何から書こうかな、、、
ずっと「書かなきゃ」と思いつつも
どうしてもキーを打つことが出来ずにいました。
でも。
父や私のことを少しでも気にかけてくれている人が居る。
本当に、ありがとうございます。
2012年4月5日
父が永眠致しました
「自宅に帰りたい」という父の意見を尊重し、
3月5日にがんセンターを退院しました。
帰りたいと言い出してから、約1ヶ月近く待たせてしまったけど。
身体が不自由になった父を自宅で介護するため、
介護体制を整えることが私の責務でした。
1月に半身麻痺が出だしてから、
要介護4(退院時には5でした)の介護認定を受けていたので
訪問看護と医師の往診を組み合わせて
自宅での介護は可能になりました。
とにかく、一秒でも早く家に帰してあげたかった。
もうギリギリの瀬戸際で、頑張っていた父。
あんなに待たせてしまってごめんね。
待っていてくれて、ありがとう。
1月27日にがんセンターに入院して、
2月に入ってすぐくらいから嚥下障害が酷くなり
おかゆでさえろくに飲み込めずむせることが多くなりました。
「誤嚥性肺炎になると危険」とのことで、
食事はおろかお茶を飲むことさえもストップされ、、、
みるみる痩せ細っていく父。
入院した時には、
介助があれば車椅子に座ってトイレに行くことも出来ていましたが
それもすぐできなくなっていく。
車椅子に座って、院内を散歩しに行くと
てんかん発作が起きる・・・
その度、「このまま逝ってしまう可能性もある」と言われていました。
もう、一人では何も出来なくなってしまった。
家に戻る車中で、
「何が起きても不思議ではないから
いざという時の為に、新しい服を用意しておいて」とまで言われた。
そんな父を、家に連れて帰るという選択をする。
正直とても悩みました。
「在宅での看取り」
決して完治することはない。
看取るための帰宅である。
父自身、死を覚悟したからこその意思表示であったと思います。
このまま、病院の緩和ケア病棟に居れば、
少しは命を永らえることが出来るかも知れない。
けれども、、、
それは父の望むところではなかった。
命を縮めることになろうとも、
家に帰りたかった。
「次にこの道を通る時は、生きていないかも知れない」
そう覚悟した帰り道を、民間救急車を利用し帰る。
1時間と少しかかる道のりを無事に過ごせるか懸念されていましたが
無事家に帰宅することが出来ました。
でもね。
帰ってきた父、
身体も全然動かせなくなっていて
言葉を発することも出来ない。
父は舌根沈下が酷くて、
通常の呼吸音がいびきのような大きな音がする。
帰宅したこと、わかってたかなぁ。
この日から、私と主人と息子、
家族みんなで実家に住むことに。
3月6日、帰宅した次の日。
朝、学校に居た私に母からTEL。
「パパの様子がおかしい。どうしよう・・・」
急いで帰宅。
訪問看護の看護師さんが来てくれていた。
階段を駆け上がって父を見ると、
真っ白な顔をして
浅い呼吸を一生懸命している父がいた。
血中酸素濃度を測定すると、
30しかなかった。
苦しそうだった、、、
やっと家に帰って来たのに!
安心して、もう逝ってしまうの?
パパ、
大丈夫、ここにお母さんも私もおるよ。
白くなったパパの手をずっと握って、
肩をさすり続けた。
看護師さんが、「会わせたい人に連絡を」って。
母が親戚たちに連絡をしている間に、
看護師さんから「エアウェイ」という器具を口腔内に挿入して
舌根沈下を軽減させたら回復するかも知れないと言われて
「エアウェイを使用しますか?」と鬼気迫る表情で尋ねられ、
「お願いします」って答えた。
そうしたら!!
エアウェイを挿入してすぐ、父の呼吸は落ち着き
血中酸素濃度も回復してきた!!
在宅酸素の機械はめいっぱいの出力だったけど、
ちゃんと脈もあって、顔色も良くなってきた!!!
舌根沈下による気道の閉塞が原因で、
低酸素の状態になっていたらしい。
もうダメだ・・・
からの、奇跡的な回復!
喜ぶ私たちに看護師さんは
「根本的なことは何も変わっていません」って言った。
わかってるよ。
わかってる。
でも。
父はまだ生きれるって。
それがただ嬉しかった。
奇跡的な回復を果たした父。
エアウェイを挿入したことで、退院前よりも呼吸がしやすくなり
とても静かな息をするようになった。
低酸素状態を脱したことで、
今まで朦朧としていた意識も回復し、
なんとなんと、会話をすることが出来るようになった。
だって、帰宅した時は、
いくら話しかけてもウンともスンとも言えなかったから。
意識レベルはゼロに限りなく近い状態。
父とコミュニケーションが取れるようになるなんて
想像していなかったから、本当に嬉しかった!!
朝起きて、
「パパ~、おはよう!」って話かけると、
目でこちらを追いかけてくれる。
「学校行ってくるね~!」って話しかけると、
『いってらっしゃい』って声にならない声で答えてくれる。
「パパ~、ただいま~!帰って来たよ~」って話かけると、
『おかえり』って、口を動かしてくれる。
たまに声が出る時もあって、
父が喋るたび、赤ちゃんが喋った時のように
私たち家族はキャッキャと喜んだ。
こないだまで、たくさんお話出来てたのにね。
でも、このカタチは、
私の望みでもあった。
普段どおりの日常の中に父が居る。
今までと同じ。
そうすることが、
父も安心するだろうって思っていたから。
父は呼吸の状態は良くなったが、
嚥下障害は相変わらずで、もうずーっと飲まず食わず。
足も手も、泣きたくなるくらい痩せ細ってしまっていたけど
1日500mlの点滴で、何とか生きてきた。
家に帰って来てからはてんかん発作は一度も起きず、
毎日訪問看護師さんに身体を拭いてもらったり
着替えさせてもらったり。
点滴なんかは、病院と違って、
看護師さんが刺してくれるけど
点滴のルートを外すのは私たち家族の仕事。
寝返りも打てない父のかわりに、
2~3時間おきに体位変換をするのも家族の仕事。
母と私とで協力してペラペラに薄くなった父の身体を傾ける。
父の介護をしていて一番辛かったのが、
痰の吸引。
卓上の吸引機で、今まで病院の看護師さんがしていたことを
私たち家族がしなければいけない。
吸引は、見たことがある人ならわかるが
吸引される方はかなり辛い。
でもちゃんと痰を取っていかないと
肺炎になる危険性があるから、
結果父のためになる。
「パパ、ごめんよ。辛いことするけど、我慢してね」
そう声かけしながら、
痰を取る。
最初母はこの吸引を恐がって、
もっぱら私の仕事だったけど
私が居ない時にはしっかりとしてもらわなければいけない。
母が吸引する時は、父は目で訴えてくる。
「やーめーてー」って。
私が吸引する時は、頑張ってガマンしてくれるのだけど。
やっぱりそうかー。夫婦だものね。
ここまで来ても、父の威厳を保とうとしていたのかな。
奇跡の回復からは、ずっと平坦な感じ。
悪くもならないけど(見た目)、良くもならない。
でも、医者に告げられた命の期限は
着々と、そして確実に近づいて来ている。
いつ?
どんな感じに?
看護師さんには、
・棺に入れるモノを用意する
・最期に着させてあげる服を用意する
とか色々アドバイスをいただいたが、
今ここに!
必死で死に向かって生きようとしている父がいるのに、
私も母もそんな気になれず。
私の家も、ずっと空けておくわけにもいかないので
毎日風呂に入りに帰宅していた。
あの日も、いつも通り風呂に入ってから、
実家に戻った。
私たちが戻るのはいつも0時近くになる。
先に息子と母は父の隣で寝ているので、
いつもはそのまま自分たちの寝室に向かうのだけど、
あの日は母が起きていて、父の部屋に明かりがついていた。
父の様子を見ようと思って部屋に入ると、
「どうも眠れん、、、パパが気になる」と母。
ふと父に目をやると、
見るからに呼吸がいつもと違う。
何かあったら、救急車ではなく、
訪問看護ステーションに連絡をすることになっているので
1分間の呼吸数を数えてすぐさま報告しようと、
父の呼吸を数えることにした。
一度の呼吸がかなり浅い。
一回。
二回。
三回。。。
。。。どれだけ待っても、
四回目の呼吸は聞こえなかった。
パパ?
パパ??
父の肩をさすりながら、
必死で呼びかけた。
いくら必死に呼びかけても、
最期の息をした時のまま動かない父。
ああ・・・
ついにこの時がきたんだ
パパ、よく頑張ったね。
みーんなちゃんと見てたよ。
家族全員揃うまで、
最期の最期まで待っててくれたんだよね。
私、夫、息子、母、、、
いつもは寝ている時間なのに
なぜか息子も母も起きていて、
私と夫が風呂から帰って来るまで、
頑張って待っていてくれた。
だって私、
パパの最期の息、ずっと見てたよ。
パパの命の灯火が消える瞬間、
パパのことずっと見てたよ。
お母さんもずっとパパの手を握ってた。
夫も、一緒に、じぃじを見てた。
ひとしきり泣いた後、
訪問看護ステーションに連絡。
エンジェルケアをするために、看護師さん来てくれる。
在宅での看取りのいいところは、
最期のお世話を家族も参加するところ。
母と私と看護師さんで、
62年間父の肉体として働いてくれた身体を清めていく。
まだ身体は温かい。
新しい着物に袖を通す。
死に化粧は私がした。
長い闘病で、痩せこけてしまった父が
生前の柔らかい表情に見えるように、
頬にふんわり色を入れる。
最期のお世話が終わる頃には、
もう段々と父の身体は冷たくなっていた。
こういう時が来るって、
覚悟はしてきたつもりだったけれど
やっぱり、、、辛い。
それからは、世間が言うとおり
「悲しむ間もない」ほど忙しく、
葬儀の手配に追われた。
4月5日0時10分に父が逝去
翌日は日が悪かったので、
通夜まで丸1日あったから
少しは自宅で父と最期の時を過ごすことが出来た。
葬儀の日。
自宅から葬儀会館に向かう途中も、
斎場へ向かう途中も、
目にまぶしいほど桜が満開だった。
優しく微笑む父の遺影を胸に抱き、
最期に桜並木を一緒に歩いた気分だった。
桜の舞う季節に逝った父は、
毎年、桜の花びらとなって
私たちの元へ舞い降りるかも知れない。
毎年毎年、桜を見ると
父のことを思い出すんだろうな。
父は、最期の最期まで、父でした。
残される私たちに、
「生きる」ことと「死ぬ」ことを
身をもって教えてくれました。
賛否両論ありますが、
在宅での看取りという選択は間違っていなかったと思います。
在宅だから家族の時間を持てた。
在宅だから日常の中で父と過ごせた。
でも。
もっと生きたかったよね、パパ。
もっともっと話がしたかったよ、パパ。
もっともっと一緒にご飯食べたかったなぁ、パパ。
もっともっと一緒に笑いたかったなぁ、、、パパ。
これからは、手を合わせ、
パパに話しかけるから、
どうか私たちを見守っていてね。
2010年7月に、
【小細胞肺がんステージⅣ】と告知されてから、
2012年4月5日まで約1年9ヶ月。
本当にすごく頑張っていたと思います。
本人にしかわからない苦悩もあったと思います。
私は、
「父が最期を迎える時は、痛くも苦しくもないように」
・・・そうお祈りをしていました。
ちゃんと祈りは届いたでしょうか?
ちゃんと苦しみから解放されたかな?
四十九日も済んだ今、
黄泉の国へと旅立てたでしょうか。
痛みも苦しみもない世界で、
若くして亡くしたお父さんに会えたかな?
今は笑顔で居てくれていると信じてやみません。
本当はもっと詳しく記事にして、
みなさんの参考になることを書けると良かったのですが。
御報告まで。。。
今日は2度目の月命日。
父が亡くなってもう2ヶ月。
私も今という大切な時間を大事に生きたいと思います。
長らくお付き合いいただきまして、
ありがとうございました。
2012.1.26
全3回の予定だったサイバーナイフ。
実際は2回の照射で終了しました、、、
脳幹部分の腫瘍は一切の治療が出来ず、
小脳に2回。
一時的に治療の成果が見られるはずとのこと。
さてさて。
治療が終了したとなれば、
一刻も早く退院を余儀なくされます。
退院した後、父はどこへ行けば?
自宅?・・・今の状況での帰宅は難しい。
その厳しい現状を考慮してか、
退院の翌日にはがんセンターでの入院予約を入れてくれました。
翌日までの一晩。
この一晩をどうするか・・・
どうしたら父が安全に一晩を過ごせるのか?
考えに考えた結果、
がんセンターに隣接する宿泊施設に
退院したその足で向かい、母と父とで宿泊することに。
運良く、
車椅子用のお部屋が一室空いていたので即予約!
・・・で、座っているのもやっとの父を車に乗せ、
片道1時間ちょっとかけ、がんセンターへ。
途中、何度も「しんどい・・・しんどい・・・」と父。
「あともうちょっとやけん、もうちょっと・・・頑張って」と、
家族で励ましながらの道中でした。
やっとの思いで宿泊施設に到着したけど、
車椅子用のお部屋なのに、ベッドが普通Σ(-∀-;)
柵がないとキツイんだけどなぁ・・・
ってことで、転落防止の為に、
ベッドの片側にソファをくっつけました(汗)
部屋に着いてすぐ、父をベッドに座らせて
靴を脱がせようと私がかがんだ瞬間・・・
「ドサッ」
父が一瞬のうちに左前に頭から崩れ落ちました。
・・・私がついていながら、転倒させてしまった(涙)
私一人では父を抱き起こすことが出来ず、
主人と母と3人で父を抱えてベッドに戻しました。
思いっきり頭を打ったであろうに、
特に痛がる様子もなく・・・
心配でしたが、しばらく注意深く様子を見ることにしました(´;ω;`)
入院中、一度も身体を拭いてもらえず、
入浴も出来ずだった父。
「風呂に入りたい」って、自分から言いました。
お風呂も車椅子用で、広々な浴室だったので、
主人と母とで介助しながらの入浴。
湯船につかる時間はほんの少しだったけれど
「さっぱりした」と少し顔が晴れた!
こういう時の男手って、ホントにありがたかった。
ありがとう、ダーリン・゚・(ノ∀`;)・゚・
母一人で父の介助が出来るか不安は残りましたが、
息子は翌日学校の為、
この日は夜10時前に退散。
明日の朝イチ、10時から入院。
早起きしなければ。
これからのこと、
覚悟しなければ。。。
全3回の予定だったサイバーナイフ。
実際は2回の照射で終了しました、、、
脳幹部分の腫瘍は一切の治療が出来ず、
小脳に2回。
一時的に治療の成果が見られるはずとのこと。
さてさて。
治療が終了したとなれば、
一刻も早く退院を余儀なくされます。
退院した後、父はどこへ行けば?
自宅?・・・今の状況での帰宅は難しい。
その厳しい現状を考慮してか、
退院の翌日にはがんセンターでの入院予約を入れてくれました。
翌日までの一晩。
この一晩をどうするか・・・
どうしたら父が安全に一晩を過ごせるのか?
考えに考えた結果、
がんセンターに隣接する宿泊施設に
退院したその足で向かい、母と父とで宿泊することに。
運良く、
車椅子用のお部屋が一室空いていたので即予約!
・・・で、座っているのもやっとの父を車に乗せ、
片道1時間ちょっとかけ、がんセンターへ。
途中、何度も「しんどい・・・しんどい・・・」と父。
「あともうちょっとやけん、もうちょっと・・・頑張って」と、
家族で励ましながらの道中でした。
やっとの思いで宿泊施設に到着したけど、
車椅子用のお部屋なのに、ベッドが普通Σ(-∀-;)
柵がないとキツイんだけどなぁ・・・
ってことで、転落防止の為に、
ベッドの片側にソファをくっつけました(汗)
部屋に着いてすぐ、父をベッドに座らせて
靴を脱がせようと私がかがんだ瞬間・・・
「ドサッ」
父が一瞬のうちに左前に頭から崩れ落ちました。
・・・私がついていながら、転倒させてしまった(涙)
私一人では父を抱き起こすことが出来ず、
主人と母と3人で父を抱えてベッドに戻しました。
思いっきり頭を打ったであろうに、
特に痛がる様子もなく・・・
心配でしたが、しばらく注意深く様子を見ることにしました(´;ω;`)
入院中、一度も身体を拭いてもらえず、
入浴も出来ずだった父。
「風呂に入りたい」って、自分から言いました。
お風呂も車椅子用で、広々な浴室だったので、
主人と母とで介助しながらの入浴。
湯船につかる時間はほんの少しだったけれど
「さっぱりした」と少し顔が晴れた!
こういう時の男手って、ホントにありがたかった。
ありがとう、ダーリン・゚・(ノ∀`;)・゚・
母一人で父の介助が出来るか不安は残りましたが、
息子は翌日学校の為、
この日は夜10時前に退散。
明日の朝イチ、10時から入院。
早起きしなければ。
これからのこと、
覚悟しなければ。。。
お久しぶりの更新です。
去年の10月が最後でしたから、
かれこれ3ヶ月半が過ぎました。
私自身ががんセンターに入院するはめになりましたが
「あれは一体何だったんだろう?」と思うくらい、
回復することが出来ています。
父はというと、、、
何とか無事に年越しをすることが出来ました!
11月までシスプラチン+イリノテカンの抗がん剤治療を続け、
とりあえず予定していた3クール終了。
それからは休薬期間として自宅療養をしていました。
家に居る時は、1日の大半をベッドの上で過ごすようになりました。
全身倦怠感が酷く、睡眠時間も異常なほど長くなっていました。
本人曰く、
『寝ても寝ても眠れる』状態。
歳の暮れごろからは、逆に不眠に陥り、
はたから見ていても辛いであろう、
長い長い時間を過ごして居たと思います。
不眠と共に現れだしたのが、極度のイライラ。
元来気性の激しい性質でしたが、
イライラの沸点が低く、常に何かに腹を立てている状態。
癌と告知されてから今までの間、
父が感じていたであろう精神的ダメージは計り知れません。
その精神的ダメージの重責なのかなぁ、、、
もしかして精神を病んでしまったのではないか?!
そんなことを考えたりもしていました。
眠れない日々と、極度のイライラに加え、
滲出性中耳炎による高度難聴も父を苦しめました。
二度に渡る「全脳照射」による影響なのか、
それとも脳腫瘍による影響なのか・・・
滲出性中耳炎になった経緯はハッキリしませんが、
コミュニケーションが取りにくく、
一人でボーッとする時間が多くなっていました。
今年が最期かも知れない
そう、本人も、家族も、感じていたから、
誕生日やクリスマス会など、
イベントごとには必ず家族集合して
たくさん楽しい時間を過ごしました。
写真もいっぱい撮りました。
写真に写る父、
1年前の写真と比べると、
髪の毛もなくなって、顔もシワが増えたけど
精一杯の笑顔をいつも見せてくれました。
クリスマスパーティーが終わって、
お正月。
母の実家へ里帰りしましたが、
日ごろの不眠もあって辛い身体にも関わらず、
すすんで食器を運ぼうとしたり、
身体が不自由になってきた祖母のために
自作の手すりを取り付けたりと、
しんどいなりにも頑張ってくれました。
孫のために、
笑顔でお年玉をくれました。
無事に年越しすることが出来て、
ホッとしたのも束の間・・・
1月19日、私のケータイに父からTEL。
『いつもと体の様子が違うから、病院に行きたい』
そう、父が言いました。
+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+
実は1月にがんセンターを受診した際、
転移性脳腫瘍の経過をみるため
MRI(造影剤)検査をしました。
年末から、平衡感覚がおかしくなっていて、
歩いていてもフラフラする。
歩いていると、左によろける。
座っていても、左に崩れ落ちる。
そんな症状が日増しに強くなりつつありました。
脳の治療(2回目の全脳照射)後から、
半年間治療せずだったので
また腫瘍が大きくなってきたのか・・・
顔面にも麻痺が出てきて、
右側の顔がダラーンとしている。
食事をする時もうまく口を開けることも、
きちんと噛むことも難しくなっていました。
がんセンターを受診した時点で、
歩く体力も気力もなく、常に車椅子移動。
耳が遠くなっていましたが、
会話や意思の疎通は出来ていました。
MRIの結果、
一度は小さくなっていた腫瘍が、
再び大きくなっていることが判明。
脳幹部分と小脳に、3センチ大の腫瘍が数個。
他にも数え切れない程の転移有り。
主治医は、
・脳に放射線を当てることはほぼ不可能
・放射線が出来ない場合、抗がん剤治療しかない
・抗がん剤は確実に延命出来るとは限らない
・・・ということを本人に伝えました。
全脳照射はムリだけれども、
対処療法にはなるけれど、定位放射線治療という選択肢もあるとも。
2回目の全脳照射治療をした地元の病院へ打診することになり、
結果、1月23日からサイバーナイフ可否検査のため入院することに。
+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+
以上のような経緯があり、
23日に入院を控えて自宅療養の途中でした。
父の話を聞くと、
自分が自分でないような感覚(離人症状)が出ている。
平衡感覚もかなりおかしく、
一人では立ち上がることも、座っていることも難しい。
母に支えられていても、力が入らず崩れ落ちる・・・
救急車でかかりつけ医に搬送してもらいましたが、
緊急を要する状態ではないとのことで入院させてもらえず。
もうずっと十分に眠っておらず、
ろくに食事も取れていなかったので
栄養の点滴をしてもらって、
自宅ではなく私の家に泊まることにしました。
家に連れて帰って、靴をぬごうとした時、
父の体は硬直し、軽い痙攣発作を起こしました。
痙攣発作を起こしている数分間は意識もほとんどなく、
痩せた身体とはいえ、全体重を支え続けるのは大変でした。
痙攣発作を起こしたのはこの日が初めてで、
短時間の間に2回発作が起き、
数分立てば意識もハッキリして自分で起き上がることが出来る・・・
父の体の中で何が起こっているのか、、、
この日もやはり眠ることは出来ず、
夜中じゅう、ベッドの上で起き上がっては、
暗闇の中じーっと座ってみたり、
ベッドから降りて隣の部屋まで歩いてみたり・・・
父の不眠と比例して、母も「不眠で苦い」とこぼすようになりました。
救急車で運ばれた日を境に、
日に日に父の人格はおかしくなる一方。
昨日できていたことが今日は出来ない。
今の父は、
時間や状況、季節の把握が出来ません。
器用貧乏が取り柄だったあの父が、
今はテレビのリモコンの操作すら出来ない。
ケータイで電話をかけることも出来ない。
あれほど入院を待ちわびていたのに、
MRIの機械が何なのか理解できず・・・
父にとってはただの「うるさい音の鳴る狭くて恐い機械」。
MRI検査、最後までうけることが出来ませんでした。
全脳照射はムリだったけど、
サイバーナイフで小脳の大きな腫瘍3個、
3日間かけて治療することになり、
今日1回目が終わりました。
じっとしていることが出来ないので、
鎮静剤を投与しながら・・・。
入院初日、
栄養補助の点滴が何モノかわからなかったのか、
具合が悪かったのか、真意はわかりませんが、
点滴を自分で勝手に抜いてしまい、
血だらけになったそうです。
どうして抜いたのか、
自分でもわからないと言っていました。
一人で歩いて、
転倒事故防止のため、
父のベッドの足元にはセンサーマットがひかれました。
・・・にも関わらず、
今朝病室で転倒して、顔を強打して真っ赤に腫れていました。
ろれつが回らず、
父が伝えたいことがウマく伝わらない。
看護師さんは父につきっきりになるわけにはいかないから、
誰も父が伝えたいことを聞いてあげられない。
今も、眠れず、
知らない人ばかりの病院に一人居ると思うと、
胸が張り裂けそうなほど、悲しい。
ただただ、悲しい。
父が不憫でしかたがない。
何もしてやれない。
テレビが唯一の娯楽だったのに、
そのテレビすら、理解できなくなったのか
テレビを見ることもしない。
テレビを見て笑うこともない。
食事をして美味しいと感じることができない。
お風呂に入って気持ちいいと思うこともできない。
あ~、よく寝た!と思うこともない。。。
今の父に「幸せ」や「楽しい」は存在するのかな?
どんな気持ちで1分1秒を過ごしているのかな?
今日、私と息子でお見舞いに行った時、
私の顔を見て、父の顔が一瞬パァーっと明るくなった!
嬉しそうな顔をして、
「来てくれたん~」って言ってくれた。
一瞬でも、父の中に「嬉しい」が湧き上がったかと思うと、
それだけで私も嬉しくなった。
あと、
どれぐらいの時間が残されているんだろう。
最期まで、
家族のこと、覚えていてくれるかな。
・・・と、この記事を書いている途中、
夜中の1時過ぎに母からTEL。
入院している父が、
夜中トイレに行こうとしたのかベッドから転落。
半身麻痺が強くなり、急遽CT検査をするので
病院から呼び出しされたとのこと。
すぐに着替えて母を迎えに行き、
不安な気持ちを抑えつつ病院へ急ぐ。
病院に到着するなり当直医師から説明。
転倒による脳内出血はなかったので、
緊急オペは免れたとのこと。
昨日の入院から3回も転倒しているので、
転倒の危険大とのことで夜間は「抑制」するらしい・・・
何も悪くないのに、手足を縛られる父のことを思うと
胸が張り裂けそうだけど、、、
転倒させないことが本人にとって一番だと考え、
同意書にサインをしました。
どうか、
手足を縛られることがないように、
穏やかに朝を迎えて欲しい。
父は、ナースセンターの中にある病室に移動。
右手だけ、ベッドの柵に繋がれていました。
朦朧とする意識の中、
夜中に駆けつけてくれたことに
「ありがとう」と言っていました。
何にもしてあげられなくて、ごめんね、パパ。
明日また、お見舞いに行くからね。
去年の10月が最後でしたから、
かれこれ3ヶ月半が過ぎました。
私自身ががんセンターに入院するはめになりましたが
「あれは一体何だったんだろう?」と思うくらい、
回復することが出来ています。
父はというと、、、
何とか無事に年越しをすることが出来ました!
11月までシスプラチン+イリノテカンの抗がん剤治療を続け、
とりあえず予定していた3クール終了。
それからは休薬期間として自宅療養をしていました。
家に居る時は、1日の大半をベッドの上で過ごすようになりました。
全身倦怠感が酷く、睡眠時間も異常なほど長くなっていました。
本人曰く、
『寝ても寝ても眠れる』状態。
歳の暮れごろからは、逆に不眠に陥り、
はたから見ていても辛いであろう、
長い長い時間を過ごして居たと思います。
不眠と共に現れだしたのが、極度のイライラ。
元来気性の激しい性質でしたが、
イライラの沸点が低く、常に何かに腹を立てている状態。
癌と告知されてから今までの間、
父が感じていたであろう精神的ダメージは計り知れません。
その精神的ダメージの重責なのかなぁ、、、
もしかして精神を病んでしまったのではないか?!
そんなことを考えたりもしていました。
眠れない日々と、極度のイライラに加え、
滲出性中耳炎による高度難聴も父を苦しめました。
二度に渡る「全脳照射」による影響なのか、
それとも脳腫瘍による影響なのか・・・
滲出性中耳炎になった経緯はハッキリしませんが、
コミュニケーションが取りにくく、
一人でボーッとする時間が多くなっていました。
今年が最期かも知れない
そう、本人も、家族も、感じていたから、
誕生日やクリスマス会など、
イベントごとには必ず家族集合して
たくさん楽しい時間を過ごしました。
写真もいっぱい撮りました。
写真に写る父、
1年前の写真と比べると、
髪の毛もなくなって、顔もシワが増えたけど
精一杯の笑顔をいつも見せてくれました。
クリスマスパーティーが終わって、
お正月。
母の実家へ里帰りしましたが、
日ごろの不眠もあって辛い身体にも関わらず、
すすんで食器を運ぼうとしたり、
身体が不自由になってきた祖母のために
自作の手すりを取り付けたりと、
しんどいなりにも頑張ってくれました。
孫のために、
笑顔でお年玉をくれました。
無事に年越しすることが出来て、
ホッとしたのも束の間・・・
1月19日、私のケータイに父からTEL。
『いつもと体の様子が違うから、病院に行きたい』
そう、父が言いました。
+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+
実は1月にがんセンターを受診した際、
転移性脳腫瘍の経過をみるため
MRI(造影剤)検査をしました。
年末から、平衡感覚がおかしくなっていて、
歩いていてもフラフラする。
歩いていると、左によろける。
座っていても、左に崩れ落ちる。
そんな症状が日増しに強くなりつつありました。
脳の治療(2回目の全脳照射)後から、
半年間治療せずだったので
また腫瘍が大きくなってきたのか・・・
顔面にも麻痺が出てきて、
右側の顔がダラーンとしている。
食事をする時もうまく口を開けることも、
きちんと噛むことも難しくなっていました。
がんセンターを受診した時点で、
歩く体力も気力もなく、常に車椅子移動。
耳が遠くなっていましたが、
会話や意思の疎通は出来ていました。
MRIの結果、
一度は小さくなっていた腫瘍が、
再び大きくなっていることが判明。
脳幹部分と小脳に、3センチ大の腫瘍が数個。
他にも数え切れない程の転移有り。
主治医は、
・脳に放射線を当てることはほぼ不可能
・放射線が出来ない場合、抗がん剤治療しかない
・抗がん剤は確実に延命出来るとは限らない
・・・ということを本人に伝えました。
全脳照射はムリだけれども、
対処療法にはなるけれど、定位放射線治療という選択肢もあるとも。
2回目の全脳照射治療をした地元の病院へ打診することになり、
結果、1月23日からサイバーナイフ可否検査のため入院することに。
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以上のような経緯があり、
23日に入院を控えて自宅療養の途中でした。
父の話を聞くと、
自分が自分でないような感覚(離人症状)が出ている。
平衡感覚もかなりおかしく、
一人では立ち上がることも、座っていることも難しい。
母に支えられていても、力が入らず崩れ落ちる・・・
救急車でかかりつけ医に搬送してもらいましたが、
緊急を要する状態ではないとのことで入院させてもらえず。
もうずっと十分に眠っておらず、
ろくに食事も取れていなかったので
栄養の点滴をしてもらって、
自宅ではなく私の家に泊まることにしました。
家に連れて帰って、靴をぬごうとした時、
父の体は硬直し、軽い痙攣発作を起こしました。
痙攣発作を起こしている数分間は意識もほとんどなく、
痩せた身体とはいえ、全体重を支え続けるのは大変でした。
痙攣発作を起こしたのはこの日が初めてで、
短時間の間に2回発作が起き、
数分立てば意識もハッキリして自分で起き上がることが出来る・・・
父の体の中で何が起こっているのか、、、
この日もやはり眠ることは出来ず、
夜中じゅう、ベッドの上で起き上がっては、
暗闇の中じーっと座ってみたり、
ベッドから降りて隣の部屋まで歩いてみたり・・・
父の不眠と比例して、母も「不眠で苦い」とこぼすようになりました。
救急車で運ばれた日を境に、
日に日に父の人格はおかしくなる一方。
昨日できていたことが今日は出来ない。
今の父は、
時間や状況、季節の把握が出来ません。
器用貧乏が取り柄だったあの父が、
今はテレビのリモコンの操作すら出来ない。
ケータイで電話をかけることも出来ない。
あれほど入院を待ちわびていたのに、
MRIの機械が何なのか理解できず・・・
父にとってはただの「うるさい音の鳴る狭くて恐い機械」。
MRI検査、最後までうけることが出来ませんでした。
全脳照射はムリだったけど、
サイバーナイフで小脳の大きな腫瘍3個、
3日間かけて治療することになり、
今日1回目が終わりました。
じっとしていることが出来ないので、
鎮静剤を投与しながら・・・。
入院初日、
栄養補助の点滴が何モノかわからなかったのか、
具合が悪かったのか、真意はわかりませんが、
点滴を自分で勝手に抜いてしまい、
血だらけになったそうです。
どうして抜いたのか、
自分でもわからないと言っていました。
一人で歩いて、
転倒事故防止のため、
父のベッドの足元にはセンサーマットがひかれました。
・・・にも関わらず、
今朝病室で転倒して、顔を強打して真っ赤に腫れていました。
ろれつが回らず、
父が伝えたいことがウマく伝わらない。
看護師さんは父につきっきりになるわけにはいかないから、
誰も父が伝えたいことを聞いてあげられない。
今も、眠れず、
知らない人ばかりの病院に一人居ると思うと、
胸が張り裂けそうなほど、悲しい。
ただただ、悲しい。
父が不憫でしかたがない。
何もしてやれない。
テレビが唯一の娯楽だったのに、
そのテレビすら、理解できなくなったのか
テレビを見ることもしない。
テレビを見て笑うこともない。
食事をして美味しいと感じることができない。
お風呂に入って気持ちいいと思うこともできない。
あ~、よく寝た!と思うこともない。。。
今の父に「幸せ」や「楽しい」は存在するのかな?
どんな気持ちで1分1秒を過ごしているのかな?
今日、私と息子でお見舞いに行った時、
私の顔を見て、父の顔が一瞬パァーっと明るくなった!
嬉しそうな顔をして、
「来てくれたん~」って言ってくれた。
一瞬でも、父の中に「嬉しい」が湧き上がったかと思うと、
それだけで私も嬉しくなった。
あと、
どれぐらいの時間が残されているんだろう。
最期まで、
家族のこと、覚えていてくれるかな。
・・・と、この記事を書いている途中、
夜中の1時過ぎに母からTEL。
入院している父が、
夜中トイレに行こうとしたのかベッドから転落。
半身麻痺が強くなり、急遽CT検査をするので
病院から呼び出しされたとのこと。
すぐに着替えて母を迎えに行き、
不安な気持ちを抑えつつ病院へ急ぐ。
病院に到着するなり当直医師から説明。
転倒による脳内出血はなかったので、
緊急オペは免れたとのこと。
昨日の入院から3回も転倒しているので、
転倒の危険大とのことで夜間は「抑制」するらしい・・・
何も悪くないのに、手足を縛られる父のことを思うと
胸が張り裂けそうだけど、、、
転倒させないことが本人にとって一番だと考え、
同意書にサインをしました。
どうか、
手足を縛られることがないように、
穏やかに朝を迎えて欲しい。
父は、ナースセンターの中にある病室に移動。
右手だけ、ベッドの柵に繋がれていました。
朦朧とする意識の中、
夜中に駆けつけてくれたことに
「ありがとう」と言っていました。
何にもしてあげられなくて、ごめんね、パパ。
明日また、お見舞いに行くからね。