七海半太郎の倭女王卑弥呼

(追記)
辰韓は、東西が海に接している。(晋書辰韓伝)
三国史記の慶州新羅(前57年創始)、百済温祚(前18年創始)の国は、当初、豆粒ほどの国でした。両国は、馬韓に統属されていた。


追(ツイ)族2


韓侯の子孫は、最終、半島から日本の摂津に来ています。

(行楽弁当と重箱のような国家)
行楽弁当は、仕切りがいくつか存在します。(三韓の例え)
重箱は、いくつも重ねて、箱かさばらずに済む。
どちらも蓋(ふた)は一つで、覇者は一人です。
日本語は、襲を「かそね」と読み、重に同じです。
結局、天の蓋が誰かと考える話を展開します。

范曄(ハンヨウ)の後漢書韓伝は、魏志韓伝の後に完成した。
戦後、韓国史の課題として辰王問題は、何度も取り上げられたが、未だに不詳です。
次のABの化け物記事を解釈します。

A、目支国
范曄は、三韓の馬韓が強大で、すべて「古の辰国」であったとする。
馬韓は馬韓人を立て辰王とし、目支国を都とし、三韓の地をことごとく支配した。(三韓)諸国の王の先祖は、すべて馬韓種の人であった。
箕準は衛満に破れたので、海上に逃れ、馬韓を攻撃して降伏させ、自立して韓王となった。・・・(これが、現在の天安市です)
準の子孫が亡びると、馬韓の人が来て、また辰王となった。

B、月支国
陳寿は、魏略を引いて辰王は月支国に居て統治しているとする。
箕準の件は魏略を引用。
衛満と戦った箕準は対抗できず、海に出て韓族の地に住みつき、自ら韓王と称した。準は海を渡って朝鮮とは二度と往来しなかった。

七海の解釈
A、準は馬韓を攻撃して自立して韓王と称した。辰王とは言っていない。
B、準は馬韓に行って韓王と氏名を代えていた(仮冒という)。(本姓は子姓)

前194年、準は馬韓を攻撃・降伏させて、住みついた。(Aの記事)
范曄は、東漢観記(25年~220の後漢王朝記)を参考にして、後漢時は、馬韓を目支国とし、目支国を馬韓の辰王とするが、箕準を辰王と書いてはいない。韓王と明紀した。

以上で、辰王と韓王の区別が判明した。

C、後9年、準の子孫の馬韓が滅んだ。(三国史記百済本記の温ソの言)
準の子孫が亡びると、馬韓人が来て復(復帰)して辰王となった。
(後9年以降は、都慕大王の時代だから、目支国は都慕大王の系統です。
211年、魏志の狗素国(くそ)が続き、近肖古王、15代貴須王と続いた。)
(七海注記)近(キ)は助辞で、14代肖古王の義。応神天皇の臣となり、15代貴須王が七支刀を届けた)

D、百済の始祖都慕大王は、太陽の霊を感じ、扶余を覆って諸韓を支配した。(続日本紀)・・・これを後9年とみなす。太陽は天の目だから目支国であるとわかります。
この土地は、全羅北道の扶余地名で代表されており、三国史記の百済(ぺクチュ)は、現在の扶余地名を一度も王都とした記録がありません。

問題は、韓侯の子孫(姫姓)が何処に居たか、です。

新撰姓氏録
諸番の摂津国・史戸は、漢城人韓氏・徳之後也と明紀され、漢城が韓徳の居た所でした。

漢城(ソウル近旁)には、追族が前223年以前、先に来て、韓侯の子孫を迎え入れた。つまり韓侯の後裔の韓徳は、漢城人であった。漢城は稷山里で、周の始祖后稷に由来するのでしょう。

一方、箕準は、前194年、馬韓一国の天安を攻撃、韓王(k)して潜ったのでしょう。次のEでわかります。

E、前20年、慶州の瓠公が馬韓へ外交に行った。馬韓王の言「辰・弁の二韓はわが属国であった。近年には貢物をおくらない。大国につかえる礼がこれでよいのか」(新羅本記)・・・場所違いが明らかです。
迎日湾の項浦新羅と慶州新羅のくい違いで、瓠公は、どうして礼に反するといわれるのか、解せない思いでした。
この仕業は、迎日湾の項浦新羅(弁韓域)です。また、この馬韓王とは箕準の後裔の韓王系統で、韓王の系統は、後9年まで存続していたから、辰王ではない。
(この天安馬韓王は、韓王で後9年まで辰・弁二韓の主権者であった。これを過誤としてもよいが、馬韓王とするから、天安とわかるのです)

韓侯の子孫(姫姓)と韓王(子姓)は、異なる。韓侯は、韓王に仮冒した箕準と混同するほどに、紛らわしい物語でした。

なお、真番旁衆国の位置は、京城(ソウル)近旁としたが、次の文献にでています。
(漢書武帝紀・元封三年前108年条、臣讃の注:茂陵書)
「真番郡治の霅(トゥ)県は、長安を去ること、7640里、15県」
この長安は、遼寧省瀋陽市内の南部で、古の沈陽です。陝西省の長安ではありません。
(志賀県立大学の田中俊明は、独自に遼寧省の瀋陽あたりを平壌とみなされ、楽浪の平壌とは別個と推定されている。田中俊明ブログ)

顔師古
七海は先に如墨委面をブログに容れました。
臣讃を引用した顔師古は、前漢時代、帯方県(沙里院)の東南1万2000里に、如墨委面があったとする。これは九洲豊前の南宇佐をさす。

以上の距離は、いずれも直線距離で、まことに正確でした。

ややこしい話を整理します。
1箕子朝鮮国:平壌城・・・・・・前1023年以降に来た。56代箕準。
2辰王:三韓の主権者で馬韓人・・・真番旁衆国は箕準の南の守護国。
3韓侯:周の武王の弟で分家・・・前223年以前に韓城に来た。
4韓王:箕準の系統・・・・・・前194年、天安に逃れた。後9年に滅ぶ。

問題は、1と2の関係です。
重箱でいえば、蓋(ふた)は、箕子ですが、箕子は徳のある人で、楽浪平壌に居て、動乱で逃げてきた人々に土地を分け与え、半島全体の小国が崇拝する国でした。

まず、辰王の真番が元から居て、重箱の南側で箕子を守っています。
次に、秦の動乱で、燕、斉、趙の人を平壌の西や南へ、韓侯などを南の地に住まわせた。つまり重箱の内側の小箱に容れた。
次に、秦が漢によって倒れると、秦の亡命者も辰韓や弁韓に受け入れた。
追族、バク族は、隠れた存在で、箕子を守護しているのでしょう。

なお、高句驪と句驪のバク族は、箕子の北と西の守り。東ワイは、東の守り国とみられます。(以上は五行説に該当)
そして、トラ崇拝のワイ族はバク族に従属していると思う。

以上で、統治の構造が見えた。しかし、硬い構造ではなく、「近頃、貢物を持ってこない」と箕準の子孫が言うように、箕子の周りの国は、箕子の封国に近似した存在でした。

余談
先学で、後漢書の韓王は、馬韓を攻撃していないという。(証明もせず)
范曄は、東漢観記を引用していたので、こんな説話がでています。そうでなければ、こんな記事は書けないのです。天安を攻撃しても、馬韓人は、箕準の封国だから、むしろ受け入れたフシがあるとみられます。
また韓国の学者で、箕子朝鮮は無かったというが、証明されていないどころか、箕準は韓王に仮冒したとあるのに、箕子朝鮮を韓氏朝鮮とした。誤解です。