 

怒りが激しく沸き起こった時、悲しみが深く嘆いている時、私たちは自分の姿の中に親の姿を見ます。

 

幼い頃にはなるまいと思っていた親と同じように怒り、嘆く自分をどこかに感じた時、私たちは否応もなく親との繫がりを感じます。

 

それだけではなく、私たちには血の繋がりというどれほど逃れようと思っても逃れられない部分があり、その面から見てもやはり親と自分は同根の存在なのだと感じざるを得ません。

 

「今更誰かに言われなくても自分が虐待をする側に回る危険性くらい分かっている」と思われても仕方ないと思います。

 

 

 

 

それは当然の事として周りからは理解されていなかったのだと知った時、非常に大きな衝撃を受けた覚えがあります。

 

これは周囲の人たちが無理解であると批判したいから書いているのではありません。

 

やはりそれだけ虐待という出来事は「一般的ではない」という事なのだと思います。

 

しかし、こうした説明をするにも体力、精神力が必要になります。

 

私たちが私たちの経験や思いを話す時、少なからず過去を思い出し、緊張や不安と向き合うからです。

 

だからこそ、なかなか説明が出来ない状況が生まれます。

 

そこに間隙が生まれ、その小さな空白の積み重ねが当事者と周りの人との壁を構築している要素の1つなのだと思っています。

 

繰り返しになりますが、これは当事者の努力不足であったり、援助者の理解不足から生まれるものではありません。

 

大抵はそのようにしかならないのです。

 

ただでさえ限界に近い当事者は話す事による体力、精神力の消耗を避けようとし、援助者はなるべく当事者に負担を掛けたくないのですから。

 

 

 

 

「自分が虐待をする当事者になる可能性を持っている」という点に言及したのは、あくまでも「視野を広げていくため」「繋がりを持っていないものはないと自覚するため」の手段としてです。

 

つまり、これは1つの思考訓練のようなものであり「全てと繋がりを持っている」と気付いたからと言って気持ちの±があってはならないのです。

 

というのも、気付く前と何も状況に変化はありません。

 

悪いもの、人とだけ繋がっているのではなく、この上なく素晴らしいものや人とも私たちは繋がっているのです。

 

当事者の立場からすると「自分が親と繋がっている事に気付く」のは自傷行為に近いものがあるとさえ言えます。

 

そう思うだけで自分を痛めつける事が容易に出来てしまうのです。

 

ですから、もしもそう思う事で落ち込み、傷付いてしまう場合には考えるのをやめてください。

 

当事者の立場からすれば何よりも回復が優先されます。

 

講演の中で申し上げたように「痛みの緩和」がどうしても先決なのです。

 

痛みが激しい時にさらなる痛撃を与えるようなものとは距離を置いた方が良いと、私は思います。

 

 

 

 

補足を始めると止まらないものなのですが、こうした事を含めてやはり説明不足の感が否めません。

 

混ざっていくのと染まるのが異なるという話の際にも一方的に当事者の話を聞くのでは主従関係にすらなる危険がある、と言いましたが、ここも丁寧に説明をするべきだったと思っています。

 

もちろん、当事者としては援助者を支配しようという目論見を持っているわけではありません。

 

例えるのであれば100m走を全力で走っている人と、ただ100mの距離をのんびり歩いている人の違いのようなものなのです。

 

全力で走っているのであれば選択肢は走るか、止まるか以外にあり得ません。

 

全力疾走中に風景を楽しんだり、靴紐が解けているから結ぼうなどとは到底考えられないのです。

 

しかし、ゆっくりと歩く余裕を持っている人であれば風景を楽しんだり、靴紐を結ぶ事も出来るでしょう。

 

つまり「痛みの緩和」という部分でお伝えした内容と同じように、余裕があるかどうかという話になっていきます。

 

当事者としては誰かから異なる視点を提供されたり、あなたの考えは違うと思うなどと言われてしまうと私という存在に対する全否定にしか聞こえない時もあります。

 

走るか止まるかという部分が、今度は全否定か全肯定かに変わってしまうのです。

 

そのために当事者として私たちはこの上なく傷付いたと感じますし「お前に何が分かる」という気持ちが沸き上がるのも当然なのかもしれません。

 

そこをしっかりと言葉にしてから、話を進めていくべきだったかもしれないと反省しています。

 

 

 

 

 

傷付けてしまった人もいるでしょう。

 

本当に申し訳ないです。

 

当事者側からしてみれば1日を生きるだけでも辛いのは当然です。

 

延々と続いていく苦悶の中で、いつの間にか自殺と隣り合わせの生き方をするようになった方もいるでしょう。

 

当事者の世界観というのはもちろん一様に同じものではありませんが、絶望が深いという点ではおそらく一致すると思います。

 

そして、周りの人に出来る事は悲しいほど少ないのです。

 

周りにいる人は苦しむ当事者の隣でただ回復する事を祈るしか出来ないのかもしれません。

 

それでも何か出来る事があるはずだと信じて、これからもあれこれとやっていこうと思います。

 

今回の講演の機会を作るためにご尽力いただいた方々に深く感謝しています。

 

本当にありがとうございました。

 

 

 

 

最後に私の当事者に対する思いを簡単に記しておきます。

 

当事者としての私たちが虐待に関するニュースを見て、こんな小さな子が惨い死に方をしたのだと思うと胸が締め付けられると同時に「どうしてこれが自分ではなかったのか」と羨む気持ちもあるかもしれません。

 

もしかすると、それは自分自身を憐れんでいるだけなのかもしれませんが、それだけではなく生き残った後の苦しみが如何程のものか知っているからこその思いでもあるでしょう。

 

文字通り死ぬほどの痛みを受け亡くなった幼い子供に対して羨望の思いを持っているなどとは、きっと誰にも言えないでしょう。

 

そんな事を口にすれば私たちは、自分がどれほど異常で人でなしなのかを思い知る事になるからです。

 

 

 

私たちが私たち「だけ」の人生を振り返る時、そのあまりにも惨憺たる有様と現在抱える鋭い痛みによって絶望しか見つける事が出来ないかもしれません。

 

こんな人生を送るくらいなら生まれない方が良かった、と何度思ってきた事でしょうか。

 

どうしてあの時、兄弟や親は私を殺してくれなかったのかと悲嘆に暮れる気持ちも分かります。

 

しかし、私たちと同じように苦しむ人たちや私たちと同じように苦しむ人たちを愛そうとする人達に対して、私たちの経験があるからこそ励し、支え、何か1つでも役に立つ事が出来たのであれば。

 

 

 

 

私たちが苦しんできた意味はあるのではないでしょうか?

 

 

 

 

私の苦しみが誰かの糧になるのであれば、苦しみを昇華したと言えるのではないかと私は思っています。

 

何度も言いますが、回復が何よりも先決です、今すぐ誰かの役に立たなければならないわけではありません。

 

まずは「痛みを緩和」し回復してください。

 

そして、余裕が生まれ何かしたいと思う日が来たなら、一緒に何が出来るか考えさせてください。

 

その日が来るのを私は楽しみに待っています。

 本来であれば、このブログは最低でも一年間続ける予定でした。
九月になった時、定期更新をやめて不定期更新に変えようと思っていたのですが、思いの外早く休止しなければならない状態になってしまったのが、無念でなりません。

理由はいくつかあるのですが、弱弱しい事ばかり書くのはあまり好みではありませんので割愛します。

 ご覧いただいた方々、いつもリツイートしてくださった方々、イイネを押してくださった方々のお陰でここまで続ける事ができました。
本当にありがたい事だと感じています。
ありがとうございました。

 これからは不定期更新となりますので、ブログ閉鎖をするつもりはありません。
虐待の問題についてはまだまだ語りたい事が多くあります。
虐待と社会の関係や、虐待を乗り越えるための道筋、何を捨て、何を諦めるべきか。
自己と向き合う重要性や、その危険性についてもまだ書きたい事があります。

 大雑把な話になってしまいますが、おそらく虐待に関する問題、とりわけ回復の道程に関しては体系化できないのではないか、と感じています。
というのも、去年から虐待はどうにかして体系化して捉えられないものか、と書籍を読み漁り、闘病中の事を思い出し、相談の内容を見直してみたのですが、あまりにも複雑であり個別的な事柄だという事実しか分かりませんでした。
虐待とはこうした問題で、このような道筋を辿れば回復する、という事が言えない事柄ではないかと思うのです。
似たような道を辿る事はあるのだと思います。
しかし、それは時に他の人と同じ道で交わるという事であり、常に同じ道を歩むわけではありません。





 人それぞれ回復の道があるというのは、人それぞれの人生があるという事なのだと思います。
虐待が孕む問題の根深さは到底計り知る事ができません。
それだけ甚大で凄惨な傷であり、そこからの回復は絶望の底から絶望の淵へと向かう程度の慰めにしかならない事もあるかもしれません。
しかし、それでも私は回復を目指すべきだと思います。
確かに回復の道のりは険しく、得ようとしているものは一般的な家庭で育った人が当然のように持っているものです。
過去に苦しめられず過ごす日々を求めているだけなのですから。
何も不安に思う事なく食事を摂り、夜に怯えず眠り、人を恐れず見て、特定の音や景色、場所や乗り物、施設、色を避けずに外を歩きたい。
それを獲得するまでの道のりがいかに厳しいものか、経験を通じて部分的に理解しているつもりです。
私たちが回復の道を歩む時、素晴らしい人々との出会いもあります。
本当に親身になってくれる人や、自身が直面している絶望を共に直視してくれる人がきっと現れるはずです。
私たちが人に対する恐怖心を乗り越え、誰かを頼ろうとする勇気を失わない限り、そうした人々との出会いがあります。
私たちが親に対して渇望していた掛け値なしの優しさや、愛情を与えてくれる人がいるのです。
生きる事はとても辛いものではありますし、闘病中には全てを捨てて命を絶っても惜しくないと感じる時もあるでしょう。
その思いは当然であり、誰も否定する事はできません。
しかし、絶望だけではない事も事実なのです。






 私たちは回復の道を歩きながらでさえも、多くのものを失い、諦めなければなりません。
それと同時に多くのものを受け取り、気付くのです。
優しさとは何かを与えられる事によって知り、与える事によってそれが血肉となります。
絶望に明け暮れるだけが人生ではないのだと、大切にしてくれる人を通じて気付くのです。

抽象的な言い回しになりますが、私たちは回復を通じて自分自身の生きる力に感動を覚えるでしょう。
思い出す事さえ苦痛な過去を背負っていても、生きる力が失われない事に感動するのです。
私たちには生きる力があります。
それを最後にお伝えして、このブログは不定期更新にしたいと思います。
これまでご覧くださった皆様、本当にありがとうございました。
 最近、更新がマチマチになってしまって本当に不甲斐ないな、と感じています。
今日は東洋医学を交えて、健康状態をある程度分かりやすくしてみよう、と試みる事にします。
自分の体調を把握する事は大変難しく、少しでも目安になるものがあれば把握しやすくなり、休みが必要なのかどうかの判断の助けにもなるはずです。
私は東洋医学の学生をしておりまして、本当なら既に資格を取っていたはずなのですが、先月神経痛で倒れてしまい、試験が受けられませんでした。
来年の一月に試験を受けて、資格を取りたいと思っていますが、座学の方は終了していますので、自分自身の知識をより深めるためにも、ここでまとめてみたいのです。
お付き合いいただければ幸いです。
ちなみに厳密に言うと中医学の話になります。




 中医学ではバランスをとても重視します。
バランスが崩れた時、おかしくなるという考え方なのです。
なので、バランスを上手に取る方法が何なのかについて、考える事が多いのです。
陰陽五行説なども利用していますので、円に内接する五芒星の図などがよく使われています。
脱線を防ぐべく、本題に入っていきます。




 中医学では肝、心、脾、肺、腎、の五臓と、胆、小腸、胃、大腸、膀胱、三焦という六腑が体の中にあり、それぞれが順調に機能している状態を目指しています。
五臓六腑の中で精神と深く関わりを持つのは、心、肝だとされています。
精神安定、安眠、リラックスや気や血の流れを順調に保つ役割があるとされています。
精神安定、明晰な判断力や思考を保つ役割があるとされています。
ですので、このブログをご覧になる方はこの二つに注目し、今の健康状態はどうだろう? と考える目安になると思います。




 肝の状態は爪に表れると言われています。
不調の時には爪の歪みやへこみ、色が淡色である状態が表れます。
心の状態は顔色に表れ、不調の時には顔面蒼白などが表れます。
ですので、まずは爪と顔色を見て良さそうか、悪そうかの見当を付けても良いと思います。
具合が良いと感じても、まずは鏡や目で確認しておくとより安全なはずです。
私たちはどうしても無理をしがちですから、気持ちだけで判断するのは少し危険なのです。





 ちなみに今は夏ですが、夏は心の動きが活発になると言われています。
ですので、最も疲労しやすいのが心であり、感情の動きが激しくなるのです。
夏の過ごし方として理想的なのは、怒らず平穏な気持ちを保ち、なるべく感情は穏やかに発散する事です。
そのため、刺激的なものからは距離を置き、スポーツも控えめにすると良いと言われています。




 は精神と深く繋がっており、精神面での回復には重要だとされています。
肝は血を貯めており、血海とも呼ばれています。
このため月経などにも深く関係していると考えられ、「女子は肝を先天の本とする」とさえ言われています。
先天の本とは生まれ持った生命力だと考えてください。
通常、腎が先天の本だとされていますが、女性の場合には腎と共に肝も先天の本なのです。
ですので、月経の周期などにも注目してみると肝が不調なのかどうかが分かる事があります。
一週間以上遅くなる、一週間以上早くなる、前後がバラバラであれば不調だと言えます。





 肝には疏泄(そせつ)機能があるとされ、疎は離れる事を意味し、泄は外へ漏らすという意味ですので、涙なども肝の影響が強いとされています。
疏泄を司る肝は性機能とも密接な繋がりを持っていますので、男性の場合には性欲減退などがないかどうかに注目すると分かりやすいはずです。
また肝は関節の円滑な動きにも関係しているとされていますので、関節痛などが起きていないかどうかも目安になるでしょう。
また目のかすみ、渇き、めまいがある場合なども、肝が不調な疑いがあります。





 体が不調な時には無理をしない事が大切ですが、不調の状態が続いてしまうとどこから休みが必要で、どこから動けば良いのかが分かり辛くなってしまいます。
その場合、倒れるまで動くという傾向を持つ方もおられるでしょう。
毎日、健康状態には変化があります。
自分で感じている通りの体調かどうかを目視するなどして、判断の材料にするとよりバランスの取れた一日を過ごせるはずです。
今日はいつもと違った雰囲気になりましたが、ここで終わりにします。
 先月の台風の影響で坐骨神経痛が悪化し、しばらく更新できない状態になっていました。
久しぶりの更新で少しだけ緊張しています。
今日は闘病中にどれほど憔悴しているのか気付き辛い点について、記事を書きたいと思います。




 一般的に気付く事が大切だと言われています。
「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」という格言があるように、自分の状態について明確に知る事は非常に難しい事です。
私がPTSDとの闘病をしている最中も、やはり自分について見落としている点が多々ありました。
現在、闘病中の方々はおそらく、自覚している以上に憔悴している状態なのではないか、と推測しています。
意識的に休息を取る事の難しさはある程度理解しているつもりですが、それでもやはり自覚して休む事が大切なのではないか、と思います。





 休む事に対して罪悪感を覚えたり、自分の未熟さに押されるようにして努力を続けなければ不安で仕方がない、という話もありますが、私たちが闘病して克服しなければならないものの一つがこの罪悪感なのだと感じています。
私たちは自分の疲れにも気付かず、なぜこのように身を削るのでしょうか。
一つには疲れている状態が恒常化し、疲れている感覚が麻痺している事に由来しているのだと思います。
この点については、十分な休息を取らなければ自覚出来ないはずです
たとえば、私は以前、オーバートレーニングという体の鍛え過ぎによる不調に陥ったのですが、この場合でも体の疲れが取れるまで休息を取らなければ回復しません。
一週間ほど仕事以外は何もせず、ゆっくりと過ごす必要がありました。
回復してみて気が付いたのですが、疲れている時の気だるさ、鈍重な思考が全くなくなったのです。
健康な状態とそうではない状態の区別を付けるには、頭の中では事足りず、その実感を持つ必要があります。
回復を実感するためには十分な時間を取った休息が不可欠なのです。






 肉体的な疲労だけならゆっくりと過ごすだけで回復しますが、精神的な場合には必ずしもこれだけで十分とは言い切れません。
不甲斐ない事ですが、精神的な疲労を取る手段が私には分かりません。
今の私に分かるのは、辛い思いを吐き出し続ける、信頼できる人との繋がりを自分から切らない事が回復の大きな支えになるのだろう、という推測しかありません。
また許されるのであれば、三ヶ月程度全く何もしない生活を送る事も良いかもしれない、と経験則から感じています。
私たちは人生を厳格に考え過ぎているかもしれないのです。
いついつまでにこの能力を付け、そのためには今からこうしておかなければならず、休んでいる暇など全くない、と思っている方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、本当にそうなのでしょうか?





 想定の範囲外の出来事が起きる事がありますし、想像もできない幸不幸が降ってくる事があります。
私たちは私たちの理解力を遥かに越えたものの中で、生きる道しかありません。
自然の偉大さをこうしたところからも強く感じます。
計画が全く不必要だ、などと言うつもりはありませんが、計画は確定されたものではなく、その時々の環境や状況によって大きく左右される、おぼろげなものなのだと思います。
将来設計の重要性は軽くありませんが、心身が悲鳴を上げている時に休めない計画には無理があるように思えるのです。
休む事を自分に許す事は勇気ある決意、行動ではないでしょうか。
疲れが取れてから、また足を踏み出して計画を再開しても良いと思います。
悠長過ぎるし、そんな余裕はない、と思う気持ちは痛いほど分かりますし、私もそうした気持ちを強く持っています。
しかし、計画通りにいかないのが人生であるというのも、揺るぎない事実なのです。
出来るだけ、健康な状態で過ごせる事が理想的だと思います。
もし、この記事をご覧になっている方に友人でも、恋人でもどのような関係でも良いので大切な人がいるとしたら、休息が必要なほど憔悴しているのに動き続けるあなたを見て、心を痛めているかもしれません。
大切な人のためにも、休んでください。
お願いします。






 今日は以上です。
 二週間ほど前のニュースなのですが、児童虐待の相談が二十四時間体制で受け入れられるよう、年末を目途に政府が政策をまとめるというニュースがありました。

これに関連して児童虐待について、直接的な被害を受けた後のケアがどれほど重要なのかについても、つくづく感じました。
ニュースの内容を見ても、直接的な被害から免れた後の事について、あまり焦点が当てられていませんでした。
批判しているのではありません。
直接、虐待を受けた人と関わりを持ったり、どのように虐待児が生きているのかについて関心を持つ機会がなければ、直接的な被害があまりにも衝撃的ですから、そちらへ焦点を当ててしまうはずです。
ですので、批判をしたいわけではありません。




 こちらのニュースでは児童虐待件数と通告人数について書かれています。
通告数は28.923件であり、前年同期比で摘発数も増えていますが、死亡した子供の数は一人減少となっています。
こうした数字はどう読み解けば良いのでしょうか。
様々な解釈があるところだと思いますが、実際に数値は変えられるという話を警察官から聞いた事もありますので、私としては参考程度にしておこうと思っています。
ここでもやはり直接的な被害から免れた後については、あまり焦点が当たっていません。
直接的な被害から免れた後の虐待児の状態は目立たないけれども、非常に重要な事なのだと思います。




 そんな折、アダルト・サバイバーについて書かれている記事を見つけましたので、ご紹介します。
補足までにアダルト・サバイバーとは「何とか生きて思春期、成人期に達してはいるが、かつての外傷体験の影響を心身に色濃く残している人々」(抜粋)だと言われています。
少しだけ長い記事なのですが、ご関心のある方はぜひご覧になってください。
この記事の中でも吐き出す事の重要性援助者が辛抱強く患者を受け入れる姿勢の重要性について書かれていました。
虐待の傷からの回復はやはり「魂を再発見する旅」と呼んでも差支えないほど長く、険しいものだと思います。





 この記事の中で非常に興味深かったのは、吐き出す事、語る事の重要性についてそれが始まりにして終わりと言っても良いくらいだ、と書かれていた点です。
以前、このブログでも書きましたが、語る事は非常に大切です。
昨今、ナラティブ・アプローチという治療法の有効性が注目されています。
この治療法には「現在」を重視する考え方が入っています。
たとえば、アルコール依存症の人がセラピーに参加して、飲酒との良い関係を築けた、という物語があれば、これは辛い時期を通り抜けた良い話となります。
しかし、その後に飲酒を再開してしまった場合には悪い話となります。
前者の場合はセラピーに参加したから断酒できた、となります。
後者の場合にはセラピーに参加したのに断酒できなかった、となります。
現在の状態がいかなるものかによって、過去の受け止め方、見え方も大きく変化するのです。
重要な点はどのような物語、人生であっても良い話、悪い話へと変化する可能性を秘めている点だと思います。
これは今まさに闘病する虐待児にとって、大きな支えになるでしょう。





 今は明るい未来など思い描けない事は当然だと思います。
闘病はありとあらゆる希望や期待を蹂躙するだけの十分過ぎる力を持っているからです
しかし、将来が必ずしも暗いものとは限りませんし、最も重要な事は「現在どうなのか」という点だと思います。
闘病は生きるための決意の表れです。
闘病している人は現在、生きようと奮闘している人だと言っても良いでしょう。
死にたいと思う事もあるでしょうし、寝たきりで何もできない自分を殺したい気持ちになる事もあるはずです。
だからと言って、現在頑張っていないだとか、現在がダメな状態というわけでは決してありません。
そうなる過程がいかなるものかを思い返せば、頑張っていないとは言えないはずなのです。





 私は現在、闘病していません。
過去の見え方がばら色になったのかと言えば、全くそうではありません。
今でも、もし可能であれば普通の家庭で育ちたかったと思っています。
しかし、その思いは闘病中よりも遥かに弱く、「空が飛べたら良いな」程度のものです。
闘病によって学んだ事の数々は、今こうして記事を更新する支えにもなっていますので、全くの無駄だとは感じていません。
成育歴は確かに陰惨ではありますが、現在誰かのためにできる事を与えてくれたのであれば、過去の自分が全く報われないわけではないとも思います。
私の物語は現在こうなっています。





 現在、闘病されている方々もそれぞれ物語をお持ちです。
無理に良いものにする必要はないと思いますが、物語は刻一刻と変化しています。
きっといつか、どこかで報われる点が訪れるはずです。
その時まで一時凌ぎに感じられるかもしれませんが、吐き出す事や頼る事を続けてもらいたいな、と思っています。
今日は以上です。
 今日は最近起きた出来事の中から、改めて感じた事をまとめてみたいと思います。
私の個人的な意見ですが、虐待の傷から回復しようとする時、最も注目するべき場所は傷付いた内面だと思っています。
もちろん、その過程で親や兄弟というように外から加えられた圧力によって歪み、傷付いた自分自身とも出会う事があるでしょう。
こうした自分と出会う度に、たとえば激しい怒りが燃え上がるなどして、意識が外へと向きます。
怒りが燃えたり、悲しみに暮れる事は自然な事ですし、そうでなければおかしいとも思います。
それが何度も繰り返される事によって、真っ黒に渦巻いていた苦しみが少しずつ透明性を獲得し、苦しみに染まっているだけではない自己とも逢着する事も出来ると思っています。
どれほど苦しんでも歪まない、ただの私との出会いは闘病中に限らず、人生を通じて自己を支えてくれる大切なものなはずです。
虐待の傷からの回復が「魂を再発見する旅」と呼ばれる所以は、おそらくここになるのだと思います。






 最近、起きた事にはいくつか共通点がありました。
言葉の選び方が難しいのですが、私は傷付いている人だから何をしても良いとは思っていません。
以前から持っている考えなのですが、歪んだ経験や過去が避けられなかったとしても、その後まで歪んで生きて良いわけではありません。
もちろん、いわゆる「弱者」という立場を振りかざす人ばかりではない事も承知しています。
ですが、そうしたタイプの人がいる事も事実です。
先日もこれで何度目か分かりませんが、遺書にお前の名前を書いてやるという旨のご連絡をいただいたのですが、私としては悲しい事だと思っています。
主戦場となっている場所は内面であって、たとえば私や社会など外にあるものではないのです。
そこでどれほど奮闘しても、大きな意義があるとはどうしても思えません。





 こうした出来事から再確認したのは、闘病中には多くの落とし穴、誘惑がありそれに掛かってしまっては回復が遠のくのではないかという事です。
周囲を貶める事によって得られるものなどは、全く一時的、瞬間的なものであって、そこに安定した支えがあるとは思えないのです。
私は非常に幸運な事に仲間に恵まれており、周囲の人たちがいなければ自殺していただろうと思っています。
いつまでもいつまでも、陰鬱としていた私を辛抱強く見守り、支えてくれた人たちがいてこそ、今、私が仕事をしたり、誰かの話に耳を傾けられるのだと思うと、多くの恩人に一生頭が上がりません。





 今日、ここで訴えたい事は「俺に話を聞いてもらった人たちは、全員俺に感謝しろ」という事ではありません。
人間同士ですから肌に合う、合わないが必ずあります。
ご自身と相性の良い医師や友人を見つけてもらいたいのです。
闘病中はただでさえ辛い状態です。
辛い時に腹の立つ人を相手にしているよりも、腹が立たないところまで距離を取る方が良いと思います。
体力、精神力は出来るだけご自身の心に向けて、回復に専念された方が結果として良いはずです。
素直に感謝し、大切に思える人との関係を構築する方が、腹の立つ相手を罵倒するよりも遥かに有意義なのではないかと思います。
今日は以上です。
 今日は同情などの周囲から寄せられるものについて、思っているところをまとめてみたいと思います。
以前の記事とも重複するところがありますが、なぜ人によって同じ言葉でも全く違う印象を受けるのか、とても不思議に感じていました。
以前には信頼関係によって違いが生まれる、という記事を書きましたが、それだけでは何か取りこぼしているような気がして仕方なかったのです。
その一つの答えかもしれない文章を見つけたので紹介します。




 「一人の人間に起こった事は全ての人間に起こりうるものだという事を心の底から納得してこそはじめて生きてくるのである」
これはキルケゴールという哲学者が、同情について述べているのですが、とても重要な事だと感じました。
よく虐待の被害などの話になると「可哀想と言うな。虐待児にもプライドがあるんだ」というような言葉を見かけますし、そう言っている人とも出会った事が幾度もあります。
その通りだと感じるのですが、大学時代に一度だけ私自身の境遇を中学時代の保健の先生に話した事がありました。
その時、先生からは「可哀想に」と言われたのですが、全く嫌な感情が出てこず、むしろ心地良さにも似た感情が湧いてきました。
信頼関係が云々という以前、記事にした内容でも説明出来るのだと思いますが、先生も虐待児だったという事もあって、どちらかと言えばキルケゴールのした説明に近いのかもしれません。





 一人の人間に起こった出来事は全ての人間に起こり得る、と思う事によって、そう思わない人と何が異なっているのでしょうか。
自分にも起きる可能性があると思う事によって、より真剣さが増すのだと思います。
たとえば虐待などより身近に感じる事によって、言葉や態度に変化が表れるはずです。
たとえば、交通事故の話がニュースで流れれば悲惨な事だと思いこそすれ、おそらく10分後には私を含めたほとんどの人が違うものに意識を向けているでしょう。
しかし、交通事故に遭ったのが近しい人の場合、10分で他に意識が向くような事は想像できません。
身近に思う、感じるという事はここまで差があるものです。
この態度の変化に気付かない方が不自然です。
とりわけ、虐待児は親の顔色を見て生きなければならない環境下で育ちますので、不可抗力的に犠牲を払いながら洞察力を磨きます。
真剣さの違いについて、より明確に察知してしまってもおかしくはありません。
これが「虐待児に向かって可哀想と言うな」という言葉の意味なのだと思います。





 

 個人的な考えでは虐待児に限らず、傷付いた人を労わる言葉として「可哀想に」という言葉がそれほど悪いものだとは思いません。
同じような話の繰り返しになってしまいますが、どのような文脈で、何を意図してその言葉を言ってくれたのかという点に注目すれば良いのではないかな、と感じています。
ある時期を境にして、うつ病の人に向かって頑張れと言うなという風潮が広がり、今でもその流れが続いています。
私個人としては、応援したい、労わりたいという思いが「頑張れ」という表現になっても、おかしい事だとは思っていません。
言葉狩りの風潮が辿り着く先にあるのは全くの無感動、無関心でしかないので、やはり言葉に囚われるのではなく、文脈によって理解する必要があると思います。





 最近は特にそうなのですが、全てはやはり繋がっているように感じられるのです。
別のブログで少年犯罪について書きました。
少年犯罪の発生に熱狂し、誰が悪いと槍玉に上げている場合ではなく、ともすれば自分自身が犯罪者になる危険性があり、それが実現していないのは環境や運などの要素も大きく影響している事に思いを致さなければなりません。
誰かが受けなければならなかった不可避的な不幸について、傍観者としてではなく同じく生きる者としてさえ見れば、真剣さの欠如は起き得ないのではないかと感じています。






 今日は少し中途半端なところですが、ここで時間が来たので終わりにしたいと思います。
 今日は苦しみについて、いつもとは違う視点から見てみたいと思います。
普段は苦しみの負の部分について焦点を当てていますが、今日はあくまでも副産物としてではありますが、生まれる良い面についてまとめてみます。





 虐待などの傷から回復を目指そうとする時、私たちは自己を焼き尽くす溶岩のような熱と、精神が引きちぎられていくかのような痛みを抱えて過ごすしかありません。
トラウマ、フラッシュバック、希死念慮、自傷行為、不眠や摂食障害などが母体となって、苦しみを生み出しているのです。
私は「苦しんだ分だけきっと幸せになれるはず」という内容の事を言いたいのではありません。
そう願う気持ちはもちろんありますが。





 私もそうでしたが「何が辛いのか分からないほどに辛い」と訴える人がいます。
様々な感情が激しく入り乱れ、怒っているのか悲しんでいるのかが、分からなくなっているのではないかと思います。
少なくとも私はそうでした。
だからこそ、混沌はさらに極まる方向へと進み、何もかもが不安定な苦しみの中へと放り込まれてしまうのでしょう。





 最近こうした事を考えている時に、ふと色と同じかもしれないと感じたのです。
白以外であれば、どんな色でも濃くなり続ければ黒になります。
赤、青、黄の原色を混ぜても黒になります。
感情の度合が濃度、感情の種類が色だとすれば、全くではないにしても同じような事が言えるのではないかと思います。
泣き笑い、悲嘆のような二つの感情を表現している言葉はありますが、泣き笑い怒りのように三つ以上を表現しているものは、あまり多くないのではないでしょうか。
喜怒哀楽のように四つの感情が入っている言葉もありますが、これは感情の種類について説明しているのであって、この四つが同時に起きているという意味ではありません。





 苦しみは色のように考える事ができるかもしれません。
黒が苦しみの色だと仮定してみます。
その黒は緑が濃くなったものだとすれば、どんどん色を薄めていけば少しずつ鮮やかな緑へと色を取り戻していくでしょう。
原色三つの色が調色されて黒になった場合でも、やはり薄くする事によって黒が失われていきます。
おそらく、私の過去を思い出してみてもそうなのですが、色が濃くなったから黒になったものと、原色が調色されて黒になったものを同時に包含しているのではないでしょうか。





 原色が混ざり合った苦しみに関しては、薄め続けていくべきという事になりますので、原色に対応しているものは怒りや悲しみになるはずです。
普段、私がこのブログで焦点を当てている部分は、この薄め続けていく部分になります。
今日はそちらではなく、薄めていけば少しずつ鮮やかな元の色を取り戻す部分についての話にしたいのです。
これこそが、苦しみから生まれる良い面という事になります。





 具体的にどういうものかと言えば、闘病中には藁にも縋る思いで苦しみを和らげるために奮闘する人が多いはずです。
疲れ果てて、何もできない状態になっているのは奮闘した証でもありますので、現時点で倒れているからといって奮闘していないと判断すべきではないと思います。
苦しみを和らげるものはないかと手探りをしているうちに、本当に支えになるものを見つける人も少なくはないでしょう。
たとえば、ブログなどで吐き出したり、絵を描いたり、音楽を演奏したり、体を動かしたりなどです。
和らげるというのは、色の例えで言うところの薄める行為に対応するはずです。
たとえば、運動を支えにした人がいるとすれば、最初は運動全般に手を出してみて、どれが最も自分に合うのかをさらに探す事になります。

集団競技が向いているのか、個人競技なのか。
無酸素運動が得意なのか、有酸素運動が得意なのか。
道具を使いたいのか、体一つでやりたいのかなどなど。


こうして一番自分に合っているな、と感じるものを見つけた時、黒は鮮やかな元の色になるのだと思います。
苦しみの中にある怒りや悲しみなどの部分については、昇華させていく必要がありますが、そこから得られるものもあるのではないかと感じています。
私の場合には文章を書くという方法が見つかりました。
知人の方は油絵を描いています
これがあれば生きていけるという支えの発見もできるのだと思います。





 とかく闘病中には絶望的なものばかりと遭遇します。
苦しみから得られるものがあるからといって、苦しみたくなどないと思う事は当然です。
ですが、苦しんでいる現状があるのなら、闘病の道は全く絶望だけではないという事をお伝えしておきたいと思いました。
ほの明るい程度のものかもしれませんが、ないよりあった方が、というところです。
今日は少しいつもと違う文章になりましたが、ここで終わりにしたいと思います。
 今日はボヤきのような内容も多分に含まれてしまいますが、思っているところを正直に出してみたいと思います。
虐待という問題は多面的です。
最も大きな側面として、傷付いた内面を抱える虐待児というところがありますが、たとえば虐待をしたくなくてもしてしまう親、虐待を未然に防ぐためにはどうするのか、という話も出てきます。
虐待児としては云々、周囲の立場として云々と分けて話さなければ、まとまりのない事になってしまうのですが、最終的にこの二つが融合しなければいけません。
議論は分けてする事が出来ますが、現実には融合している状態なのですから、その融合した状態に対してどう結論を出すのか、という事になります。
分けられてしまったままであれば、いつまでも現実に根を下ろす事が出来なくなってしまいます。
最近、よく考えているのは、虐待児と周囲を繋ぐ時に凄まじい矛盾、摩擦がありどうすれば良いのだろう、という事なのです。





 虐待児が傷を克服し、生きようとする時に必要となるものは内省などのように自分の内側へと向かう事です。
周囲というのは大きく言えば社会とも言い換えられますから、社会に働きかける、社会がどうすべきかと考える時、社会という自己の外にあるものに意識を向けるので自分の外側へと向かう力が働きます。
内側と外側、両極端へと向かう力は巡り合う事がありません。
直線的に両極端へと動いているのではなく、円運動のようにして動いていれば巡り合う事になります。
見ているものが同じであれば、円運動のような動きにもできると思います。
たとえば、虐待を受けた人が回復を目指して奮闘しており、その姿を励まし、支える人の間では円運動のようにして思いが循環する事が十分にあり得るはずです。
お互いに見ているものは虐待児自身の傷であり、そこに多くの苦痛もあるのですが同時に希望も見えます。
不特定多数の虐待児の不遇を自分がアピールをして社会の変革を云々となってしまった時、ボタンを掛け違える事になるのだろうな、と感じています。
虐待が複雑なのではなく、複雑にしている要素があると思うのですが、脱線する上にさらに批判的な文章になりますので、この点はここまでにします。
記事が二つに分かれてしまい、読みづらくなってしまいます。
申し訳ありません。







 虐待児が傷を克服した後は社会の中へと入っていかなければなりません。
この時、できる事とやりたい事の二つをよく分けておく必要があるようにも感じるのです。
まずはできる事から始めた方が良いと思います。
病苦を克服したのだから、と一足飛びにやりたい事を始めてしまうと、自分のどこにどのような制限が掛かっているのかに気付く好機を失ってしまいます。
虐待の傷というのは例えるのなら大怪我のようなものです。
私は空手の稽古をしている間に背骨が欠けてしまい手術をしましたが、今でも神経痛を患っています。
怪我自体が治っても、怪我の度合に応じて体に変化が起きているのです。
もちろん、悪い変化だけではないのですが、悪い面も理解しておかなければ辛い目に遭う事もあるのです。
ともすると、動かない体や心に欠陥品のレッテルを自分で貼る事にもなりかねません。






 怪我をした後はリハビリから始めるように、傷を乗り越えた後には少しずつ状況や状態を良くしていく気持ちが大切になります。
床に伏していた分を取り戻したいと逸る気持ちは痛いほど分かるのですが、急激な変化は多くの危険と隣り合わせです。
想定外の要素が必ずある以上は、堅実に進むべきだと思います。
そのリハビリの役目として、できる事があるのではないでしょうか。
病苦から解放された自分の体と心がどのように動けるのかを知る時間は、その後の人生を考えても非常に重要な時間となるはずです。
やりたい事があるのは素晴らしい事です。
やりたい事をできるようにするためにも、安全な道を歩いた方が良いと思います。






 堅実さは闘病中にも大きな支えになってくれるものです。
私たちは闘病を通じて「できる事しかできない」事を学びます。
受け入れがたく、そんな状態の自分に絶望するしかないのですが、その現実を突きつけられてしまうのです。
できる事からコツコツと、というゆったりとした構えを、命の危機を感じながら持たなければなりません。
闘病の苦痛はここにもあるのですが、このゆったりとした構えは闘病を終えた後にも役立つものです。
焦らず、ゆったりと構えるからこそ、一足飛びにやりたい事に手を伸ばさず、目の前にあるできる事からやろうと思う余裕が生まれます。
私自身も上手にゆったりと構える事ができませんが、大抵、今やっていて順調に進んでいる物事は切羽詰ってやっているのではなく、ゆったりとやっています。






 脱力というのはとても重要な技術かもしれません。
とりわけ、虐待児は肩に力が入ってしまうものではないでしょうか。
緊張や不安、恐怖、焦り。
こうした気持ちを心の深部まで浸透させているのですから、そこで脱力している方が違和感があります。
以前にも脱力の重要性について記事を書きましたので、重複になってしまいますが、脱力は大きな支えになるはずです。
闘病中は思い描いた将来設計が音を立てて瓦解します。
今、倒れるわけにはいかない、ここで休めるわけがない、と死に体の自分に鞭を振る人も少なくないかもしれません。
この時、崩れていく私たちの思い描く将来は、自分の手によって作ったものではないはずです。
無力感に苛まれないために、経済的に困らないために、親のようにならないために、などの必要に迫られて半強制的に描かざるを得なかったものも多分に含まれているのでしょう。
将来設計が崩れていく様を見るのは、大変辛い事です。
しかし、闘病は親からの解放を目指さなければなりません。
その一端として将来設計があるとすれば、瓦解していく事は悪い意味だけではないと思います。
国破れて山河在りという言葉もあるように、何もなくなってしまうわけではありません。
そこから本当の意味で、圧力によって無理やり描くのではない「希望の持てる将来を見れる現在」を手に入れられるはずです。
回りくどい言い方ですが、将来はあくまでも仮想のものであって、あるのは常に現在なのでこうした言い回しになりました。
将来設計が瓦解していく中では、脱力して成るがままに任せてしまうより外ないと思います。
悔しさや無力感が生まれる事は当然ですが、こうした緊張の場面でこそ脱力する価値があるはずです。
具体的にどうすれば脱力できるのか、はっきりとした答えは私には分かっていません。
以前に書いた記事ではジョギングなどの、ゆったりとした運動をして体から心の方へと感覚を染み込ませる事も出来るのではないか、と書きました。
私に見当が付くのは、今のところ運動です。
長くなりましたが、今日はここまでにします。
支離滅裂な記事になってしまって、申し訳ありません。
 今日は死について考えてみたいと思います。
虐待児に限らず、心身が衰弱するとどうしても死の方向、とりわけこの場合は自殺の方向へと惹きつけられる事になります。
死とは何なのでしょうか。




 先に言い訳をさせてもらいたいのですが、今日の記事の出来は非常に悪くなると思います。
茨城のり子さんという偉大な作詞家の方がいらっしゃるのですが、その方は出来合いの思想に寄りかかりたくない、寄りかかるのは椅子の背もたれで十分、と仰っていました。
私もこうした思いを持っています。
多くの哲学者が死について語っていますが、それを受け売りにしたくはないのです。
私には私の感性があり、たとえ未熟であってもそこから見えるもの、感じるものを大切にしたいからです。
偉大な哲学者がこう言ったのだから、こうだとは思いません。
考えていた事がある哲学者と同じだった場合には、なるほどと思いますが、違っている時も往々にしてあるものです。
ですので、非常に完成度の低い記事にならざるを得ませんが、お付き合いいただければ幸いです。




 心身が衰弱すると死にたくなるというのは、死には全てを消し去る効果があるからだと暗黙裡に考えているからだと思います。
私は経験上、救いようのない事が多いように感じています。
死んだらそこで苦しみが終わるという話は、どうしても落とし穴があるような気がしてなりません。
残酷な例示になってしまいますが、よく使われる例えがあります。
ヒヨコをミキサーの中に入れ、ミキサーにかけた後に何が失われているのかという例えです。
入っているものは何も変わっているはずがないのですが、確かにそこには失われたものがあります。
死によって失われたものとは何なのでしょうか?






 もちろん、命が失われたと言えるのですが、今日は命の面ではなく死の面に焦点を当てたいと思います。
死そのものは単なる現象だと言えます。
私たちにとって重要な事は死という現象ではないように思えます。
往々にして私たちが口にしているのは死によってもたらされる影響についてであって、死について口にしている人はほとんどいません。
死んで楽になりたい、という言葉も死によってもたらされる苦しみからの解放という影響に焦点が当たっています。
死の影響について考える事も重要ですが、死そのものに焦点を当てたいのです。
非常にもったいぶっている書き方ですが、乱暴に書いてしまうと人を傷付ける記事になりかねませんのでご理解ください。





 死は現象です。
私が断言出来るのはここが限界です。
ここからは憶測でしかありません。
直観としては輪廻というのとは異なるのかもしれませんが、命が循環はしているはずではないだろうかと思います。
言葉にするのは大変難しいので、ソクラテスの出した例え話を使いますと、こうなります。

・寝るというのは、それまで起きていたからできる事である
・一つの現象は正反対の現象から生まれる
・寝るという事が起きる事の正反対であるように
・故に死からは生が、生からは死が生まれる


私の直観でしかありませんが、おそらく生や死はこうした循環の中にあるのではないかと感じているのです。
次のような反論もあるかと思います。
「一人の人間の生から、一人の人間の死が生まれているだけで、全部一人で完結しているじゃないか、何がどう循環していると言うんだ」

虚心坦懐に考えてみると、これはよく持ち出す「私」の話に繋がり、「私」はどこにもいないという結論に行き着く以外に道がありません。
ややこしい話ですが、「私」はどこを探しても見つからないけれども、私を「私」だと認識しているものがあり、その認識している何かは言うなれば「存在」という事になります。
心に内外の境界線がないように、「私」にも内外の境界線がないのではないでしょうか。






 そうだとすれば、一人の人間の中で完結するものがあると言いきれなくなります。
以前書いた必然の記事にも繋がるのですが、全てのものは全てのものと関係を持っているからです。
全て、の中には人知を超えたものもあるはずですから、認知や感知できないところは捨て去っていく事を通じて、一人の人間の中で完結するものがあるように見える事はあり得ると思います。
循環という言葉を通じて死んだら他の誰かに生まれ変わる、という事が言いたいのではありません。
世界は社会よりも遥かに大きく広がっています。
人の生きる社会は世界の中の一握りの中の一つまみ程度のものです。
考えてみれば当然なのですが、宇宙が世界なのですから、おびただしい数の銀河のうち銀河系に含まれる太陽系の中の惑星の一つでしかない表面が7割、6割が海になっている地球の、さらに小さな日本の中の小さな東京で、私は生きているのです。
人知そのものが無力で矮小なものなのですから、人知を超えたものがないと考える方が不自然です。
しかし、命がどのような形態で、どのような場所に、いつ、どうやって命が循環するのか、私には見当もつきません。
ただ命や魂と呼ばれるものは循環しているだろうという憶測があるだけです。






 自然が豊かな場所で育ちましたので、自然を見ていると循環しているという事は確信にも似た思いになりますから、私の好みでそう思いたいだけなのかもしれません。
今日は短めですが、死について思っているところをまとめてみました。