七海半太郎の倭女王卑弥呼

「竜と剣」の図は、大分県山香町小武寺蔵。木彫製。
竜が立って剣をのみこもうとしている。
出典:富来隆「卑弥呼」学生社1970

龍と剣

護国霊験威力神通大自在王菩薩
これを神仏混淆(こんこう)しての観音菩薩、観世音菩薩という。

1、日本書紀、欽明天皇22年571年
「八幡大明神が、筑紫に顕れたまう。豊前国宇佐郡、厩峰菱形の間に鍛冶の翁あり、首は、甚だ奇異なり。
これに因って大神比義が、穀物を断つこと3年、籠り居し、精進した。幣帛を捧げ、祈っていう。もし汝が神ならばわが前に現れるべしと。
即ち三歳の小児として現れ、竹の葉に立って、よろしく、我はこれ第16代誉田天皇、広幡八幡麻呂なり。わが名をば、護国霊験威力神通大自在王菩薩なり、国々所々に、跡を神道に垂れ、初めて顕れるのみ。・・・」
これを信託と称して、大神比義は宇佐に奉り祭祀した。
(七海注記)
厩峰(まきみね)は、馬屋(うまや)あるいは厩舎のキュウの漢字。
亦の名称を馬城峰、御許山、大元山ともいい、宇佐神宮の奥宮です。
神功皇后のいう幣帛は、絹に馬や龍を描いたものではないか。

2、宇佐八幡託宣集
宇佐八幡託宣集全16巻は、護国霊験・・の16字の一字ずつをとって、宇佐、中津、大分などの各地に残っている。託宣集霊五の巻に、八幡大神が遊幸して宇佐の菱形池に現れたとある。

「鍛冶の翁在り、奇異の瑞をあらわして、一身にして八頭となる。五人行けば三人死し、十人行けば五人死す。・・・大神比義が行ってこれを見ると、ただ金色の鷹が林上にあり。お祈りしていると、たちまち金色の鳩となって袂の上にとまった・・・。三年修業して念ずると、三歳の童子となって、「吾はこれ十六代誉田天皇広幡八幡麻呂なり」と宣うた。

3、同じ巻に、隼人征伐の神託
「下毛郡野仲の勝境、林間の宝池は大菩薩の御修業の昔に、湧出した泉である。(中略)霊木・薬草が生い茂って近づけず、果実、鳥獣が多く集まっている。(中略)
林を出れば日月の下、林に入れば天地の外、ある時は霊蛇が気を吹いて晴天に雲をなし、それがある時は鳥と化して光を放ち暗夜が昼のようになる。(中略)
この池は一面にして三角をなし、薦(マコモ)が茂っている。(中略)、この薦を以て御枕となし、百王を守護する誓となす云々」
三角池は、中津市にある大貞宮における内宮で、「マコモが池」ともいう。池が内宮で、マコモが御神体であるという。
結果、薦を御神験とするようにとの神託がなされた。
マコモ刈り神事は、マコモで枕、敷物を作り、大神が休まれる為にある。
以上(2、3)は、富来隆「卑弥呼」を編集。

五人行けば3人死すなどは、境界の神で、塞の神でしょう。

言語明瞭、意味不明
A林を出れば日月の下、B林に入れば天地の外、Cある時は霊蛇が気を吹いて晴天に雲をなし、Dある時は鳥と化して光を放ち暗夜が昼のようになる。

Aの林は、景行の歌「原葉畳なずく青カシ」のこと、「天の狗」が棲む櫟(イチイカシ)の樹林でしょう。

Bの林に入れは天地の外とは、地下の冥界ではないか。眠ったイヌ世界と考えられる。
(聞一多は、龍は犬に似ているという。仙人の説話から、龍が犬に化けて仙界から降りてくる途中、あるいは飛び上がる瞬間に、嵐と共に豪雨を起こす話が多い。民間でも飼い犬を、黒龍、烏龍という。(桂小蘭「中国古代の犬文化」)

Cの霊蛇は晴天に雲をなすとは、雲に住む龍のことでしょう。

Dの鳥と化して光を放ち暗夜が昼のようになるとは、金星の天照大神の変身、大日霊女貴は、日の反射光でカルラ面のカルラです。ガルダも同じ原理です。
また、和歌山市「国懸神社」は天照大神の荒魂で、凹面鏡が強烈な光の反射で軍神となるとみられる。
金色の鷹は、天照大神の使い。(白い)鳩に代わった場合、平和の使いとなる。

マコモの敷物
小昊金天氏の神・蓐収(じょくしゅう)は、刑天神ですから、敷物は、この神を迎えて隼人を撃つというのでしょう。
三国史記は慶州新羅を金天氏の末裔と明記。豊前田川市の新羅神も同族ではないか。

なぜ、観音菩薩というのか。
観音様は、京都市の三十三間堂にあり、三十三の名称あり。
観音菩薩は、玄奘のいうインドの観音浄土は、輔陀落(梵語ポ―タラカ)の主とみられますが、後ろに摩利志天つまり死しても担がれる卑弥呼かいるのではないか。

忉利天(トゥリテン)は三十三天ともいうが須彌山の頂上を指す。

広幡は、光る幡の意味です。(広幡八幡麻呂)
八幡大菩薩は、梵語Bodhisattvaボディサッタバ:菩提薩埵です。大道心衆生、覚有情大士、高士などと訳す。大勇猛心をもって衆生を済おうとする者、仏に次ぐ位置にある者です。

八幡以前
宋史は、八蕃大菩薩と号する。
(七海注)蕃は垣根(守護)の義、なおかつ、闇の帝王・梟です。571年以前では、西の強者・熊襲梟師の後裔でしょう。
闇から昼の世界への転換
どう考えて見ても、湖北省に居た羅方と盧方が居るのではないか。
羅は網羅の意味で、天を覆う。あるいは、ヒレ(領布)の意味です。

日本では、末羅国と末盧國は、肥前に居ました。
羅方は、熊姓で楚が先祖です。
盧方は、嬀姓で、黒龍:九頭龍を従えていたのではないか。

孝謙天皇「新羅は、神功以来、我が国の垣根になってきた」という。(続日本紀)(七海注)この新羅はスサノオの後裔です。同時に、敦賀気比大神(八角垂)を言外に褒めている。

絹幡に龍あるいは馬を描くと幣帛となるのでしょう。
神功皇后は、幣帛をしきりに供えるのも馬信仰つまり龍信仰にあるのではないか。

田川市の新羅神は、神功皇后に降伏するのに、地図と戸籍とを差し出した。
毎年、馬のクシやムチを届けるという。
幣帛を供えるのはよいが、馬の櫛も供えなさいと新羅大明神スサノオが言うのでしょう。地図は三韓の地図でしょう。

結局、筑穂町の大分宮で、神功皇后が群臣たちと大分(おおわかれ)する時に、筑紫の政を決めた。

御許山:大元山の三神「北辰、北斗、神魂神」
奉祭は、宗像氏後裔の宇佐津彦。狗の後裔辛島氏。三輪神の後裔大神氏。
筑紫倭国王は、壹與以降、男に代わっています。やはり、上記のように三輪神が狗奴を引き継いでいたと思います。

奈良の大倭天皇の傀儡(かいらい)は、蘇佐之男と思います。蘇るのでしょう。
隋書俀国伝の隋の文帝あての文面は、蘇佐之男の後裔でしょう。
一身にして九頭は、スサノオが退治した八俣オロチ(九頭龍)だから、鍛冶の翁を登場させた。
このように、推測します。

余談
私こと、5月11日から5月19日入院していました。同室に年令が九十九才の爺さんが在り、一月前は元気だったという。
爺さんは、病後、口を常に丸く開けていた。
そのさまは、悠なる山の彼方から、声を発しているように見えました。
九十九才は白寿というが、ツヅラとも読み、蛇、龍、剣の村雲をいつの間にか連想していました。