パウロ2世の死去を悼む
第264代ローマ法王、ヨハネ・パウロ2世が現地時間2日夜(日本時間3日未明)、バチカンの居室で死去した。84歳。ポーランド出身で、10億人を超えるカトリック教徒の最高指導者として東欧革命を精神的に支え、冷戦終結の陰の立役者になった。中東和平、宗教間の対話などにも取り組んだ。(NIKKEI NET)
ローマ法王庁の法王(教皇)が268代も続いていることは、人間の精神的よりどころして今でも世界中の多くの人々が信仰の象徴として崇めている証左といえる。パウロ2世は現代社会の動きを冷静に見つめ平和の尊さを訴え、貧富の格差への配慮を欠いた資本主義のあり方にも疑義を呈し、03年のイラク戦争開戦にも反対したという。
ローマ法王庁の長い歴史を振り返ってみると、苦難やいくつかの誤謬もあったことは事実である。特に16世紀後半から17世紀前半のルネサンス期における宗教改革に対するカトリック教会の反宗教改革は「異端」を排除する論理で教会の権威を守ろうとしたことは歴史的に知られている。パウルス3世の時代(1534~1549)から異端尋問所が再開し、異端者が捕らえられ極刑をうけている。
1600年、クレメンス8世のとき、修道僧、ジョルダーノ・ブルーノは、宇宙は無限に広がるという宇宙論を唱えたがそれが尋問所で異端の考えとされ、火炙りの刑になっている。清水純一氏はブルーノの生涯を描き、この時期を「ルネサンスの偉大と頽廃」と云っている。
偉大なる法王の死にあたりその過去を掘り出すのは失礼かもしれないが、そのような歴史を乗り越えて現在のローマ法王庁があるものと思う。パウロ2世もカトリック教会の過去の過ちを謝罪することをいとわず、その対象はユダヤ教徒、東方教会、19世紀から20世紀初めの中国での布教活動にまで及んだという。
ヨハネ・パウロ2世の死を悼み一言感じたことを述べました。
清水純一著 ルネサンスの偉大と頽廃 -ブルーノの生涯と思想 岩波新書 1972年6月刊
アンデルセン生誕200年
今日はデンマークの童話作家アンデルセンの生誕200年に当たる日である事を朝日新聞の「天声人語」で知った。天声人語は「 彼は、繰り返し外国への旅に出た。帰る時に「デンマークを思うと、私を待ちかまえている悪意に身の毛もよだつ思いだった」と記す。異国での孤独感は旅の味わいを深め、故国での孤独は心の傷を深めたのだろうか」と書いている部分がある。
そういえば彼の書いた「絵のない絵本」では、ひとりぼっちで町に出てきた貧しい絵かきの若者をなぐさめに,月は毎晩(31夜)やってきて自分が空の上から見た,いろいろな国のいろいろな人に起ったできごとを,あれこれと話してくれる。
その大部分はアンデルセン自らの体験や印象にもとずいて書いたものといわれ、彼の訪れたパリ、フランクフルト、イタリアのポンペー、ローマや空想の翼にのってインド、グリーンランド、アフリカ、中国まで出かけ、で彼の憧れの国であったイタリアは3夜に及ぶ。
12夜で、ポンペーの廃墟の中で一人の歌姫が歌うのを月が語る場面がでてくる。歌姫が歌った後、「三分後舞台が空になりました。すべてが去りました、もう物音一つ聞こえなくなりました。あの一団は歩み去ったのです。しかし廃墟は相もかわらず立っていました。これからもなお数百年のあいだ立ち続けるでことしょう。そしてこの瞬間の喝采のことも、美しい歌姫のことも、その歌声やほほえみのことも、だれひとり知るものもなく、忘れさられ、過ぎ去ってしまうのです。わたし自身にとってもこのひと時はすでに消え去った思い出なのです。」
月そのものがアンデルセンであり、彼ががポンペーに旅しその場で感じた心の世界を描いたものと思われる。そこには天声人語のいうように彼の孤独感と同時に豊かなイマジネーションを感じるのである。
アンデルセン著 矢崎源九郎訳 絵のない絵本 新潮文庫 1995年5月刊
「雨ニモマケズ」のモデル・斎藤宗次郎
斉藤宗次郎(1877~1968)というキリスト教伝道者が宮沢賢治の「雨ニモマケズ」のモデルであると聞いたことがある。彼は賢治と同じ花巻出身で、無教会主義のキリスト教者、内村鑑三に強い影響を受け入信。勤務している小学校で伝道を続けたために教職を追われ、新聞配達の仕事でをし、そのとき花巻農学校に勤務していた賢治と知り合ったといわれている。
朝3時に起き、雨の日も風の日も、新聞紙の入った重い風呂敷を背負い新聞を届けた。帰りには病人を見舞ったり、道ばたで遊ぶ子供たちに菓子を分けたり、人々の悩みや訴えを聞いたという。当時キリスト教信者は「ヤソ」と罵倒され彼の子どももひどい仕打ちを受けたが、1926年、師の内村鑑三の下で働くため上京する時に彼を慕う多くの人が見送ったという。上京後特高ににらまれながら、鑑三の弟子として伝道を手伝い、その最期をみとった。
今回、岩波書店から斉藤宗次郎の自伝「二荊自叙伝」上巻が出版された。「二荊」とは、荊(いばら)の冠をつけて十字架にかけられたキリストに続き、自分も苦難を引き受けるという意味である。彼は21歳から死の直前ま日記を書いているが、今回の分は宮沢賢治と親交を深めた大正10年~15年の6年間分である。
編集は山折哲雄、栗原敦の両氏。宗教学者の山折さんは「宗次郎こそ『雨ニモマケズ』のモデルでは。日記は、鑑三や賢治研究の重要な資料で、貴重な証言。再評価すべきだ」と話をしている そういえば山折さんも賢治、宗次郎と同じ花巻出身。何か因縁を感じる本の発行である。賢治を知る意味でもこの本を是非読んでみたい。
斎藤宗次郎著 山折哲雄/栗原敦 編集 二荊自叙伝 上(大正10-15年) 岩波書店 2005/03出版
日本語の起源はタミル語?
タミル人の言語であるタミル語は日本語の起源ではないかという説を唱えたのが著名な国語学者大野晋氏であることを思い出し、その本「日本語の起源」を読み返してみた。大野さんは①すべての音素にわたって音韻の対応がある。②対応する単語が基礎語を中心に500語ある。③文法上ともに膠着語に属し構造的に共通である。④基礎的な助詞・助動詞が音韻と用法上対応する。⑤歌の五七五七七の韻律が共通に見出されなど5つの共通点をあげている。
専門的なことはさておき、②の対応する単語の紹介が興味深い。日本語 のFat_とタミル語のpat_の語根を比較すると、日本語の布、旗 凧(昔は布製)はFata(ハタ)と発音し、どれも糸を織って生み出すもの意味があり、タミル語のPat_am(ハタ)と共通するという。*日本語のFはタミルごではPと発音する)まだまだ類似点があげられているが、大野氏は朝鮮語とも共通点があり、タミル人が大陸から日本にも渡ってきたのではないかとみている。
現在タミル人はスリランカでもう一つの民族シンハリ人と対立状態にあり、多数派であるシンハラ人の優遇政策をとるスリランカ政府に独立運動をおこし対立しているようだ。我々の日本語と関係ある民族が受難の時代を迎えている。
大野晋著 日本語の起源 岩波新書 1994年6月刊
16世紀の画家ブリューゲルの見方
最近、国立西洋美術館学芸課長、幸福輝さんが「ピーテル・ブリューゲル ロマニズムとの共生」という大著を著した。朝日新聞で中世イタリア史研究者の東大の池上俊一氏がこの本について書評を載せている。それによると、幸福さんが「ブリューゲルがフランドル画家として代表者扱いされているのは、19世紀末以来の美術史研究の偏重によってもたらされた異常事態であり、同時代には、人気の点でも画題の一般性の点でも、マイナー画家にすぎなかったと主張。それどころかアントウェルペンの知識人サークルに属していた彼を、農民画家と呼ぶことさえおかしいと、ブリューゲル神話解体を宣言している」と紹介している。気になる文言である。
しかし、幸福さんは「ブリューゲルはイタリア修行を経験したにもかかわらず、他の画家のようには古代遺跡や神話の物語を描かずに、ただひたすら精緻な再現性をもつ自然風景描写にこだわった初期ブリューゲルに、イタリア的理念とフランドルの伝統との融合を見出すことができる」と述べている。これが幸福さんのロマニズムとの共生ということらしい。
私にはブリューゲルは社会世相を鋭敏に感じ取り当時の圧制をそれとなく批判し農民の生活、子供の遊び、自然の風景を描きだしているように思われる。彼の描いた「バベルの塔」は、画面が小さくて見えにくいが、塔の建設に従事する多くの労働者を蟻のように描き出し、人類の営為のむなしさを風刺したと言われている。彼の絵の中に隠された何かとはこのようなことである。その点を幸福さんがどう見ているのか、是非読んでみたい本である。
幸福輝著 ピーテル・ブリューゲル ロマニズムとの共生 ありな書房 2005年2月刊
富山太佳夫氏の絶妙な書評
富山さんはその記録について「一人ひとりの心の想いを語るそうした文章の合間に、ハッとするような、つまり、いつかは歴史の証言となるような言葉がはさまれているのだ。これらは決して感傷的な言葉ではない。これこそが、国際ビジネスの知識や英語を話す能力以上に、今の時代に必要な国際的なセンスであることを、この記録集は生々とした言葉で語っている。現場でためらったり、笑ったり、悩んだりしながら、そのことを知ってゆく若い人々の、そして社会人と呼ばれる人々の証言集である。そのためには、プロの作家のレトリックよりも、文章を書くことにかけてはシロウトのひとたちの言葉の方が力強いことを認めるしかない。」と感動を込めて書いている。
また、文章のはじめにこの本の出会いについて「この本はあるとき人混みの中で、知らないオバちゃんからもらった。どうして私がこの本をもらう破目になったのかよく分からないが、まあ、それはそれとして、ともかく。」ではじまり、最後にこの本で隊員の寸評を書いている小山内さんいついて「どうもシロウトらしくない書きっぷりだと思ったら、このひと、例の『金八先生』の脚本家である。要するに、この一言寸評は彼女から隊員一人ひとりへの御礼の言葉であるが、どんな人物かと冊子掲載の小さな写真を見たら--ワッ、あの人混み中のオバちゃんにそっくりだ!」。軽妙洒脱、そしてツボを押えた書評に感心するともにこの記録集を是非読みたいと注文した。
この本は500円、郵送費300円を添え、計800円で希望者に頒布する。住所はHP参照されたし。
小山内美江子編 2004年度 学校をつくる活動記録集」JHP・学校をつくる会 2004年刊
ドン・キホーテ400周年
昨日騎士道の典型としてイングランドのマーシャルについて書いたが、セルバンテスはドン・キホーテという狂気に襲われた道化的人物を描くことによって,「騎士道物語」に登場する英雄達を諷刺しているという見方がある。レバント海戦で負傷、海賊船に襲われ捕虜生活、帰国後の深い孤独を味わったセルバンテスにとって中世の忠誠を誓う騎士道精神は偽善と見えたのかもしれない。
また空想と現実の混沌とした彼の精神状態は現代にバーチャルなネット社会のそれと似てなくもないが、「拙者は自分が何者であるかを承知している」といいながら自己のアイデンティティを求め苦悩したする姿を読み取ることもできる。我々自身「自分が何者であるかを」わからないでいる現在、ドン・キホーテの生き方について、現代の視点から見直す必要もあるような気もする。
それにしても、WEB検索すると激安店「ドン・キホーテ」がずらりと並び肝腎のセルバンテスの小説の「ドン・キホーテ」はなかなか出てこない。これも現代の側面というべきか。
ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラ/牛島信明 著 ドン・キホーテ(前・後編) 岩波文庫 2001年3月刊
ホワイトナイト
ウィリアム・マーシャルはリチャード一世(獅子心王)に騎士として仕え、リチャード王の死後,弟ジョンと甥アーサーの間に相続争いが勃発したが、ジョンを支持してジョン王即位に貢献している。一時ジョン王に疎外されるが造反せず忠節を守り、、ジョン王が亡くなり、幼いヘンリー三世が跡を継いだときは摂政として助けている。さらに侵略を企てたフランス王フィリップとそれに加担するイングランド諸侯を懸命な処理でまとめフィリップを抑え込みイギリスの平和秩序を回復している。
海外のサイト では彼を次のように述べている。
Marshal's entire life was governed by his oaths of fealty and by his own innate sense of honour. his undefeated knight had become a great statesman in the last years of his life.
マーシャルの生涯は生まれつきの廉恥心と忠誠の誓いに支配されていた。彼の挫けぬ騎士道精神は彼の晩年を偉大な政治家にさせた。
まさにマーシャルはイギリスを救ったホワイトナイトであったわけである。今回の事件でフジテレビ筆頭株主となったソフトバンク系投資会社はマーシャルのようにフジテレビに忠誠心があるはずはなく、ナイトと思っているフジが上手く利用されてしまうのではないか。
リチャ-ド・バ-バ-/田口孝夫 図説騎士道物語冒険とロマンスの時代 原書房 1996/11出版
山田方谷と河井継之助
方谷研究家の矢吹邦彦氏は「ケインズに先駆けた日本人―山田方谷外伝」を著し、「山田方谷による奇蹟の藩政改革は、20世紀の天才ケインズの不況対策論に先立つ自作自演の革命だった」と述べている。矢吹氏の勤務する吉備国際大学には「 山田方谷のホームページ」というサイトがあり、方谷について詳細な研究を載せている。
それによると「日本の借金は国、地方合わせて900兆円を越え、1990年以降続く平成恐慌からいまだ脱け出せないのが日本経済の現状」の中で山田方谷の財政改革が注目を浴びていることが書かれている。3月15日の山陽新聞は「山田方谷の生誕200年にあたり、その業績を多角的に研究して現代に生かそうと、岡山県内の経済、歴史研究者らが中心となって「山田方谷研究会」を設立したことを伝えている。
小説「峠」では継之助が方谷に門人の願いをするが断られる場面が出てくる。ようやく屋敷にとおまる事を許され起居を共する。継之助は講義を受けず彼の行動、雑談の中から学ぼうとする。その中に中国の唐帝9代之徳宗に仕え、最大の税制改革をした首相陸宣公の書いた「陸宣公演奏議集」のことが出てくる。この本を方谷の継之助も読んでいたのである。そしてお互いに財政改革のあり方について共通の願いがあることを確認する。2人の歴史から学ぶ姿勢が印象的である。現在の政治家にこの姿勢があるのか?方谷は明治になってからも子弟の教育に精をだすが継之助は北越戦争で自決したのが惜しまれる。
司馬遼太郎著 峠(上下)新潮文庫 1975年刊
司馬遼太郎の怒り
国内の土地の評価額の合計を示す「土地資産額」がバブル経済末期の1990年末には2452兆2000億円が、2003年末に1298兆9000億になのだから、如何にバブル期の地価が高かったかに驚く。(内閣府調査)
司馬遼太郎は1991年、その著書「風塵抄」の中の「国土」というエッセーで、[土地問題が、日本国とその社会と日本人のくらしを責め苛んでいる。高度成長期の日本人は、もはや国土について神聖感覚をうしなかったかのようである。土地を投機対象に考え、買い占めて値をつりあげたり、銀行などの金融機関はも必要なカネをかしつづけてきた。こんなことが資本主義とか市場主義といえるだろうか」と怒りを込めて書いている。
司馬さんはこのころから「韃靼疾風録」を最後に小説を書くのをやめ、紀行集「街道をゆく」の執筆に転換している。ある評論家に言わせると、今まで司馬さんには坂本龍馬などの革新の意気に燃えた幕末・明治の人物を多く取り上げ、近代日本の国づくりに焦点をすえた小説を多いが、日本の現状に失望を感じ、日本のよさの再発見のために「街道をゆく」に傾斜していったのではないかと述べている。
日本の各地を回っている合間に書いたのがエッセー「この国のかたち」「風塵抄」である。この「風塵抄」当時の産経新聞(若いときこの新聞の記者であった)に載せたたもので平易な文章ながら、日本文化のよさ、現状に対する提言をしている。司馬さんが生きていたら、現代の株価騒動をどうみるだろうか?ホリエモンに明治期の若い改革者たちのイメージをもつだろうか?
司馬遼太郎著 風塵抄 中央公論社 1991年11月刊