目支国

辛国息長帯姫大目命

続日本後記、承和4年(837)条
「太宰府曰く、豊前国田河郡香春神は、辛国息長大姫大目命、忍骨命、豊比咩命の是三社である。
元々この山は石山であって草木がなかったが、延暦22年(803)、最澄が入唐するにあたってこの山に登り、渡海の平安を願って麓に寺を建てて祈祷したところ、石山に草木が繁茂するという神験があった。
水旱疾疫の災いがある毎に郡司百姓が祈祷し、官社に列することを望んだので、之を許した」
なお、最澄の先祖は、
俗姓を三津首と称し、近江の人なり。先祖は後漢孝献帝の苗裔・登万貴王なり。
応神紀に渡来、近江国志賀(大津市の北部)の地を持って、三津首を賜る。(叡山大師伝)
最澄は浙江省天台山へ行った。

目とは、何を指すか。

古事記の日の神は、時に、大枉津日となり、大直日神、神直日の三態を記しています。福岡市警固(けこ)大神は、「神直日神、大直日神、八十禍津日」の総称です。
仲哀9年(200)神功皇后が筑前国那加郡福崎の筑紫石のほとりに警固大神が化現し、新羅征伐の時、再度現れ、軍神たちを警固した。(警固神社由来)

晋書
昴星は、天の耳目を知る。昴星は、日本では天のウズ女です。神功紀には、下関の六連島も出て来ます。昴星は六連星(むつらほし)ともいう。
この場合、天の耳目は、月と日ですから、天の目は、警固大明神でした。

新羅の神
むかし、豊前の田川の河原に「新羅の神」、来たりて住んだ。(豊前風土記)

息長帯姫(神功皇后)は、田川市へ入り、さらに小山田社の峯へ行き、安曇氏提供の潮満つ玉と潮干し玉で、豊前新羅を討ち、高麗、百済も服属させ、九州の三韓を従えました。
なぜならば、三国史記には、この記事が見当たらないからです。
まして、短期間に三韓国(からくに)を討つことは、無理な話です。

辛国(からくに)は、九州の旧豊前(小倉方面を含む)を指しています。
九州新羅とは、新羅大明神といい、スサノオが蘇生した姿です。勿論、後裔がスサノオをかついでいます。

敦賀の気比神社、笥飯の笥(け)は、函、箱の義で、新羅大明神という。

目支(ボクシ、モクシ)、目の日本語は、魚の目です。
ゆえに、阿蘇の魚の目(燭龍)の支流は、建磐龍命でしょう。盤龍鏡そのものが地球の目です。さかのぼれば、元祖は、山代国造目一つの神(鍛冶師)でした。
さらに遡ると、一眼(目)国は、ヘロドトスと山海経にでてきます。アルタイ(金微山)に居ます。

馬韓王
忠清南道天安市には、馬韓の辰王が居り、目支国(後漢書)、月支国(魏志)と記載され、三韓の統治者であった。
辛国息長帯姫大目命は、唐土を平らげたと記すが、実際には、後9年から、馬韓の辰王:都慕大王です。これが、韓全体(三韓)の王ですから、300年代の神功皇后が田川の新羅を征したので、自動的に、唐土(三韓)をも含みます。
おそらく、辰王:秦王で、本部は、隋書俀国伝の豊前が秦王国です。

新羅大明神の八百長
神功皇后は、満つ玉、干し玉で、九州新羅を討った。すると、新羅は、自ら、両手を後ろに縛って、馬のクシと地図・戸籍をさし出した。
神功皇后は、新羅攻撃前、盛んに幣帛(のちの絵馬)を祀る。また、神がかりして、ミトラ(軍神天照大神)の加護を祈る。新羅大明神のスサノオは、姉の天照大神のお告げならば、戦わずに、あっさりと降伏する。同時に百済、高麗も臣従した。無論、九州に居た百済、高麗です。

1八百長とは、八百万の神の長で、地上の王者スサノオをさす。
2スサノオは、天照大神と神功をあたかも馬(龍)に見たてています。
上記の1、2は、言外の暗示で傑作な話をしていました。
つまり神功は巫(かんなぎ)ですが、神功がしきりに幣帛をささげるが、馬のクシも供えなさいとスサノオはいうのでした。
(七海注記)ミトラ:衝賢木・厳の御魂・天疎向津姫です。
「つきさか木・いつのみたま、あめさかる むかつ日女」と読む。
前者のさか木は三星堆の建木。後者は昼間に肉眼で見える金星です。

お陰で、神功は、住吉神の船に乗り、奈良大倭へ入り込めたのです。神功3年、応神天皇が武内大臣とともに敦賀の気比神社へ参拝し、名代えをした。大倭若桜宮へ還って、神功は大宴会をする。
神功皇后の歌に酒が登場します。
「この酒は、私だけの酒ではない。常世に居られる少御神のお造りになった酒、なんと美味しい事よ」
少御神の御は、三だから、まず比売大神(宗像三女神)が入ります。さらに、一人が少彦名(薬師)、一人が卑弥呼[少名日子建猪心命]、そして壹與でした。

敦賀の気比大神は、応神天皇と一心にして同体という。(八幡愚童訓)

宋史(北宋960~1127)では、今の国人が神功天皇を太奈良姫大神と呼んでいた。

なお、魚の目は、渇鉄鉱(かってっこぅ)の中に水あり、水中の雲母が光るのでした。
田原本町の唐古鍵遺跡で、禹余糧(うよりょう)が出土(紀元前のもの)。渇鉄鉱が割れたところへ、翡翠の大勾玉が入っていた。天皇に長生きを願ったのでしょう。
禹歩(うほ)
余太歩きは、蛇行して歩くこと。夏王ウのステップですが、地球を独楽(こま)に例えると、地球の「よろめき」をも意味します。
道教で、1~10を唱えれば、魂も生きかえる。これと関係する。

七支刀
日本百済の祖先は、百家の百済で鉄鍛冶です。金川近くに、谷那の鉄山が在ります。百済の久氐(くてい)と千熊長彦が、谷那の鉄で七支刀を作り、帰国し、神功と応神天皇に献上した。
百家の百済の始祖は、都慕大王。都慕大王の後裔は貴須王でした。延暦9年790年の津真道の上表文が暴露しています。百家の百済には高麗(狛)もいるから、狛犬に関係する。「王仁・・・王辰爾」つまりもと楽浪の王氏です。(これは、三国史記の百済ではない。)

最後に、辛国(からくに)とは、やはり高辛氏の娘婿国で、狗神(くじ)のイヌ族でしょう。宇佐市辛島郷。辛島氏の先祖は迎実湾から亀の背に乗って来た。
狗奴の奴(やっこ)は、造(みやっこ)の「み」を省くと、造(やっこ)と同じです。
狗奴は、イヌ族、なおかつ「くど」はカマド信仰者でした。
おそらく、大人のスサノオが連れた犬でしょう。
警固神社は犬科のキツネ二匹の像があるが、一方は(犬や狗)に似ています。