相手のせいにするわけじゃないけど、彼がいるとダメだぁ。


彼にも譲れない部分はあって、私にも譲れない部分はあるけど、殆どの場合、彼は私を許す。


そして甘やかされる。


「~してほしい」といえば、殆どの場合、彼のできる範囲できいてくれる。


私が以前と体型が変わって会えなくても(彼はそのことを知らないけど、ウツで会えないと思ってるけど)


良い意味でも悪い意味でも、この現状で例え私が過食しようと怠けた生活をしようと、彼とは繋がっている。


もちろん会いたいけど、自分の今の体型を晒してまで会うつもりもないし言うつもりもない。


要は今の現状、何も変わらなくても、例え良くなろうとして何も努力してなくても彼とは繋がっている。


そこに甘んじてしまう自分がいる。


例えばブログもそう。ここで親しくなって、ブログでの繋がりに甘んじてしまう。


私自身、本当は現実世界で対面で話したり、関係を築いたりするべきなのに、ブログでのネットを通じた関係に甘んじている。「ここで分かってくれる人がいるからいいや」とか。


現実世界で私を理解してくれる人を探したり、自分を晒したりする努力を怠ってはいけない、そう思った。


ブログで書くこと、自分を晒すことは、現実世界で自分を晒すきっかけや練習であればいいけど、私が生きていてぬくもりを求めるのは、常に現実の世界なはず。


私は仮想には生きていないし。


ブログで理解され、同じことで悩む人たちを知り、励まされ、その結果、リアルに温かい声やぬくもりを求めることに手を抜き始めた。良くない傾向。




私は多分ストイックな人間で、とことん孤独にならないと頑張れなかったりする。


彼がいるからい~や、ブログで分かってくれる人がいるからい~や。


治らなくてもい~や。心の底からそんなこと思っているわけじゃないけど、甘えてしまう。


過食もそうだけど、楽なほうへ逃げる自分が嫌いだ。


良くなる自分像であったり、温かいぬくもりであったり、現実に甘んじてないで、もっと飽くことなく欲して、活力にしろよ、自分!!!そう思う。

傷つく出来事に慣れなくたっていい。


平気になんてなれない。


感情の結びつきが強い人との関係なら当然。


筆談しかしなくなった母。


ふとした瞬間に、その態度に物凄く傷つき、自分自身を否定された錯覚に襲われる。


錯覚ではなく、現実のように感じる。


でもここにいるしかない。

相手に自分が「どう扱われるか」が私の自尊心に大きく響くのはなぜ?


それが特に分かってほしい相手だったりすると、相手に適当に扱われる→私は適当に扱われる価値しかない


そうやって考えたり感じたりするのはなぜ??

FERGIE Big girls don't cry


I hope you know, I hope you know
That this has nothing to do with you
It's personal, Myself and I


「分かってほしい、分かってほしい、あなたに分かってほしい」

ずっとそう思ってた。この1年ずっとそう思ってた。

自分の問題だということも分かってた。でも、誰かじゃなく、あなたに分かってほしかった。

泣き言を言って、なぐさめて欲しかった。温かい声が欲しかった。

だんだん、温かい声に多くのことを求めるようになった。

力を注ぐベクトルが変わっていった。


そして、今、



「いつか分かってくれたらいいな、でも分かってくれなくても、いいや。」に変わりつつある。



分かろうと分かるまいと、私がやるべきことをやって立ち上がることに何の変わりもない。


Right??




私は私。あなたはあなた。


あなたに認めてもらう必要はない。


私はきっと自分で自分を認めるから。


あなたが居なければ、生きていけない訳じゃない。


そんなの錯覚だ。


だって1年前はいなかったじゃない?

そんな時は、母の冷たい視線が私に突き刺さる。


その対応にいつも以上に傷つく。


今はこの家にいるしかない。


ここしかない。


今ではなく、一歩先を見る。




また元気になって働いている自分。


家を出て、人を愛して愛されている自分。


親子関係を乗り越え、幸せになっている自分。



それでも辛い時、


泣いたらいいやん、「この現実を悲しんで、変わりたい」って泣いたらいい。

「この人だ」って思った人には、そのまま心ごと「はいっ」って渡してしまう。


相手のとの間に精神的な距離がなくなってしまう。


なんでこうなってしまうのだろう?


私の心はあなたのもの、あなたの心はあなたのもの。