海軍落下傘部隊慰霊祭2022年、3年ぶりに参列することが出来ました。

今年も雨で、慰霊祭は額殿にて執り行われました。

 

額殿に祭壇が準備されています。
 


宮司様はじめ、神職の皆様、毎年ありがとうございます。
 

 

 

 

 

玉串が奉納され、今年も無事終わりました。
 

 

今年の参列者で記念撮影。

 

 

今年は、 壮絶な戦死をされた横一特副官 染谷秀雄大尉 の元夫人より、玉串奉納のお申し出をいただき、一緒に奉納させていただきました。

 

104歳でご健在です。

来年も元気で参列したいと思います。

ご無沙汰しております。

海軍落下傘部隊慰霊歳は、
毎年海軍記念日の5月27に、房総館山の安房神社にて執り行われます。

 


 
今年も例年通り、9時半から始まりますので、
ご都合のつく皆さま、どうぞご参集下さい。

私は、昨年、一昨年とコロナ禍では越境となるので、参列はご遠慮し、代理でNPO安房文化遺産フォーラムさんにお願いしておりました。

 

今年は、1942年(昭和17年)旧日本軍初の落下傘部隊降下作戦より
80年となりますので、3年ぶりに参列致します。

私は、前日の26日から館山入りします。

安房神社さんへ、人数のご連絡をしますので、

ご参列くださる方は、こちらまでご連絡くださいませ。
(慰霊祭の椅子の準備の為)

 

 

海軍落下傘慰霊祭2022年

日時:2022年5月27日(金)9:30~10:00
会場:安房神社 海軍落下傘部隊慰霊碑の前

    ( 千葉県館山市大神宮589)

 

※玉串料など奉納される方は、先に社務所にて個人でお納め下さい。

海軍記念日の5月27日には、安房神社あるかぎり執り行われますので、どうぞ、御霊が集まって下さる慰霊祭の時に、参列下さいましたら幸いです。


1993年(平成5年)11月 に建立された、

「海軍落下傘部隊発祥の地の碑」

建立前の、元海軍落下傘部隊戦友会、有志による記念碑建設のご案内です。
後世に伝えたい内容ですので、ご紹介します。

 

【海軍落下傘部隊発祥の地 記念碑建設について】

 

戦後四十数年たち戦時の事は忘れられ、年とともに一人二人と戦友も亡くなり、我々が亡くなった後でも何か記念の標しを後の世に残し、その標を何時の時までも大切にしてくれる物をと考え、安房神社に慰霊碑を建て現代に至っています。

 

この慰霊碑を建てるまでについては大変な苦労と色々な苦心の話を聞いています。特に当初館山航空隊に置くべく話が進んでいた所が、地元の隊員の方の進言により安房神社に決まったそうです。

 

その後、月日が経っているうちに我々が亡くなった後は、誰がこの碑を守ってくれるのか、と心配になり館山(航空隊)へ移せば隊員に世話をしてもらえるとの話で数年前から、碑の移転について話し合ってきましたが、現状でよいと言う人、館山航空隊で引き受けてくれるのであれば、これ程条件の良いことはないと思う人、様々で要はまとまりが付きません。

 

そこで現状の儘にして有志による記念碑を、館山航空隊に建てて末永く残していく事が話題に上がっていました。

 

この度、役員会で落下傘会の発起で、海軍落下傘部隊隊員の有志による、記念碑を建設することになりました。碑の移転に関係なく、碑が二箇所になり、片や発祥の記念碑・片や慰霊碑となります。

 

ご存じの如く館山航空隊は現代自衛隊が使用し、一般に航空隊内を見学させています、我々も見学をしたときに航空隊員の祈念碑が有りました。当時の戦闘機零戦も展示してありました。

 

我々落下傘の発祥の碑をお願いすれば喜んで受け入れて貰え、当自衛隊員の方々が、お世話をしてくれ後の世まで保存して貰えます。

 

   中略

 

戦争は嫌な思い出ですが、二度と戦争が起きないように願いを込めて、後世に残し、日本の将来の教訓になることを祈り建設する次第です。

 



館山航空隊で見学されるとき、建立の趣意を思い出して下さいましたら幸いです。

 

※転載歓迎ですので、転載先をコメントに残して下さい。

 

 

 

 

コピーが切れていて読めない所や、文字がつぶれて解読出来ないとこがありますが、ざっくり書き起こしました。

(解読出来る方、お知らせ下さい)

 

 

神兵に捧ぐ感謝の真心

メナド落下傘部隊の墓碑に毎日参拝する原住民の子供
海軍省許可済第565号


◆花美はし勇士の墓 頭垂れる住民の子
皇軍慕ひ 平和蘇るメナド

【メナドにて○○特派員発】
大東亜戦争はじめての海軍落下傘部隊がこの地に降りてから
一年がめぐって来た、水の美しいトンダノ湖畔の飛行場の一隅には
あの日の感激
級が かはるがはる墓地清掃を行ってゐるのである、

 

聞けばこの子供たちの一人一人にそれぞれ太郎だの俊夫だのといふ
日本名がついているさうである

皇軍の兵隊さんたちから日本名をつけて貰ふことは
子供たちの何よりの喜びであるし、親たちもまた新しく子供が生まれると
必ず聞き覚えの日本名をつけるのだといふことである、

墓地の背後は深い椰子林である、白い花を咲かせたやうに舞ひ降りた
落下傘の勇士たちがその葉末にひっかかって時ならぬ羽衣の天女となったのも
この椰子であった、

降り立った勇士たちが椰子の幹を楯にとって寡兵よくオランダ兵たちを
追払ったのもこの椰子林であった、

思へばこの椰子の一本々々が勇士たちの勛しを永遠に語り伝える記念碑である

土地が高いせゐか、内地の秋のやうに柔く感じる陽射しを浴びて
椰子の葉は空に伸びてゐる、幹にはもう弾丸の痕をみることも出来ない、
よく知られてゐるやうに、この地には白馬にまたがって来た空の神兵の伝説が
古くからあった、

日本の落下傘の勇士はこの伝説を実現したものであることを、
住民たちの誰しもが深く信じてゐる

私達が飛行場からメナドへ車を走らせる道すがら
道の両側にそれに向かって丁寧に頭を下げる住民たちの敬虔な眼差を感じた、

竹で作った大小いろいろな笛と打楽器から成った素朴な子供達の
音楽隊が心をこめて奏でる歓迎の歌のなかにも、
この伝説の実現を称へる句がいくつかあった、

かれらははじめて私達には奇妙なほど真?にあふれ、信頼に満ちてゐるやうに見えた、

?オランダ領の中でも最も勇敢な兵士たちを選んだのがこの土地であることを思へば
それはまさに奇妙ともいうべき従順さであらう

この住民たちの生活が皇軍が入って以来、あらゆる方面で見違へるやうになったことは、すでに幾度か新聞にも伝えられた通りである

部隊長の訓示ひとつによって女や子供たちの??の習慣が一日にしてあとを?ったことなどはその端的な現れのひとつだらう

飛行場からメナドへ60キロ、オランダ兵との間に幾つかの激戦のあった
羊腸たる山道もところどころに立つ勇士たちの墓標を除けば
戦場を感ずることも出来ぬ内地の高原に似た山や樹の景観が
そぞろ旅愁をそそるばかりである、

一年の歳月はメナドの歴史をすっかりかへてしまった、
はじめてこの地に降りた落下傘の勇士たちが成し遂げたことは
決してオランダ兵をうち破るばかりでなかったことをしみじみと知るのである、
空の神兵の伝説はまさに事実となって現れたのである。

 

 


 

独特の猛突で殲滅 空の神兵メナドの偉功
あの感激から一年

 

こちらも降下1年後の記事

「ある部隊では戦闘部隊と一緒に降下した通信兵が機銃を撃ちまくっている」

 

ご参考まで、まずは画像だけ。