HARLEY DAVIDSON STORY 第一章 Part.8 | kenbouのブログ

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Part.8
 Harley とOttawayの関係について、オートバイ史研究家達は様々な推測をした。技術部の創設に直接携わり後に会社の頭脳となったHarley は、当然のごとく時を得たH・Dオートバイ開発の任を課せられていた。よりパワーのある洗練されたエンジンの開発を進める技術的能力に優れており、会社はそのエンジンで活発化していた競技活動に挑戦する計画であった。その一方、同時代の人々は彼を、こつこつ型の秩序ある専門家で何より慎重派であると評価していた。実際、彼はこの時までDe-Dion Bouton のオリジナル概念にとらわれていたのだ。外の製品を改善して創作する能力には長けていたが、オリジナリティに欠けていた。歴史的にも正統派とはいえなかった。彼は自身の信用のためにも4年間に限って、レーシング機械の設計家として実績のあるOttawayと共同作業の形態をとったのである。
 Ottawayはこの申し入れを即刻受入れ、新しい設計に必要な工場設備が整うまでは基本的な試作品であるH・Dエンジンの改善に絞って、力を注ぐことにした。
 Ottawayがスピード調整とエンジン改良に着手している間、Harley はトランスミッション・システムの開発に入った。ハイパワーの重量V・ツインにはもはやシングル・ギアの概念は必要とされなかった。なぜなら、スピード・ギアのチェンジなしで、潜在するパワー能力に効率的に応えるエンジンが無かったからである。また、人気の高まっていたサイドカーが余分な荷重を課して負担となったほか、最低限の性能を出せるポイントまでスプロケット・レシオを下げることなしに、シングル・ギアをうまく適合させることはできなかった。Harley はこの問題について、ヘビーウェイト化、計器類や電装品の準備、そして過去2年間に定評を得た彼のクラッチを組み合わせた、リアホイールハブ内の2速ギアを考えた。このギアはツインとシングルの双方に採用され、シングル・ギアも買い手の希望によっては選択可能であった。
 販売は拡張した。折からのオートバイ人気もあるが、Arthur Davidson の労力の結晶である広範に及ぶディーラー体制が好結果に繋がったのである。ほとんどの大都市とニューイングランド地方で販路の基礎が固められ、一時はIndian の牙城であった北西部も代理店活動は良好であった。
 WilliamHarley の有能な手腕の元、George Nordberg とFred Barr の助けを得ながら、30%の増産を見越して再び工場を拡張した。
 1915年に向けてのニュースは、自転車式ペダル・ギアに替わるステップ・スターターの発表であった。これは、シャフトをカウンターシャフト・ハブ内に挿入している一対のペダルから成り立っていた。クラッチを分離させて、ライダーがマシーンから降りてリア・スタンドに置く必要がなく、エンジンを安心してスタートまたは再スタートさえることができた。もう一つのニュースはクラッチを制御するロッカータイプのフット・ペダルに連結されたハンド・レバーの採用であった。
 サイドカーの本格的な登場は1914年。オートバイの実用性を高めるサイドカーの存在は、一般家庭の人々にオートバイの必要性を認識させると共に、商業車にとっても価値あるもので箱型や台型など様々なタイプが多数使用されていた。H・Dにはサイドカー製造に当てるスペースがなく、そのためシカゴを本拠地とする製作会社Rogers Company(1910 年設立) とサイドカー供給に関する契約を交わした。H・Dは彼らからシングル・シート・ボディを購入したが、オリジナルタイプよりも頑丈に、特に重い環状のベアリングを用いていたH・Dのフロントホイールを動かすために、特注のヘビーウェイト・シャーシーを指定した。1914年には2,500 台であったオーダーが翌年には5,000 台に激増、Rogers は限界に来ていた製造設備の拡大を決定した。

サイクルカーの存在も目を引く。1914年にはアメリカで相当数のサイクルカーが出回った。それは、オートバイ人気に触発されオートバイに比較すれば安定性の良い軽量四輪自動車を提供することによって、買い手の関心を集めた結果であった。大手のオートバイ製造業者は揃って、エンジンとトランスミッション・ユニットをサイクルカー製造業者に供出するため、全力を上げて操業した。
 1913年秋、H・Dは輸出市場に参入することを決意。H・D独特の頑健な設計はすでに海外で受け入れられていたのである。輸出業務に関しては、1908年Indian が先陣を切ってイギリスに進出、その後数量は多少劣るがExcelsior、Henderson、Pope が共にヨーロッパ、オーストラリアへと市場を広げていった。H・Dが最初に目指したのはイギリスだった。すでに輸出入業に携わっていたスコットランド人のDuncan Watson にロンドンにおける業務を委託した。
 これからの市場拡大に向かって、輸出部が設置された。長として起用されたのはEric VonGumpertであった。彼はニューヨークの輸出入会社に勤務し業界の経験があり、その経歴を買われての起用だったのだが、堅い反ユダヤ主義者であるDavidson 一家は彼の素性に疑問を持ち調査した。結果、彼はミルウオ ーキーの祖先を持った信頼できるドイツ人移民家族の一員であることが判明、地位は確立した。H・Dはロンドンに初の小売店とサービス施設を用意したWatson と早々に輸出契約を締結した。最初のマシーン出荷は4月に決定。1908年にBilley Wellsが輸入したIndian やExcelsiorの人気からうかがえるように、すでにヘビーウェイトのアメリカのVツインはイギリス内で支持を得ていた。販売は順調に軌道に乗った。Watson はパリ、アムステルダム、ブリュッセル、コペンハーゲンにも販売店を設置する準備にかかったが、世界大戦の勃発とほとんど同時に起こった船積みの混乱によって、準備はやむなく一時とり止めとなった。1914年8月の宣戦布告前に約350 台を販売、その内改良された5-35シングルモデルは極くわずかで、大半はVツインであった。Vツイン指向の強さを物語っている。
 その頃、Ottawayは評価の高かったHarley の61立方インチ・ツインをさらに改良するべく努力していた。排気装置とインテークマニホールドのポーティングの修正、キャブレーション・チャンバーの外形変更、そしてバルブ・アクションを改善して、ステンダード・ロードスター・モデルのパワーアップを実現した。また、クランクシャフトとフライホイール部品の動力と静力を推定して、エンジン特有の振動を軽減することが可能か否か、多くの時間を費やした。もちろん、ビルトイン設計の弱点を完全に克服することは不可能であったが、彼の努力もあってエンジンはよりスムーズに動いたのだった。
 加えて、Ottawayは多くの熱愛者が待ち望んでいた特別仕様のレース用モデルII-Kを設計し、限定生産で発表した。基本的にはスタンダードのH・Dロードスターの61立方インチポケットバルブエンジンを搭載し、特徴はカムインテーク、エキゾースト・ポーティングにあった。初期のトラックレーサーにはギアボックスの装着がなかったため、51インチのホイールベースを用いた2本の短いレーシング・フレーム内に装着、それはカウンターシャフト・ギアリングの使用によって、当時の流行となった。重量は、1ガロンのオイルと3ガロンの燃料を積んで300 ポンドを多少下回る程度だった。
 Ottawayは地方の競馬場でステアリングとハンドリングの特性に特に着目して、厳しくテストを続けていた。技術部の昔からの社員は、最初の頃にH・Dパターンのリーディング・リンク・フォークを用いたハンドリングが大きな問題となったことを追想した。トップスピードがかろうじて60mph を超える程度のそれまでのロードスターマシーンであれば問題にもならなかったが、II-Kは90mph を超えるスピードを実現するのだった。最初のプロトタイプ・マシーンは、80mph に達する前にライダーをタンクに投げつける程のぐらつきを見せた。Ottawayは即刻、新しい設計にかかる必要があると判断、同時にトレイリング・リンク・タイプが代用品となるという提案に耳を傾けた。が、会社の経営者はどんなマシーンにも最低限
H・Dの伝統的な設計特性を採用しなければならないと言明して、この提案を否認した。そのため、Ottawayはかなりの試行錯誤の後、トレイル・ボトム・リンクの傾斜と外形、スプリングの緊張率を個々のレベルで矯正するという程度の修正作業に甘んじるしかないと結論した。
 モデルII-Kについては、次の章でスリルに満ちた展開を見せるH・D史と共に紹介する。