貊(バク)族

貉バク、ミャク。2各(カク)
貊バク、ミャク
両者は、同じ種族をさす。

各:1カク。2ラクは、駱ラクの音。
貉バク、ミャクは、貊バク、ミャクと同音です。
百(バク、ミャク)は、貉・貊と同音です。
一白(イッパク)と書けば、百と同じだから、みな白から造られた漢字と考えればよろしい。

追ツイ・貊バクの居住地
韓侯は、陝西省の郃陽県と韓城市の間、現在の合陽市と韓城市の間に居た。
韓侯(周の武王の弟)の国は、周宣公(前609~前591)のとき、突如、宣公は追・バクを封じた。
12代宣公は韓侯に自ら命ずる。
「奕々たる梁山、これは禹が治めたところである。倬たる道があり、韓侯は命を受けた。汝の祖考(父)を継いで我が命を廃するな。夙夜、怠ることなく謹んで汝の位に備えよ。・・・韓侯は、汾王の甥、蹶父(けいおう、厲王の姪で周の重臣の子)の娘を妻として娶った。・・・大いなるかの韓城は、燕人が築いたもの。先祖は命を受け百蛮にそなえ追・バクを賜った。この北国を保有してその伯となりたもう」(詩経・大雅・韓奕)
(七海注記)燕国は幽州で、もと周の召公の封地です。燕国が陝西省の韓城まで勢力を伸ばして居た。山海経の巨燕は、やはり西へ延びていた。
そして、時代は降って、朝鮮半島の韓の地域で、漢水の東北にバク国(春川):牛頭州が、後40年に出て来ます。
どういうことなのか。経緯を追ってみます。

夫余王
シナからの亡命者と記す。当地は、もとワイ・バクの故地であった。(魏志夫余伝) 魏略は北方の高離之国の娘の児:東明という。
当地の南には、高句驪県の高句驪がいて、漢武帝は高句驪県の地に、前108年玄菟郡を置く。
(高句驪は、前38年建国の高句麗王東明ではないのは年代で明白です)

三国遺事は、天帝の子を解慕漱という。吉林省遼河の東寄りに、夫余王・解慕漱が居て大臣の阿蘭沸のすすめで、鴨緑江の北の迦葉原に移り国号を東夫余とした。
意外なのは、阿蘭沸でアラル海とカスピ海の間の阿蘭人です。

ここで、周代の前1023年以降の周の西方や北方を考える。

771年、周の幽王は、西戎・犬戎・繪の連中に攻められ陝西省驪山下で殺され、周は雒邑(洛陽)へ遷都して東周となる。百蛮とは犬戎を脅威と考えられる。
時代は降り、秦が戦国6国を次々に滅ぼしてゆく過程で、韓侯は、徐々に東へゆかざるを得ない。始皇帝即位前221以前、韓侯の子孫が朝鮮半島へ来ている。
燕、斉、趙国の亡命者も朝鮮王箕準を頼って来たので、西に住まわせた。(魏志辰韓伝)

前195年、衛満が朝鮮をのっとる。朝鮮王箕準は、南へ逃れ韓氏を仮冒した。
ここで、韓氏が半島に始めて出てくるのではないか。
以降、しばしば、ワイ、バク、韓と併称される。

高句驪は夫余の枝氏で、鴨緑江の中流域の玄菟郡辺りに居た。高句驪の枝氏の句驪は下流域に居た。よい弓を産するので、貊弓という。句驪をバク耳ともいう。(後漢書高句驪伝)

三国史記新羅本記
春川はバク国で牛頭州という。第3代儒理王17年(40)、華麗(徳源)と不耐(安辺)の二県が北の境を侵してきた。バク国の渠帥が遮断して破ったので、新羅はバク国と友好関係を結んだ。
10代奈解王27年(222)にも百済の兵が牛頭州:曾尸茂利に入ったと記載。

欽明天皇13年(552)
百済が韓城(訂正:漢城と平壌)を棄てた。因って、新羅が漢城に入って居り、今の新羅の牛頭方・尼彌方なり。地名は未だ詳らかならず。(日本書紀)
漢水(漢江)の東北の春川は、貊国で、牛頭州という。(山海経)

都慕大王
後9年、百済の始祖都慕大王は、夫余の解慕漱の後裔とみられる。解慕漱の慕でつながり、のち倭の五王にも慕韓が登場するからです。
高句驪の北方千里にいた夫余は、韓の地域の扶余へ移動したのでしょう。
天帝の子・都慕大王は、扶余を覆って王と為るという。(続日本紀延暦9年)

伯済は、韓78国の一国である。(後漢書韓伝)

高句驪の驪は、通常は黒い馬をさすが、「驪戎の文馬」という場合は異なる。
驪戎の文馬とは、若いときに斑点のある日本鹿のことをいう。
夫余とは、ワイの言語で鹿をさす。

黄帝・・・姓は公孫、名は軒轅
黄帝は、蚩尤と戦い、初め黄帝が敗け、二回目は太鼓や指南車を開発して、蚕尤に勝った。
夫余王解慕漱の先祖は、おそらく蚩尤でしょう。蚩尤は、涿鹿の野で負けて、遼寧省や吉林省へ来た亡命者であろう。
天帝の子:解慕漱の先祖は、黄帝の頃では、蚩尤ではないか。

桜井市穴師兵頭神社は、蚩尤を祭る。
「史記封禅書」の八神に、天主、地主、兵主、陽主、陰主、月主、日主、四時主があり、
兵主は、蚩尤のことで、黄帝と戦った軍神です。

高辛氏の娘婿国
犬封国の馬・・・(馬+良)の一字。良、量と約す。リョウの音。
犬封国に文馬あり、縞身で尾が白く、たてがみは朱色、目は黄金の若し、名は吉良という。注には、吉良は良に作る。(山海経海内北経)

辛国は豊前
神功皇后を辛国息長帯大姫大目命いうのは、辛国(豊前)を征したので、辛国がつくのだと暴露しています。太奈良姫天皇(宋史外国伝)
辛国:宇佐市辛島郷があるように、高辛氏の後裔の狗奴が女王壹與の次に男王となっています。
すると、ひとむかしに田川へ来た新羅の神が神功皇后に降伏したのは、もとは辛国であった。
同時に、朝鮮半島の韓国を都慕大王が制しているから、地図と戸籍を見て、神功は、百家の百済に日本との往還の土地を割いて与えたのです。

元中記の蛮護
萩市見島のジーコンボ遺跡は、狗封国で、日本にきています。
どうやら、新羅大明神スサノオは、犬を連れているのではないか。

任那:大加羅国の王子:角奴鹿阿羅斯等
周の文王は、大任(夏王の枝氏の娘)を母としていた。夏本家は姒姓ですが、ここは夏王の分家の任姓をさす。
任那国は、崇神天皇末頃、朝見するために来日した。やはり天皇の親族ですから、531年以降、任那復興策が執拗にでてきます。結果は復興成らずじまいで、660年、朝鮮半島は、唐と慶州新羅になった。

福岡県田川郡に大任(おうとう)町あり、おそらく任那からの移住者でしょう。大任の大は夏の意味ですから、もろに夏王の分家を指しています。
能登半島穴水町にも美麻奈比古神社があります。

最後に、古代の白は、自と同じ意味で、鼻をさす。
スサノオはイザナギ(龍座)の鼻から生まれてきて、後になって牛頭天王となった。


追記、2012・3・20
前221年、始皇帝は、最後に燕国を降伏せしめた。その直前には、韓侯は箕準を頼って朝鮮半島に来ている。前195年、衛満が朝鮮王箕準を乗っ取る。箕準は韓氏に氏姓を変えて南へ逃げた。(箕準の時代は真番郡です)箕準で56代目ですが、真番郡(ソウル近辺)は、箕氏朝鮮の垣根(守護国)で、旁丞国というので丞相がいた。(王充の論衡)
周の韓侯の後裔は、当然、前1023年の箕子を知っている。
従って、前221以降、韓侯の子孫が確実に馬韓地域に居ます。
どこに身をよせて居たか不詳ですが、辰韓のエリアでしょう。年代が合わないが、江原道の牛頭州(春川):牛頭天王が救うと思います。