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ルーマニア雑記帳 +α

Nicoの五感でとらえた在りし日のルーマニアの姿や、
日々思うところを、ぼちぼちと。。。
ルーマニアやモルドヴァの音楽を紹介することもあります。
※ルーマニア雑記帳は2003年3月の記述が元になっています

ランティアとしてルーマニア派遣が内定したのち、約二ヶ月半の間、《訓練》を受けた。主にルーマニア語を学ぶのだが、その他に東欧/ルーマニアの歴史や、暮らしていくために必要な知識などを学んだ。

この訓練中に、衝撃的な映像を見せられた。それは狂犬病の記録映画である。この映像は、一般公開厳禁の代物だった。なにしろ、狂犬病にかかった人々の発病から死に至るまでを克明に記録しているのだ。狂犬病の発症の仕方は何通りかのパターンがあるので、複数の患者が出てきた。こう言っては患者に申し訳ないが、いや恐ろしかった! 犬というよりオオカミのようになり、暴れ苦しみ唸り声を上げ… 最後にはボロきれのようになって死んでしまう。狂犬病の菌を持つ犬にかまれたら、24時間以内にワクチンを打ち、その後も定期的にワクチンを打ちつづけないと100%死んでしまうのだ。南無阿弥陀仏…

この映像の記憶も新しいままルーマニアにやってきた私たちは、初日から思わず立ちすくむハメになった。だって… 路上に見えるのは犬・犬・犬、野犬のオンパレードなのだ! しかも大きな犬ばかり、みな一様にウスラ汚れていて、いかにも《病気持ち》といった感じである。


特に餌付けをしたわけではないんですよ。
こんな感じで、街にふつうにうじゃうじゃいるんです。
 

着いた初日にボランティア事務所のスタッフから《犬よけビーム》がひとりひとりに手渡された。人には聞こえない(ハズの)超音波を発して犬を追い払うというモノなのだが、なんと私の耳はこの音を捉えてしまい、ものすごく気持ち悪くなるので使えないことが判明した。

さて、困った。犬が目に入るおかげで、いろんなことができなくなってしまった。例えば、天気がいいから公園で本でも読もうかと思っても、犬がいるから安心できない。散歩だって躊躇する。急いでいても、走ろうもんなら犬が追いかけてくる。決して犬が嫌いというわけではない私でさえこんな風に気持ちが萎縮してしまったのは、ひとえにあの狂犬病記録映画のおかげだ。もともと犬嫌いだった同期のボランティア仲間は、日々生きた心地がしなかったようだ。

だが、人間どんなものにでも慣れることができるのである。しばらくすると、この野犬たちを可愛いと思えるようになってきた。何しろこの野犬たち、見るからにヤル気がないのである。冬は寒いから丸まって寝ている。夏は暑いから地べたに腹ばいになって、だらしなく舌を出している。ルーマニア人同様遠慮を知らないルーマニア野犬、道のド真ん中で無防備な姿をさらけ出している。だからこそよけいに目につきやすいのだが、間抜けな姿に思わず笑ってしまう。


特に具合が悪いわけでも、死んでるわけではないんですよ。
ちょっと、休んでいるだけです。

野犬たちはたいてい痩せこけていて目ばかりが大きく、その表情はなんとも頼りなげだ。野犬を見る度に、「よし、襲われたってコイツになら勝てる!」と妙な自信が増してしまうような、情けない表情の犬たちばかりである。どうしてこんな顔になってしまうのか、まったく不思議だ。日本では野良犬にしろ飼い犬にしろ、こんな表情を見せる犬にはお目にかかったことがない。もうひとつ不思議なことがある。ルーマニアの南部にはうじゃうじゃいる野犬だが、北部には全然いないのである。北部の町に住んでいたとき、南部から遊びに来たボランティア仲間は例外なく野犬の少なさに感激した。なぜなのか、未だにわからない。

ルーマニア人は一般にこの野犬問題に無頓着とみえて、普段は話題に上ることもない。首都ブカレストでは対策をとろうとしたこともあるらしいが、保健所で《処置》を施そうにもお金がかかるし、動物愛護協会の反対もあって、結局頓挫したようだ。とりあえず、私が見る限りそんなに危険でもなさそうなので、数に驚いたとしても慌てることはなかろう。それでもあの記録映画の影響は大きく、気持ちのどこかでびびっいたらしい。2年間、心中で「あったら便利だろうなぁ」と思い続けてきた自転車に手を出すことは、ついになかった。回転するものを見ると野犬が追いかけてくるって聞いたから…


ルーマニアで暮らしはじめると、はじめの頃は様々なことでイラだつと思う。例えばそれは、街の汚さにだったり、傍若無人な人々の振るまいにだったり、愛想の悪い店員にだったり。そして多くの日本人の気分を最も滅入らせるのは、街を歩いているときに何回、何十回となく投げかけられる、
「キナ(中国!)」
「キネズ(中国人)!」
「チン チョン チャン!!」
等の声だと思う。かなり多くのルーマニア人が、アジア人と見るとこのような言葉でからかってくる。見るからに頭のヨワそうな考えなしの若造がやることが多いが、中年のおっさんが通りすがりに「キナ?」とつぶやくこともあったりして驚く。別に中国人と間違えられたからってどうって事はないのだが、外を歩くたびに平均3分に1回というかなりの頻繁さで言われつづけてみると、さすがに疲れる(ちなみに数字はでたらめですが)。

中国は、「アジア=中国」というくらい、ルーマニア人にとってなじみのある国である。在ルーマニア中国人も多い。しかし、一般にルーマニア人は、中国人に対してあまりいいイメージを持っていないようだ。自分達を苦しめたあの共産主義を未だに維持しているケシカラン国、というイメージがあるし、ルーマニアの裏社会を牛耳っているのはチャイニーズ・マフィアだと、まことしやかに言われているからだ。だが、アジア人を見つけては嬉しそうに「キナ!」と叫んでいるガキンチョからは、それほどの悪意は感じられない。せいぜい、からかってやろうというところか。


ひとりでお茶飲んでたら「キナ?」て声かけてきた二人。
これくらいかわいい子の好奇心だったらゆるす!

彼らの感覚は、かつての日本人が白色人種をみては「ガイジン!」「アメリカ人!」と叫んでいた感覚に近いんじゃないかと思う。とりあえず「中国・中国人!」と叫んでみるものの、彼らは中国とはなんぞや、に関して頓珍漢な知識しかもっていなかったりする。
「私は中国人じゃなくて日本人だよ」
と説明しても、
「同じだよ」
と大まじめに返される。よくよく聞いてみると、日本と香港、台湾の知識がごっちゃになっているのだ。ルーマニアに来たばかりの頃、しつこく「キナ! キナ!」と言いながらどこまでも付きまとってくる若者集団とでくわした。イライラがつのり、思わず、
「むっかつくぅ」
とつぶやいたら、それが、
「むんかっつぃ くいね (犬を食べなさい)」
に聞こえたらしく、
「わー、あんたたち、本当に犬食べるのぉ??」
と彼らは大ヨロコビし始めた。子どもたちばかりでなく、学校の先生に「犬の調理法をおしえてくれ」と、大まじめに聞かれたりすることもある。中国と言えば、犬を食べる・ちんちょんちゃん(中国語の響きがこのように聞こえるようだ)・カンフー というのが一般的なイメージらしい。


ゲルラーのカフェで相席になったおじさんが描いた私。
眉毛、こんなにつりあがってないもん・・・

「キナ!」とうるさく言われたら、反応しないのが一番いい。大多数のヤツらは別に悪意を持っていないし、珍しいアジア人と接してみたいという、幼い願望の表れでしかないのだから。そう思って冷静に彼らを見ていると、素直に好奇心をぶつけてくる素朴さが、なんだか微笑ましくさえ思えてくる(いい年したおっさんに言われると、かなりムッとするけど)。

ちなみに私は、中国人以外のいろんな国名を叫ばれることが多い。最近はベトナムとかインドネシアと言われることが増えてきた。色黒のせいか、雰囲気のせいか。ものすごく丁寧な口調で、
「ウランバートル(モンゴルの首都)のご出身ですか?」
と尋ねられたこともある。一番びっくりしたのは、
「なんだおまえ、日本人か? イタリア人だと思ってたよ」
と大まじめに言われたときだ。そりゃ、私は日本人としては濃い顔だが、いくらなんでもイタリア人は言い過ぎだろう… しかし、そういえばあの沢木耕太郎氏も、シチリア出身と間違われたことがあったような。そんな記述をどこかで読んだ気がする。あっちのほうには、アジア的な顔立ちのイタリア人がいるのだろうか。



たまに、
「ジャポネーザ(日本娘)!」
などと言われると、
「おお、正解!」
と嬉しくなるのだが、
「オレズ(米)!」
と言われたときは首をひねった。はて、米とは…?


今日はちょっと、閑話休題。といっても、
ルーマニアやモルドヴァの話からは完全に離れないけど、
雑記帳はちょっとおやすみ。

3連休は、田んぼで過ごした。
トウキョウで生まれ育った私、
農的生活には全く無縁で暮らしてきた。
そんな自分がいま、里山の田んぼで米を作り、
ミツバチを育てながら生活していることが、
なんかだ不思議で、おかしな気持ちになってくる。



だけど、この生活は一度味わったらやめられそうにない。
1年365日、どこを切り取っても圧倒的に美しい山の田んぼ。
豊かな実りを前に、黙々と鎌をふるいながら、
なんというか、圧倒的な多幸感におそわれていた。



「この世の何を憂うことがあるだろう、
 世界はこんなにも美しい」と。 

もちろん、現実の世界は切ないことが多すぎて、 
とてもじゃないけど
「美しい」なんて思えないこともたくさんある。 

だけど、そんな世界の中で
張り詰めた気持ちのままもがく日々の合間にふと、 

美しいものが、目に入ったら。 
それだけで、心の安らぎ方が違うと思う。 
明日につながる、力の入り方が違うと思う。 
真っ青な空の下に広がる、海原のような稲穂。 
この景色を「美しい、愛しい」と感じられるように育ててくれた、 
それだけでもう、両親に感謝したい。 


私はルーマニアに住むようになってからずっと、 

お隣の国モルドヴァのバンド、Zdob si Zdubが大好きだった。 
彼らの歌は
モルドヴァやルーマニアの民俗音楽がベースになっていて、 

聴いているだけで風景が目に浮かぶような、 そして、
その風景をこよなく愛していることが
聴き手に直球で伝わるような、 

素直でまっすぐで、遊び心たっぷりの歌だった。 

ひょんなことからZdob si Zdubのメンバー達と親しくなり、 
ライブの機会のたびに、いろいろと話をするようになった。 
あるとき、私はリーダーのミハイにこんなことを言ったことがある。 

「Zdob si Zdubの歌は、モルドヴァ大好き!が
 素直に伝わるから好きなんだよね。 

 私はとてもじゃないけど、日本のこと、
 そんな風に思えないよ」 


そのときのミハイの言葉を、今になって良く思い出す。
田んぼで働いているときは、とくに。 


「 自分の国のことをnicoみたいに感じてる人は、
  モルドヴァにもたくさんいるよ。 

 nicoは日本をちゃんと見てる? 
 いいとこもわるいとこも、きっとたくさんある。 
 モルドヴァにも、いいトコもわるいトコもたくさんあって、 
 まぁ、たぶん問題があるトコのほうが多いんだろうな。  
 でも、いいトコたくさん見つけられたほうがいいじゃない? 
 悪いトコばっか気にしてヤサグレるよりも、 
 いいトコたくさん見つけて、
  『もっと、もっと!』て気分上げてるほうが、 

 いい風につながると思わない?」 


その時は、あんまりピンとこなくて、
「そんなものかなぁ、お気楽でいいなぁ」としか思わなかった。
でも、今は思う。ミハイの言うとおりだ。
美しいもの、愛しいものを見つめることは 
別に醜いもの・憎たらしいものに目をつぶることと同じではない。 
美しいものがちゃんと見えたら、
その美しいものを守りたいと思うから、 

醜いと思うものにも、しっかりと対峙できるようになる気がする。 


ルーマニアの風景も、本当に美しいです


都市で暮らしているときは、
人と関わるときは常に気が抜けなくて、
随分と窮屈な肩がこるような思いばかりするから、
人と関わるのは正直あまり好きではなかった。

だけど、山に生きる人や森に集う仲間とかかわり、 

田んぼを始めるようになってから 
自分の気持ちが少しずつ変わってきているのを感じている。 
山や森や田んぼを通して出会う人々の輪の中に、 
自然に素直に存在していられる。 
人を通して、土地にも溶け込んでいくようだ。 
田んぼを取りまく人との関わりの中で、
自分の田んぼがまた愛しくなってくる。 


うまく、ことばにできない。 


ただ、稲穂を眺めて感じる多幸感の中には、 
愛しい人たちに囲まれているという
安心感も含まれているのだと思う。 

田んぼに来た後、
私はいつもよりも少しだけ人に対してやさしくなれる。

 
田んぼには、たくさんのトンボが飛んでいた。 
「トンボのメガネは水色眼鏡 青いお空を見てたから」 
そう、人はトンボの眼鏡をかけているのかもしれない。 
美しいものをたくさん見たら、
美しい色眼鏡で他の世界も見られるのかも。 

気の滅入るような世の中に、
救いのような美しいものを少しでも、見出せるのかも。 


みなさんは、ときどき美しいものをみていますか?  

文中に出てきた、Zdob si Zdubの曲をひとつ。
PVはあんまりそれっぽくないけど、
この曲、農業用のトラクターの歌です♪
ドラム叩いてる髪の長いお兄さんがミハイ。


Zdob si Zdub - Tractorul