追(ツイ)族3、目支国

追族1、2を時系列でまとめてみます。

ステップ1
前11世紀の1023年、箕子は朝鮮の平壌へ行った。56代目箕準は、前195年、衛満に国を取られて、南の馬韓の天安に行った。
前223年以前・・・韓侯の国が秦から追い出されて、真番(漢城)へ来た。

(前108年、衛右渠は、漢の武帝に破れて平壌は楽浪郡になった。真番郡も漢が置いたが、前82年、廃止統合されて三韓は、楽浪郡の管轄となった。・・・楽浪の海中に倭人在り、分かれて100余り国、朝貢する)

後9年、馬韓が弱まって箕準の国は亡んだ。(三国史記の温ソの言)
天帝の子:都慕大王が予言書をもって諸韓を覆って制した。(A後漢書の記事、再度、馬韓人が王となるに一致)

後漢時25~220、馬韓の天安には箕準の後裔:韓王の子孫は居ない。
後9年、韓王の国はすでに滅んでいる。(後漢書の馬韓人は、後9年から都慕大王となり、はじめて目支国となった。箕準は目支国ではない)
つまり、馬韓に居て辰王という表現。この正体は、都慕大王でした。
以上、後漢書の意味するところを解釈。

ステップ2
魏代220~265は、ソウル近旁の漢城人の韓徳を月支国という。なぜか?
前223年以前、追族が真番にすでに来ており、韓侯を迎え入れたので、追族が月支だから、月支国と云う。遡っての追記記事です。後漢書西域伝月支胡は追族だからです。
漢城は稷山里というから、周の始祖、后稷の名を取ったのではないか。
のちに伯済国となり、都慕大王の系統が入った。

211年、韓全体を都慕大王の後裔・狗素王が制した。(日本書紀、大物主の言とみなす)・・・魏志韓伝の馬韓エリアの狗素国で、都慕大王の系統でしょう。

結論
予言書を持った天帝の子・都慕大王が諸韓を制する意味。
まず、後9年以降、百済の始祖都慕大王は、天安へ入って目支国となる。211年、後裔の狗素国が盛んとなり、京城の月支国も伯済国となった。
究極、韓全体が都慕大王系統の配下になった。
これが百済の始祖であり、馬韓人で、辰王でした。(続日本紀、延暦9年条)

すると、
辰韓の春川に居たバク族:貊国(牛頭州)も馬韓人です。
同時に前109年登場の高句驪、句驪もバク族だから馬韓人です。(後漢書高句驪伝・高句驪は夫余の別種)

弁韓の任那も、任姓で夏王の分家だから、馬韓人でしょう。おそらく、任姓の月支胡とみられる。(後漢書、三韓は古の辰国で尽く韓を支配した)

以上、整理してはじめて、辰韓も弁韓も理解可能で、三韓全体がもともとの辰国でした。

考察
もし仮に、箕子を目支国とすれば、箕子は遊牧民となり誤った結果となります。箕子は殷の貴人・賢者です。
馬韓に居て辰王とは、流移の人で都慕大王の系統でした。
もまた、月支国も流移の人で、追族と韓侯の子孫が居たが、韓侯は遊牧民ではない。追族が遊牧民で、月支胡というのでした。
後9年、天安には、都慕大王が入って目支国となった。211年、都慕大王の後裔の狗素国(魏志の馬韓の一国)が、韓全体を制した。漢城の月支国は、もとは遊牧の追族でした。

さらに変な例えですが、玉ねぎの皮をむいても、空(から)でした。
やはり、盧氏つまり末盧国(まつろ)が広大無辺な人物と看做します。
なぜならば、南宇佐:如墨委面は、帯方の沙里院から1万2000里で、前82頃であったからです。(顔師古の注)これが古の辰国でしょう。

熊野大神スサノオ
春川の牛頭州(貊国)に牛頭山あり。曾尸茂梨(ソシモリ)とは、後裔が、蘇りした蘇佐之男(ソサノオ)をかついでいます。

通典東夷伝序
三韓は、海上の島にあって、朝鮮の東南方にある。・・・爆弾記事。
この記事は三韓が九洲にあるという意味で、神功皇后紀の三韓征伐記事と一致します。神功は、九州の三韓(三つのからくに)新羅、百済、高麗を討ったのです。

三韓の本部
隋書俀国伝の秦王国は、辰王国でもあり、豊前です。
辰王とは、日本語でタツだから、龍王を意味し、龍神の国でした。

関連問題
江上波夫の騎馬民族説を否定するために、学者が馬の骨を探しても、前期古墳に馬は見つからない。・・・玉ねぎの中は空(から)でした。
むろん、江上説は、主体が崇神か応神か不詳の曖昧さがあった。

隋書の俀奴国は、如墨委面つまり文身国(福島県)とは、イレズミだから同じ種族ではないか。

南宇佐の女王壱与以降
300年代、九州倭国が男王と為っても、女王即ち神功皇后を担ぎ出し、推古天皇も天照大神(金星)を祭っています。つまり日本は天上の天照大神信仰の邦でした。(隋書東夷伝俀国条)

以上、追族で、韓国史の見えにくい重大記事が見えてきました。
韓国史の十済百済と日本書紀の百済三書は、全く異なった国でした。

日本書記の百済は、北史と隋書百済伝に明紀する百家の百済でした。

延暦9年790、津連真道の上表文は、百済の始祖・都慕大王と明紀し、朝鮮半島の都慕大王の15世貴須王が津連真道の先祖でした。

天平勝宝4年752、孝謙天皇「新羅は神功皇后がかの国を平定した時以来、我が国の播塀(垣根)の役(役割)を果たしてくれた」
かの国は、隋書俀国伝の秦王国(辰王国)つまり新羅をさした暴露記事でした。
孝謙天皇と対話した新羅の金泰廉は、自国を率土の浜という。率土の浜とは、九州が本洲と陸地続きではないと言う意味です。
752年も九州新羅は、孝謙天皇の臣でした。金泰廉は、豊前田川郡金田町の新羅人でしょう。(三国史記の新羅本記、慶州ではない)
神功は九洲を去るに当たって、筑穂の大分宮で筑紫島の政(治)を決めた。大分宮は、箱崎八幡宮へ移った。
福岡市東区に和白地名がある。これは、筑紫三韓国の会議城です。

三輪の大物主神
古事記によると、神武以前、大物主神は渡来神という。
北史の百済は、海を百家で渡った「百済、高麗、新羅、俀、中っ国人」です。中っ国人に大物主の後裔が居るのではないか。
崇神7年、大物主が崇神の夢にあらわれ、崇神天皇に「もうすぐ、海外の国も、自ずと平らぐだろう」と予言した。(日本書紀)
予言は的中し、211年、百済の始祖都慕大王の後裔・狗素王となった。

最後に、都慕大王が韓全体を統一したのは適合していた。しかし、七海は目支国と月支国が同じ国と看做していたが、場所も違っていました。紛らわしいのはこの連中の得意で、ついに落とし穴にはまりました。