七海半太郎の倭女王卑弥呼

史記五帝本記の系図
帝嚳高辛氏の子・・・口部の嚳(コク)
弃:棄(キ)で周の先祖の姫姓。契は殷の先祖の子姓。尭は帝堯唐陶氏で大唐帝国の先祖でしょう。(帝舜と夏后禹(ウ)は、顓頊帝の後)
年代順は、尭、舜、ウ、殷、周となります。犬戎国は帝コクの時代で、帝コク高辛氏の娘婿国が、犬封国、狗封国です。

炎帝神農氏

三皇は伏義、黄帝、神農で、羌族の本貫の炎帝神農を書きます。

炎帝は羌姓である。母は女登(有媧氏の娘)で、神龍に感じて炎帝を生んだ。
人身牛首で肉角あり。羌水のほとりで生まれたので、羌姓とした。
生地は、湖北省随州市曾都区で、左伝にいう昔の烈山という。
木で鋤を作り農耕を教えたので神農氏という。また、医薬、五弦の瑟(琴)を作った。物々交換の市を開いた。伏義氏の八卦をとり64卦を作った。
初めは陳(河南省商丘市)に都した。後に曲阜に移った。王位につき120年で崩れ湖南省長沙市に埋葬された。炎帝は火徳の人だから、炎帝という。

炎帝は、奔水氏の娘を妃とし、魁を生み、承、明、直、釐(タイ)、哀、克、楡罔と八代続き、530年で黄帝軒轅氏に代わった。
羌姓の後裔の国
州、甫、甘、許、戯、露、斉、紀、怡、向、申、呂の12氏で、
皆、諸侯となった。
ある者は、四岳という四方の諸侯長を司どり、甫侯と申伯は周の賢相、斉と許は諸侯に列して覇をとなえた。みな、炎帝の徳育であろう。(三皇五帝を編集)

なんと悠なる話でしたが、ここで釐(タイ)という姓に着目します。

邰(タイ)という国
(説文)邰は、炎帝神農氏の後、羌姓の封ぜられし所。周の棄(キ)の外家の国で、陝西省武功県の西南にあり。
(詩経・大雅生民) 有邰の家室につく。(伝) 邰は羌嫄(帝コク高辛氏の正妃)の国なり、帝堯は、后稷の生を見、故に后稷を邰に国となす。(七海注、有:語調をととのえるもので、有邰は邰の家の意味です)
(通訓)帝尭は、后稷を邰に封じ、羌姓を他処に(移し)国とする。前11世紀後半、周の武王に至って、炎帝神農氏の後を邰に封ず。今の陝西省武功県の南に在り。

中山国の編著「穀梁伝」襄公12年
莒人(キョ人)は、我が東鄙を伐って邰をかこむ。
(釈文) 邰(タイ)の本貫は、台に作る。
(集韻)邰は、斄、釐、漦(タイ)の姓。(中山国の姓は釐に同じ)あるいは、説文の「炎帝之後、詩の邰家の室に引く」
(史記周本紀)、舜は棄(キ)を邰に封ず。(漢書郊祀志下)、后を邰に封ず。(顔師古注)邰は斄に同じで、胎(タイ)の音とする。

中山国の釐姓
中山王国は、祖先を鮮虞という。白狄の一種で北から来たか、不詳。
春秋時代の鮮虞の姓は釐、戦国になって中山王国と称した。(穀梁伝)

この釐という姓は、山海経によると元は苗民(三苗)です。
山海経・大荒北経、西北の海の外
黒水(金沙江)の北に人あり、翼をもつ。名は苗民。顓頊は驩頭を生み、驩頭は苗民(三苗)を生む。苗民は、釐の姓、肉を食う。

後漢書西羌伝
西羌の本(貫)は、三苗より出る、羌姓(炎帝)の別(支流)なり。
ということは、西羌は、炎帝の庶流で、三苗です。

無弋爰剣
秦の厲公(前857~842)の時、羌の無弋爰剣(むよくえんけん)は、秦に捕らえられ、奴隸とされた。しかし、逃れて西羌の酋豪となった。
酋豪となったのは、秦が穴に入った無弋爰剣を火攻めにしても死なず、まるで虎のようだった。羌人は神と信じたという(後漢書西羌伝)

無弋爰剣の後裔
その後、後裔は、釐牛種となった者を「越雟(えつすい)羌」という。「えつすい」の郡治は、邛都(きょうと)で、四川省西昌市の東南にあり。
曾孫の無弋「忍」は九子を生み、九種の種となり、弟「舞」は17子を生み十七種となり、羌が興勢となる。
忍の子の無弋「研」が立つに及んで、秦の孝公(前381~338)の威服で戎狄92国とともに、周の顕王(前368~321)に朝見する。研は蒙健であり、羌中の人はその後裔を「研種」と号した。
秦の始皇帝(前259~前210)の(前221)以前、研種は、秦が六国を併合する事に努め、兵は西に向かわず、故に研種の人は多く生息する事ができた。(後漢書西羌伝)

ここに、無弋爰剣の後裔の研、研種は、秦の強力な部隊となったのでしょう。
釐姓の中山国は、鮮虞氏で、釐姓は三苗の末裔と山海経が記す。

ところで、釐牛種は、四川省の「越雟羌」ですが、羌姓の子孫が沢山居るから、中山国の釐姓も、羌姓の出自でしょう。
中山国は、春秋時代の鮮虞といい釐姓という。戦国(前475~)の始め頃に中山王国と名乗る。三代続いて魏(姫姓の国、前403年に諸候となって以降)に併合された。中山は白狄ではなく三苗です。
炎帝は牛頭で、三苗は祝融(衡山の神)の信仰者でした。

ところで、前223年、楚は秦に滅ぼされたが、その後どうなったのでしょう。

楚の屈原(羋姓)の5月5日の節句が、天武天皇が始める事や京都祇園さんで祀られるのは、どうしてでしょうか。
楚国は、熊氏で羋(ビ)姓の国、熊襲と関係するのか。
熊襲は熊を踏襲した義、もまた取石鹿文ともいう鍛冶屋です。
楚国は、昆吾の剣が象徴的で、この剣は西域南道の和田(コータン)にも通じていた。

始祖縉雲氏の三苗は、祝融(湖南省衡山)を信仰、祝融は、燭龍と同じ現象で,火山の神でした。
縉雲氏の不才子を饕餮(トウテツ)と云って、帝堯が南蛮の習俗になじませた。
(七海注)縉(シン)は、うすい赤絹の色をさす。
ということは、蛮氏と同じエリアにいた。
蛮氏は、盤瓠すなわち高辛氏の娘婿の犬封国:狗封国で、日本に来ています。

西域の麹氏高昌国(アスターナ)も火の神(アグニ)でした。

日本では、阿蘇山は火の神(阿国:小国:於国)、地球のニキビ(吹き出物)で燭龍でしょう。阿国(おくに)はアグニの音に近似します。

関連問題
釐牛種とは、「からうし」の毛でできた軍の指揮幡で、秦が初めに採用した。天の耳目を知る怖い昴星という(林巳奈夫)七海は牛耳るとおもう。

以上、決定打は不足しますが、楚国は日本に来ています。
証拠は辰韓の言語にあり、虎を於菟(オト)といい、秦の言語というが、「於菟」は楚の言葉でもあったからです。

七海のつぶやき
当たりじゃ、たたり邪、何スルメ。・・・三輪の大物主、美和!
鮮とは、朝鮮半島にいた狢族(貊)のことば。中山国の鮮虞に通じるのではないか。