キリリ
興福寺(旧山田寺)仏頭
(イケメンな角度)
彼の遠い視線の先には懐かしい山田寺があるのかしら…
今日のブログ記事の
サブタイトルを
「悲劇の仏さま」
にしたんだけど
「ヒデキ、感激~~」を思い出しちゃった(いきなりなんの話?)
☆彡☆彡☆彡
奈良博の白鳳展では
今の期間
興福寺(旧山田寺)仏頭が、
360度ぐるりと
1. 興福寺東金堂と仏頭くん
ざっとですが、東金堂から見た建物 と仏像の歴史をたどってみます
仏頭は、もちろん山田寺にいらしたわけですから、この歴史の初めのころには当然出てきません
それが、いつ、どうして、興福寺東金堂に来て 、頭だけになっちゃって 、
いまは、東金堂にいないのでしょうか ?
①東金堂の建物1代目、本尊1代目
東金堂と本尊(仏頭ではない)の1代目は
神亀4年(720)に、聖武天皇が元正太上天皇のため、薬師三尊像の造立を発願し、東金堂を創建したところに始まります(興福寺縁起、興福寺流記)
この建物は1017年に焼失します
本尊は救出されました
②建物2代目
その後、建物2代目が建築されたようですが
永承元年(1046)に、建物2代目と本尊が焼失 (扶桑略記)
③建物3代目、本尊2代目
治暦3年(1067)には、建物3代目(扶桑略記等)と、本尊2代目(七大寺日記等)ができました
この時の本尊は定朝作です
そして、これらは、あの平重衡 によって、治承4年(1180)年に焼かれてしまいました(玉葉等)
( これ、興福寺は、いまだに恨みに思ってるよね・・・・ )
④建物4代目
元暦2年(1185) 建物だけ再建されましたが、仏像は未完成 (玉葉)
⑤仏像3代目
文治3年(1187) 山田寺薬師三尊像を奪い
東金堂本尊とする(玉葉)
事件です!事件です!
おまわりさーーん、どろぼうですよーーー
☆彡☆彡☆彡
奈良博の白鳳展では
今の期間
興福寺(旧山田寺)仏頭が、
360度ぐるりと
あらゆる角度から見られるそうで
仏頭くん、さぞや恥ずかしかろう とお察ししていますが
その仏頭くんについてです
細かい歴史はめんどくさいので
どこかにおゆずりするとして
1 興福寺東金堂と仏頭くんの歴史と
2 うまくいかなかった鋳造
仏頭くん、さぞや恥ずかしかろう とお察ししていますが
その仏頭くんについてです
細かい歴史は
1 興福寺東金堂と仏頭くんの歴史と
2 うまくいかなかった鋳造
の2点に話を絞ります☆-( ^-゚)v
1. 興福寺東金堂と仏頭くん
ざっとですが、東金堂から見た建物 と仏像の歴史をたどってみます
仏頭は、もちろん山田寺にいらしたわけですから、この歴史の初めのころには当然出てきません
それが、いつ、どうして、興福寺東金堂に来て 、頭だけになっちゃって 、
いまは、東金堂にいないのでしょうか ?
①東金堂の建物1代目、本尊1代目
東金堂と本尊(仏頭ではない)の1代目は
神亀4年(720)に、聖武天皇が元正太上天皇のため、薬師三尊像の造立を発願し、東金堂を創建したところに始まります(興福寺縁起、興福寺流記)
この建物は1017年に焼失します
本尊は救出されました
②建物2代目
その後、建物2代目が建築されたようですが
永承元年(1046)に、建物2代目と本尊が焼失 (扶桑略記)
③建物3代目、本尊2代目
治暦3年(1067)には、建物3代目(扶桑略記等)と、本尊2代目(七大寺日記等)ができました
この時の本尊は定朝作です
そして、これらは、あの平重衡 によって、治承4年(1180)年に焼かれてしまいました(玉葉等)
( これ、興福寺は、いまだに恨みに思ってるよね・・・・ )
④建物4代目
元暦2年(1185) 建物だけ再建されましたが、仏像は未完成 (玉葉)
⑤仏像3代目
文治3年(1187) 山田寺薬師三尊像を奪い
東金堂本尊とする(玉葉)
事件です!事件です!
おまわりさーーん、どろぼうですよーーー
興福寺が、山田寺から薬師三尊を盗んでますけどー!
そうこうしている間に、
文和5年(1356) 東金堂・五重塔、落雷で焼失(嘉元記等)
(強奪された仏像はまだ無事 )
⑥建物5代目
応安元年(1368) 東金堂、上棟(同上)
応安2年(1369) 東金堂本尊(山田寺からの盗品)を、食堂仮殿から移す(同上)
応永18年(1411) 東金堂・五重塔、落雷で焼失 (火事ばっかりだね)
東金堂本尊も焼失(東院毎日雑々記等)
ここで、頭だけ焼け残り、
「仏頭の誕生」となるわけです
⑦建物6代目、本尊4代目
盗んできたものについては、もうわすれてしまったのか
応永22年(1415)には、東金堂に、食堂から脇侍像を戻し(今も2体だけ、須弥壇とサイズが合わないで立ってるやつね)、新しい本尊薬師像を安置(なぜか、ちょっとムッとするわね )
そして、時は流れ・・・・
⑧昭和12年(1937) 東金堂本尊台座下より、仏頭と銀製仏手が発見される
それまで、忘れられていたわけだ・・・・・・・・・可哀想に・・・・・
2 うまくいかなかった鋳造
一般的な銅像の鋳造方法は↓このような段階を経るようです(造ったことありませんけど)
(これは、朝日新聞出版『国宝の美 彫刻3 白鳳・天平の金銅仏』よりとりました)
笄(こうがい)=銅釘を打ち込む
蜜蝋(蜂蜜のロウ)をうすく、中型に塗りつけ、形をつくります
中型と外型の間に溶けた銅(湯)を流し込むために、湯道をとりつける
↑ああ、イケメンになんてことを!
外型で覆い、補強
④鋳型を焼いてロウ原型を溶かす蜜蝋を高温で溶かしだす
するとそこが空洞になる
⑤銅を鋳込む
↓ 以下、ざっとみます
①後頭部の巣
頭の一番下の部分にポコポコ穴が開いています
これは、溶けた銅の中のガスが頭部に上がり、
そのまま冷えて気泡の穴となったものです
構造図でその部分を見るとこう↓
②お顔
一方お顔はどうかというと
やだ~、美肌じゃん
顔面は、エステにでも行ったのか?
実は、もともとは、ブツブツだったようですよ
アイドル並の修正がはいったわけだ・・・
(この修正を、「嵌金」というようです)
この修正のわけは、デートに行くためにおしゃれをしたわけではなく
後から、金メッキ仕上げをするため地金を整えたということらしいです
(それを人間でやれば、下地クリームとかコンシーラーを塗るってことだわね)
③おでこのラインと髪の毛
ところが、ですね
このおでこと、生え際、頭部を見てください
おでこ…と、
よく見ると、生え際ラインのちょっと上までつるつる
これに対して、ボッコボコの頭部(螺髪がとれたの?)と、両目には
型持は蜜蝋と同じ厚さになるはずです↓
成功例のイメージ図は
↓ こんな感じになります
中型と一体の型持が外型にくっつき、
すき間(蜜蝋があったところ)を
熱い銅が流れてくる
(だから、出来上がると、型持の形に、四角い穴があく)
…はずだったのに…
…実際は、この像は
何らかの事故で、中型と外枠がズレちゃった
ズレの方向は、
上がわ、後ろ側へ向かう方向
後頭部は薄いだけじゃなくて
逆に、顔の面は厚くなる
上から見た頭部↓
正面が厚く(いわゆる、面の皮が厚いタイプか?)
後ろが薄い(だから毛髪の話じゃないよ)
⑤顔面がつぶれる
今までは、山田寺での制作段階での「悲劇」でしたが
当初はカラダもありました
頭だけになったのは
興福寺の火事のせいですから…
興福寺の火事の熱い火のせいで
銅製の彼はぐんにゃりとなってしまい、
重い頭が大福餅のように
ぼてっとおちて潰れて
顔が歪んでしまった・・・
そして、傷ついた頭部は、
ちゃんと成仏しろよ!(って、これ以上どうやって成仏したら…)
(文中の資料は、松田誠一郎先生の講義のものです)
そうこうしている間に、
文和5年(1356) 東金堂・五重塔、落雷で焼失(嘉元記等)
(強奪された仏像はまだ無事 )
⑥建物5代目
応安元年(1368) 東金堂、上棟(同上)
応安2年(1369) 東金堂本尊(山田寺からの盗品)を、食堂仮殿から移す(同上)
応永18年(1411) 東金堂・五重塔、落雷で焼失 (火事ばっかりだね)
東金堂本尊も焼失(東院毎日雑々記等)
ここで、頭だけ焼け残り、
「仏頭の誕生」となるわけです
⑦建物6代目、本尊4代目
盗んできたものについては、もうわすれてしまったのか
応永22年(1415)には、東金堂に、食堂から脇侍像を戻し(今も2体だけ、須弥壇とサイズが合わないで立ってるやつね)、新しい本尊薬師像を安置(なぜか、ちょっとムッとするわね )
そして、時は流れ・・・・
⑧昭和12年(1937) 東金堂本尊台座下より、仏頭と銀製仏手が発見される
それまで、忘れられていたわけだ・・・・・・・・・可哀想に・・・・・
2 うまくいかなかった鋳造
一般的な銅像の鋳造方法は↓このような段階を経るようです(造ったことありませんけど)
(これは、朝日新聞出版『国宝の美 彫刻3 白鳳・天平の金銅仏』よりとりました)
①中型(なかご)をつくる
②ロウ原型をつくる
型持は、外型とのあいだの隙間確保の為に作り出される(あとで、この部分はへっこむので、銅を嵌める必要がある)
銅釘も、外型がずれないように、打ち込むもの
これは、銅で出来ているので、銅を流し込んだら、一体化する
↑なにやら、イケメンの予感…
蜜蝋の厚みは、型持の高さまで
蜜蝋の厚みは、型持の高さまで
③外型をつくる
↑型持は露出してるのがわかるね(真四角の黒いやつ)
(もちろん笄も飛び出ている)
おデコのあたりの型持を覚えておいてね
↑ああ、イケメンになんてことを!
外型で覆い、補強
④鋳型を焼いてロウ原型を溶かす蜜蝋を高温で溶かしだす
するとそこが空洞になる
⑤銅を鋳込む
蜜蝋が溶け出た部分に、銅を流し込む
⑥割り出し
冷めたら、外型をこわす
おおっ!!!!
後は、余計なものを取り去って
美肌にしあげたら
できあがり!
で、山田寺の仏像制作現場では
⑦仕上げ
後は、余計なものを取り去って
美肌にしあげたら
できあがり!
で、山田寺の仏像制作現場では
これが実際には
うまくいかなかったようです
↓ 以下、ざっとみます
①後頭部の巣
頭の一番下の部分にポコポコ穴が開いています
これは、溶けた銅の中のガスが頭部に上がり、
そのまま冷えて気泡の穴となったものです
構造図でその部分を見るとこう↓
②お顔
一方お顔はどうかというと
やだ~、美肌じゃん
顔面は、エステにでも行ったのか?
実は、もともとは、ブツブツだったようですよ
アイドル並の修正がはいったわけだ・・・
(この修正を、「嵌金」というようです)
この修正のわけは、
後から、金メッキ仕上げをするため地金を整えたということらしいです
(それを人間でやれば、下地クリームとかコンシーラーを塗るってことだわね)
③おでこのラインと髪の毛
ところが、ですね
このおでこと、生え際、頭部を見てください
おでこ…と、
よく見ると、生え際ラインのちょっと上までつるつる
これに対して、ボッコボコの頭部(螺髪がとれたの?)と、両目には
実際は、内型と外型がズレて
失敗してしまったようです
型持は蜜蝋と同じ厚さになるはずです↓
成功例のイメージ図は
↓ こんな感じになります
中型と一体の型持が外型にくっつき、
すき間(蜜蝋があったところ)を
熱い銅が流れてくる
(だから、出来上がると、型持の形に、四角い穴があく)
…はずだったのに…
…実際は、この像は
何らかの事故で、中型と外枠がズレちゃった
ズレの方向は、
上がわ、後ろ側へ向かう方向
その結果、
頭のてっぺんに穴があき、
後頭部が薄い
後頭部が薄い
↑ あ、毛髪の話じゃないですからね 銅の厚みの話ですよ
後頭部は薄いだけじゃなくて
型持が飛び出す!ひぇ~
逆に、顔の面は厚くなる
上から見た頭部↓
正面が厚く(いわゆる、面の皮が厚いタイプか?)
後ろが薄い(だから毛髪の話じゃないよ)
よく見ると痛々しいのね
⑤顔面がつぶれる
今までは、山田寺での制作段階での「悲劇」でしたが
当初はカラダもありました
頭だけになったのは
興福寺の火事のせいですから…
興福寺の火事の熱い火のせいで
銅製の彼はぐんにゃりとなってしまい、
重い頭が大福餅のように
ぼてっとおちて潰れて
顔が歪んでしまった・・・
そして、傷ついた頭部は、
長い間、
東金堂の須弥壇の下に押し込められて
昭和の時代まで
東金堂の須弥壇の下に押し込められて
昭和の時代まで
人々に忘れ去られてしまった・・・
こうやってよく見ると
仏頭くんの半生って
踏んだり蹴ったり
だったわけね…
まさに
仏頭くんの半生って
踏んだり蹴ったり
だったわけね…
まさに
悲劇の仏さま…
山田寺で
山田寺で
この仏像が作られた経緯については
省略しましたが
それにしても
仏頭くん
レ・ミゼラブルo(;△;)o
な半生でしたね!
それにしても
仏頭くん
レ・ミゼラブルo(;△;)o
な半生でしたね!
ちゃんと成仏しろよ!(って、これ以上どうやって成仏したら…)
(文中の資料は、松田誠一郎先生の講義のものです)