七海半太郎の倭女王卑弥呼


史記・五帝本記の系図

舜と禹の後裔

春秋左氏伝(略称:左伝)と一致する記事が、史記の世家で見つかりました。

現代中国では、日本の天皇と同じくらい、120代も続く家系が在ります。
古代中国では、「姓氏を絶やさずに、長く続けよ」とよく言われます。
きょうは、こんな物語です。

史記・陳世家・杞世家第六
周の武王が天下統一後、
舜の子孫を封じた「陳国」、
禹の子孫を封じた「杞国」の二つが、
絶えなかったのは、舜や禹の人となりが、「聖徳之人」であったのではないか。故に司馬遷は世家に第六をあげるという。

「昔、舜が庶民であるとき、帝尭は、娘二人(常儀と女英)を舜の妻とした。山西省の嬀(ギ)水と汭(ゼイ)水に因んで、舜の後裔を「嬀姓」とした。

舜が崩じ、禹が天下を伝えると、舜の子:商均が封国となる。(中略)、

周の武帝が殷に克つに至り、舜の後裔「嬀姓の胡満」を見つけて、胡満を陳に封じて舜の祭りをさせた。これを胡公という。(胡はエビス)

前446年、楚が陳を滅ぼしたが、その時、陳の一族で斉国の田氏(田常)が既に興起していた。

禹に至っては、夏の子裔は、杞国に封ぜられた。
前479年、楚の恵王が杞国を滅ぼしたが、その後、越王勾践が興隆して、禹の後裔が盛大になったのである。」・・・(これが左伝の記事や国語・越語と一致)
また、越は会稽に都を設けたが、禹(ウ)の会稽での即位と一致します。

(七海の年代整理)
年代順は、黄帝、帝顓頊、帝コク、帝尭、帝舜、夏王朝帝ウとなる。

夏王の即位は、中国科学院の推定で前2070年とする。
周の武王の克殷年は、(前1060、前1023など)の推定があります。

帝尭の時、尭の娘二人を帝舜の妻とした。舜の子を商均(嬀姓)という。
帝ウの時、舜が崩じ、商均がウの封国となる。
周武王の時、舜の子孫・胡公満(嬀姓)を探し見つけ出し、陳を封国として、先祖の舜を祀らせた。(胡満:胡公満)

楚の恵王44年、楚は杞国を滅ぼした。その滅亡は、陳の滅亡に遅れる事、34年である。(史記・陳世家・杞世家第六)
<上記を周の年代でみる>
西紀:前479年、周の宣公24年、魯の孔子が卒した年。
前479年は、楚の恵王が杞国の湣(ビン)公を殺した年。
前446年、楚が陳国を滅ぼした。(史記・陳世家・杞世家第六)

舜の子は商均以外に8人居ます。
(七海は、舜の後裔が張エキの小月氏ではないかと思っています。理由は、胡満という西方の胡がつくからです。
前176年、匈奴の冒頓単于が討ったのは、同族の大月氏であり、小月氏を討っていないからです。
不思議なことに、冒頓は、漢劉邦から匈奴へ逃げてきた燕王「盧ワン」を歓迎して、東胡の地を与えています)

なお、上記の司馬遷作の系図を疑ってみても、何も始まらないと思っています。

舜を遡る帝顓頊との間に五人が居ますが、
帝顓頊の子の鯀(コン)は、帝尭が東夷の羽山へ流したが、鯀は生きかえって、ウが出生したという。
この解釈は、時間順序だけでよいと思います。

むしろ、
1尭の出生は、帝コクと陳鋒の娘との子。この陳鋒は、誰なのか。
2帝コクと「娵訾」の娘の子、摯(シ)は、だれかを、問題とします。

1の陳鋒氏とは?
舜は姚[ヨウ]姓で、後代では、その子商均は、姚姓でなければならない。
陳国はかって舜が都したところ。七海は陳氏を嬀(ギ)姓としたのが間違いなのか。後述、再検討します。

2は、黄帝と同時代の少昊金天氏(摯姓)が、鳥を官名とした国を作った。「鳥夷」という経緯があります。金天氏の国は、魯国の地域で確定。のち周公が同地で封国となる。(魯周公世家の記事)
すると、「娵訾」(シュウシ)は金天氏系統の娘ではないか。摯(シ)は、魯国の地域へ行ったと考えられます。これで確実です。

陳鋒氏を再検討
古代は女権社会で、男は女性の姓を本姓とした。のちに男権社会になって、氏は王が与えた。
舜の姓:姚(ヨウ)姓
夏のウ:姒(ジ)姓
殷の契:子(シ)姓
周の棄:姫(キ)姓は、
摯(シ)は、金天氏の系統の「娵訾」娘だから、摯姓となっています。
上記は、みな女性の姓を採用しているから、確定です。

では、尭の姓は、どうでしょうか。
尭の姓は、やはり嬀姓です。
これで、舜と「尭の娘二人」の子の一人:商均は、嬀姓と合致した。
以前のブログで、七海は、胡公満を嬀姓(陳氏)としたのは、間違いではなく適合していた。
ややこしいのは、司馬遷が嬀水に因んで嬀姓としたと表現。
しかしこの記事は、アラル海へ注ぐアム河(嬀水)や盧氏(嬀姓)をも暗示していたのではないか。
舜が歴山を開拓したとき、盧氏もいたからです。

袁珂「中国の神話伝説」
帝舜は、帝俊という似た人が居て、帝俊を介在させて、帝舜は帝コクと同じ人物とする。
これを知ってか知らないかは別として、白川静が袁珂と同じ解釈をしている。
しかし、系図の再編をしていいないので、七海は採用できない。

何を信じるのかは、読者の判断ですが、
史実という以前に、まずは史料を綴ること、そして矛盾を突くことに由って、新たな発見があると考えます。矛盾は中国哲学の常です。

現に、七海は東晋の明帝と臣の「余謗」との会話から、明帝の始祖:司馬仲達は、夫余族出身であったことを証明した。髭が特徴で、世間では鮮卑奴とも云っていた。夫余の大臣「阿蘭沸」は、アラル海とカスピ海の草原に居た阿蘭人でした。

夏王の後裔「杞国の後裔田斉」は、1500年を経てポツンと出てくるが、つながっていた。福岡市に、田という地名があるが、所以は不詳です。
一方、帝舜の後裔は、陳氏ですが、1700年ほど続いていた。

出雲の阿国(おくに)は、1603年頃の歌舞伎。火の神アグニと近似。

越王勾践は、夏の六代少康の子孫。(国語下の越語)
天皇は、夏の六代少康の苗裔。(魏志倭人伝)
火明命は、天皇と同族です。(日本書紀)
(なお、呉の太伯は周の人、江戸時代に呉は日本の天皇の系統という人あり、水戸黄門が、否定するために、大日本紀を書いた)

以上、これまで通り似た者を綴ってゆきます。

七海のつぶやき
囲碁で「当たり」の時、
当たりじゃ、当たりじゃ「まえだのクラッカー」という人がいます。

尾張氏や物部氏の始祖は、火明命あるいは饒速日命と略称される。
正式には、天照国照彦火明饒速日櫛玉命です。