追国4、邪馬台の過誤

後漢書東夷伝倭国条
倭は韓の東南大海中にあり、山島に由って居をなし、およそ百余り国あり。
武帝が朝鮮(衛氏)を滅ぼしてから、
使駅の漢に通じるものは、三十ほどの国あり。国は、みな王(みこ)と称し、世々、統(すべり)を伝える。・・・Aとする。
其大倭王居邪馬臺國。(注、案今名邪馬惟音訛也)・・・Bとする。
楽浪郡境は、其の国を去ること1万2000里。其の西北界拘邪韓国を去ること7000余里。

Aの文章を整理、
王については、多婆那国の脱解王(周防国佐波湊:三田尻港)が参考になる。
「我が国は6才で、王(みこ)となり、28王が居る」七海注:28王は、28の星座をさす。
使駅は、曰佐(オサ:通訳)の意味で、漢語が話せる国が30国という。
距離は、楽浪の境から1万2000里で、邪馬臺國(ヤバタイ)が在ると明紀。
この位置は、魏志倭人伝の邪馬壹國(ヤバイ)と一致します。

同じ場所でも、表記が違う。なぜでしょうか。

Bの訳
それ、大倭王は、邪馬臺國に居する。(注、案ずるに、今の名はヤバイ音の訛りなり)
(七海注記)
其は夫と同じ用法。
「夫れ、楽浪の海中に倭人あり」の用法と同じ。其れは、語調を整える助辞です。
惟は、1イ、ユイ、2ビ、ミ。どちらも、「つらねる」の意味です。
邪馬は、野馬:陽炎で、日の「かげろう」。
大は、長と同じで、兄や姉をさす。

大倭王とは、姉の倭王をさす。つまり開化天皇の姉で、魏志の親魏倭王卑弥呼です。171年南宇佐に着任したから、後漢の時代に該当する。魏志の邪馬壹の壱、イ音で適合します。
壹(イッ、イチ)は、日本語では壱岐や一貴山のイキです。

しかしながら、邪馬臺(ヤバタイ)と邪馬惟(ヤバイ)では、随分違います。
このように、中国でも判別がつきにくい様子がうかがい知れます。
余ほど頭のよい連中が、情報を小出しにしているのでしょう。
それにしても、晩熟型の范曄(ハンヨウ)の後漢書は、よく出来ています。

また、陳寿の倭人伝も見落としはありません。馬韓54余りのダブりの国、倭人伝のダブりも、相手国の言によって、記されています。
このダブりは、区間や区域や一集団を指しています。ゆえ、臣智の中の臣智が統治者です。ペルシャでいう王中の王(大王)の表現とそっくりです。

大事な事
後漢書の注を、ほとんどの書物は取り上げていないので、読者には届かず。
また、邪馬臺の臺(タイ)の字は、後漢の時、台と同じではなく、異なる字でした。
北宋(960年~1127年)になって、臺の字は、台と通用させたので、後漢や魏の時代では使用できない漢字です。(宋元俗字譜が根拠)
したがって、台を使用した邪馬台国は、厳密には、過誤です。
また、中国正史は、すべて臺(タイ)の漢字でした。

表記や音のちがい
この件は、前82年、帯方から1万2000里の如墨委面つまり福島県の文身国(いれずみのくに)が参考と為ります。

ということは、
前221以前、東北の大漢国や文身国、如墨委面は、燕の属国となり、交流していた。(燕は周の姫姓の国)
前108年以降、100余り国が「楽浪の海中に倭人あり」朝貢していた。
前82年頃の如墨委面、57年の倭奴国、107年の俀奴国と続いた。
168年までは邪馬臺國とみられ、狗奴国がかくれています。狗奴の前に、倭国の乱の首謀者:拘奴国が隠れています。(筑後の木佐木地名で判明)
171年からは邪馬壹國:卑弥呼の国と考えられます。
(七海注記)
57年倭奴国は(旧唐書倭国では倭奴国は古の倭国という)
107年倭国王帥の升等(隋書俀国は、俀奴国という) 
帥:率と同じで、升等は、物部氏の六人(むとり)部連ですが、この倭王の帥を俀奴国というが、国王ではない。
升等は、丈夫(ますらお)の義で、帥はワイ族の君長のような者です。
続漢書の倭面土国。これは亀土、倭面上国ともいうから、亀上国となり、南宇佐の亀山をさす。もと比売大神が亀山に載る。最終、神功と応神が載る。
(七海注)倭は漢音でカ音、倭面土は、かめつち(亀土)と読む。

結論は、邪馬臺國(ヤバタイ)と邪馬壹國(ヤバイ)の両方があった。
前者は狗奴国とみられます。(168年、狗奴が拘奴を退け、従えた)
後者は卑弥呼のくに(邦)でした。(171年~247年)

これではじめて、国名に奴がつかなくなった。

景行天皇の日向、高屋での邦偲び歌
矢幡は狗神(くじ)の(祀り)場、原葉たたなづく青カシ、八幡し麗し
(注記)矢幡、八幡のもとの漢字は、どちらも夜摩苔(やばた)の表記。

景行の指す東は、北です。西の京都をさす。京都を指した地点は次のもの。
1西都市高屋神社の北・・・狗奴国の居所:卑弥呼居所の東。
2西都市黒貫寺の北・・・・卑弥呼の居所:大尾山の東面。
黒貫寺は、景行の歌よみ場所という。しかし、七海は卑弥呼の居所とみています。グ―グル地図には高屋神社はないが、黒貫寺の東隣にあります。
なお、景行は、夜摩苔(やばた)の漢字「苔:タイ」を使っていた。
神代紀に、日本と書いて、耶麻騰(やまと)と定義。
騰(トゥ)の音は、苔とは、まるでちがいます。
また、邦偲び歌の邦は、連邦の邦で、国とは書かず。奈良大倭国は、九州倭国とつらなるのでした。天武天皇も国ではなく、邦を使う。

(あそび)
諸橋漢和辞典で、臺(タイ、ダイ)は、壺(コ)の意味で、誤字ですが、この誤字を使う連中がいた。
壺(コの音)を使うとヤバコとなり、日本語のヤバの娘(こ)つまり「かげろうの子」で、卑弥呼に一致します。
梁書諸夷伝倭条では、祁馬臺(キバコ)国と書かれていた。これが最も卑弥呼の人物特定に参考になるヒントでした。
猪の牙と「日のがげろう」の暗示で護国神です。

塞族
辰王の件で思い当たるのは、塞族です。
前176年、匈奴の冒頓に破れた大月氏は、烏孫の土地へ一旦留まる、そして、烏孫に追われ、ソグド洲の南、バクトラ(アム河中流)に留まった。
烏孫の地は塞族の地であっても、塞族は出てこない。なぜか?
4・27追記、史記では塞族が出てこない。漢書罽賓国条、塞族は南の罽賓(カシミール)で君主と為り、分散して数国となるが、疏勒より西北では休循,捐毒の属となった。
同様に辰王と言っても、具体的な人物は馬韓人とするのみです。なぜでしょうか。

辰王と塞族はどこかよく似ています。
1、五行では月は水(論衡説日に由る)であり、方位で辰に当てる。大戴礼・易本命では辰は月を主(つかさ)どる。孔子家語執轡では辰を月と為す。(轡:ヒ:馬の口に含ませる「くつわ」または「手綱」)
・・・馬も月あるいは月の精であった。
2、月氏はインドの釈迦をいう。(本朝続文粋、大江匡房、秋日、陪安楽寺聖廟、同賦神徳契遐年、詩序)徳亞月氏分應化於三千界裏。(徳は月氏を次いで三千界裏に応化を分かつ)。陪:償う。神徳の契を賦す、遐年:遠い年。
應化(応化)とは、菩薩が衆生を救う為に、相手に応じて姿を代えてこの世に現れる事。(仏教用語)
3、顔師古は、釈迦族は塞族と聞くという。
以上、1、2、3で、辰王は月を主り、釈迦の眷族(けんぞく:仲間)を次ぐ者(亞の漢字)で、塞(ソク)族の表記でもあった。故に月支胡というのでしょう。(支:枝)
追(ツイ)族は、月支国でした。
日との関係は、次回で述べます。