窓の外は湿ったびしゃびしゃの雪粒が、じっとりと重たく水分を抱いてガラスを叩いていた。
やっぱり思ったとおり、この地には自分の国よりもたくさんの雪が降るんだなと濡れたガラス窓を見つめた。私の目はこの環境に飽きてしまったことを隠すかのように、目の前の話し手と、その向こうにある大きなガラス窓をゆっくりと交互にとらえていた。
彼は茶色のボーダーの長袖に重たそうなデニムジャケットを着こんだまま、暖房の効きすぎた部屋の中で汗をかいて縮こまっている。彼が私たちに電話をかけたのは数時間前。恐怖に震える声で私たちを呼び寄せた。
彼の部屋にはだいたい背丈は同じくらいの、でもそれぞれ異なった種類の椅子がたくさん並べられていた。テーブルは一つ、そして彼は一人暮らしである。どうしてこんなに椅子ばかりがたくさんあるのかはよくわからなかった。彼は触ったらどろどろしていそうな汗をこめかみに浮かべ、言葉少なに私たちを迎え、椅子をすすめた。「好きなものを選んでいただいて、好きなところに座っていただいてかまいませんので」彼の堅い表情に似合わない言葉だった。
「この家に越してきて1週間が経ちました」
ひとつしかないテーブルの蠟燭の火よりも、外の雪のほうがまだ明るく室内を照らしている。ここから見ると彼の目の下が黒ずんで見える。彼が重々しく話し始める。口元にゆがんだような微笑みがはりついているのが、恥ずかしさをあらわしているのか、それとも恐怖で落ち着かない気持ちをごまかしているのかわからない。私は手元のメモにさっとそのことを書いた。私から少し離れて左手側に座った助手が録音ボタンを静かに押す音がちいさく響いた。
彼はこの家で体験した霊現象について話している。私は心の中で、これは病的なものなのか、それとも気のせいとか、科学的に説明できるものなのか、もしくは本当に霊なのか、考えながら彼の話を咀嚼する。同行している医者と看護師と霊能力があるというお笑い芸人は神妙な顔つきで彼の話に耳を傾けている。
「家でひとりで寝ていると、ミシミシ、と部屋の隅から音が鳴ったり、どたばたと天井で走り回る音が聞こえるんです」
それは家鳴りとネズミじゃないかな、ここは築年数が結構長そうだし。私はこの重たすぎる天候と空気に耐えられず、そう軽快につっこみたくなる。自分の顔の前に蠅がたかっているような感覚が生じ、今聞いた話の重たい不快さをはらいのけたくさせる。私以外の同行者はただただ黙ってうなずき、口を開こうとはしない。私は不快感から気をそらそうとして意識を窓の外に向けた。雪はどんどんひどくなってきている。たしか医師たちと乗ってきた車はノーマルタイヤだ、帰れるんだろうか。あとどのくらいこんな話を聞かなくてはならないのか。彼の怪談がピークに至ったとき、看護師がヒッと息をのんだので私はその音に驚いてとびあがった。笑われるかと思ったが、だれも私に反応することはなかった。
結局3時間ほど、彼の怪談を聞かされた。彼の話の間、彼以外は誰も自分の意見や思ったことを発しなかった。私は途中から集中を切らしてしまい、窓にぶつかる雪の数を数えたり彼の額の汗やジャケットの模様を目で追ったりしていたため、話の内容はよくわからなかった。そもそも、気合だけでここまで来てしまったのだ。日本語のリスニングは、日常会話でなんとかぎりぎりやっていけるレベルをわずかに下回っている。集団で話を聞くとき、私だけが聞けてない単語をいちいち聞き返すことはできない。居眠りしなかっただけましかもしれない。途中から場の並びを変え、彼と私たち全員が輪になって手をつなぐ時間があった。中心におかれた水晶玉に向かって医師がなにやらと話しかける。医療用語はわからなかった。霊能者はなにやらまた聞いたことのない歌のようなものを水晶玉に歌いかけ、そして照明が点滅した。彼らはそれを見て満足し、それぞれが手を離して、今日の会は終了となった。
「あの、さっきの人って、」
雪がやんで安心した。私は助手席に座り、運転席で険しい表情をしてハンドルを握っている看護師に話しかけた。色の黒い、丈夫そうなショートヘアの女性だ。
「なんか病気なんですかね。それともほんとうに霊の仕業?」
看護師は黙って車を運転している。小さい音でかかっていたラジオがきゅうにザーザーと雑音のみを流し、私の発言をかき消そうとする。
あの、と私がもう一度口にしようとすると、後ろの席の医師と霊能者が口を開いた。
「きちゃったね」
「ついてきちゃったねえ」
「シモムラさん、だいじょうぶだからね。そのまま運転に集中して」
「やっぱり、いたんですねえ」
シモムラと呼ばれた看護師の手と唇がぶるぶる震えている。どうやらこの車に、さっきの彼の部屋にいた霊がついてきてしまったようだ。
「刺激しないように。まだ悪意はこちらにないみたいだから」
医師がやんわりと看護師に伝え、織田さんお願いします、と隣に座っている霊能者に小さく合図した。
「だから嫌だったんです、あの家、わたし」シモムラは小さい声でぶつぶつと言った。
「落ち着いて、シモムラさん。その助手席の霊はまだ自分が死んでるって気づいてないから刺激しないで」
霊能者の呪文のようなやわらかな祝詞が車中を包む。安らかな気持ちが私を包み、私の意識はちょっと遠のいた。