ボランティアとしてルーマニア派遣が内定したのち、約二ヶ月半の間、《訓練》を受けた。主にルーマニア語を学ぶのだが、その他に東欧/ルーマニアの歴史や、暮らしていくために必要な知識などを学んだ。
この訓練中に、衝撃的な映像を見せられた。それは狂犬病の記録映画である。この映像は、一般公開厳禁の代物だった。なにしろ、狂犬病にかかった人々の発病から死に至るまでを克明に記録しているのだ。狂犬病の発症の仕方は何通りかのパターンがあるので、複数の患者が出てきた。こう言っては患者に申し訳ないが、いや恐ろしかった! 犬というよりオオカミのようになり、暴れ苦しみ唸り声を上げ… 最後にはボロきれのようになって死んでしまう。狂犬病の菌を持つ犬にかまれたら、24時間以内にワクチンを打ち、その後も定期的にワクチンを打ちつづけないと100%死んでしまうのだ。南無阿弥陀仏…
この映像の記憶も新しいままルーマニアにやってきた私たちは、初日から思わず立ちすくむハメになった。だって… 路上に見えるのは犬・犬・犬、野犬のオンパレードなのだ! しかも大きな犬ばかり、みな一様にウスラ汚れていて、いかにも《病気持ち》といった感じである。
特に餌付けをしたわけではないんですよ。
こんな感じで、街にふつうにうじゃうじゃいるんです。
着いた初日にボランティア事務所のスタッフから《犬よけビーム》がひとりひとりに手渡された。人には聞こえない(ハズの)超音波を発して犬を追い払うというモノなのだが、なんと私の耳はこの音を捉えてしまい、ものすごく気持ち悪くなるので使えないことが判明した。
さて、困った。犬が目に入るおかげで、いろんなことができなくなってしまった。例えば、天気がいいから公園で本でも読もうかと思っても、犬がいるから安心できない。散歩だって躊躇する。急いでいても、走ろうもんなら犬が追いかけてくる。決して犬が嫌いというわけではない私でさえこんな風に気持ちが萎縮してしまったのは、ひとえにあの狂犬病記録映画のおかげだ。もともと犬嫌いだった同期のボランティア仲間は、日々生きた心地がしなかったようだ。
だが、人間どんなものにでも慣れることができるのである。しばらくすると、この野犬たちを可愛いと思えるようになってきた。何しろこの野犬たち、見るからにヤル気がないのである。冬は寒いから丸まって寝ている。夏は暑いから地べたに腹ばいになって、だらしなく舌を出している。ルーマニア人同様遠慮を知らないルーマニア野犬、道のド真ん中で無防備な姿をさらけ出している。だからこそよけいに目につきやすいのだが、間抜けな姿に思わず笑ってしまう。
特に具合が悪いわけでも、死んでるわけではないんですよ。
ちょっと、休んでいるだけです。
野犬たちはたいてい痩せこけていて目ばかりが大きく、その表情はなんとも頼りなげだ。野犬を見る度に、「よし、襲われたってコイツになら勝てる!」と妙な自信が増してしまうような、情けない表情の犬たちばかりである。どうしてこんな顔になってしまうのか、まったく不思議だ。日本では野良犬にしろ飼い犬にしろ、こんな表情を見せる犬にはお目にかかったことがない。もうひとつ不思議なことがある。ルーマニアの南部にはうじゃうじゃいる野犬だが、北部には全然いないのである。北部の町に住んでいたとき、南部から遊びに来たボランティア仲間は例外なく野犬の少なさに感激した。なぜなのか、未だにわからない。
ルーマニア人は一般にこの野犬問題に無頓着とみえて、普段は話題に上ることもない。首都ブカレストでは対策をとろうとしたこともあるらしいが、保健所で《処置》を施そうにもお金がかかるし、動物愛護協会の反対もあって、結局頓挫したようだ。とりあえず、私が見る限りそんなに危険でもなさそうなので、数に驚いたとしても慌てることはなかろう。それでもあの記録映画の影響は大きく、気持ちのどこかでびびっいたらしい。2年間、心中で「あったら便利だろうなぁ」と思い続けてきた自転車に手を出すことは、ついになかった。回転するものを見ると野犬が追いかけてくるって聞いたから…