七海半太郎の倭女王卑弥呼


図は、堀 晄「古代インド文明の謎」による。

支那の呼称を遡る

きょうは、「驚き桃の木、山椒の木」の類の話です。

秦の始皇帝のシンが、全国統一し、その威厳が国の内外に及び、外国人は、秦をなまって支那といった。(諸橋轍次「大漢和辞典」)

この辞書は、1925年~2000の75年を費やして完成した。この辞書のおかげで、日本人は古代の中国を理解できるのです。
なお、支那説は諸説あります。

蘇曼殊1884~1918・・・支那の茶商人と日本人女性の子。横浜生まれ。
東京外大教授、鐘ヶ江信光「中国語のすすめ」講談社学術新書昭和35年を読むと、支那の由来は、時代の違いからして、始皇帝ではないという蘇曼殊の説がありました。

蘇曼殊は、前1400年頃のインドの古詩に、中国を指して、「チナ」という名称が使用されているという。
それが、仏典の中にしばしば用いられ、中国の呼称になったのだという。
仏典には、至那、脂那、支那と記載。これは、インド人がこのように呼んでいるのを中国人が音写したものです。
シナの名称の起りは、インドにあり、それを転写したのも中国人でした。
ですから、支那は一種の他称で、名称自体は何の罪もないのですが、しかし、国名でも何でもないものをなんとなしに使っていたことも、おかしなことでした。
けれども一方では、学門的な記述の場合、中華人民共和国(略して中国)と言う表現では、時代が現代に限られます。政治や思想や時代を超越して、便宜的にシナという方法が用いられています。以上「中国語のすすめ」を編集。カッコは七海挿入。

なお、蘇曼殊は、サンスクリットを学んでいます。

七海にとっては、これ以上に知りませんが、少々蛇足をつけます。

思うに、インドの古詩は、リグヴエーダとみられます。例のインドラ:帝釈天ほかの神々が出てくる物語です。

リグヴェーダ
バラモン教の聖典ベーダの一。一〇巻一〇一七の賛歌および一一の補遺の賛歌から成る。紀元前1200~前1000年頃編纂。神々を賛美することにより、願望を成就しようとする傾向の歌が多い。四ベーダの中心をなす。梨倶吠陀(りぐばいだ)。(三省堂大辞林)

これに拠ると、少なくとも、前1000年までには、中国のことを、インド人が「チナ」と言っていたようです。
(玄奘は、インドに於いて支那僧と呼ばれ、帝釈天の昔話を仕入れてきました。唐に始めて知られた公伝でしょう。余談:インドでは月にウサギがいる話しの元。中国では月に蛙と亀が居る。日本ではウサギで、皆くい違いあり)

古代の中国
中国とは、中原の義です。
中央の意味で、歴代天子の所有するエリア(中原)でした。
厳密には、周りの国々は、西の戎、北の狄、東の夷、南の蛮という。
周りの国を中国とは云わない。
したがって、中国史書には、支那は出てこない。みな歴代天子の国名が出てくるだけです。
寄って、上記の中国は、天子のエリアだけです。周りの国は、柵封という友好関係でつながるだけで、皆、天子の臣下の国でした。

始皇帝の先祖の先秦も周りの国でしたが、周朝の国々を併合して、前221年、中央の天子となりました。秦の先祖は、少昊金天氏の後裔で、姓は嬴(エィ)です。窮奇も金天氏の不肖の息子で、古い国でした。

語源としては、諸橋漢和辞典のいう秦:シン⇒シーナの訛りチ―ナは、顕在化した段階でしょう。

結局、どこでどうつながっていたのか、解りませんが、
多分に楼蘭に居たトカラ人が知っていて、チベット族の羌族、氐族が、西方へ「チナ」を運んだのではないか。
とくに、トカラ人の居った楼蘭は、考古遺物で、前1500年と推定されています。
周りの国のトカラ人(楼蘭)が、天子の国を指して、言ったものと推定します。また、トカラ語は、印欧語族の化石語だからです。

中国の暦の60の月を表す「干支」は、インドへ行って、インドでは、日を表す用語となり、中国へ還ってきて、「日づけ」にもになった。(岡田芳郎「旧暦読本」)

古代から、中国の周りの国々は、せっせと天子に文物を運んで居ます。

蘇曼殊の説の「チナ」は、最も早期の表記で、これも妥当でしょう。

七海の蛇足は、この程度です。

もうひとつ考えられる事は、震旦国(しんたん)です。
震旦国の表記は、前1027年頃、周の武王が封じた陳氏の国(河南省准陽県)です。陳の本姓は、嬀姓で、先祖は帝舜です。
陳:チンは、Cinaチ―ナでしょう。( iは長母音)
こちらは、訛りではなく、もろに音写可能です。

また、前2200年頃、福建省あたりの華南の連中が太平洋の島々や東南アジア、アフリカのマダガスカルへと足を展ばしていました。小山修三「縄文学への道」
これは松本信弘のいうモンメール語族とつながります。モン族が古い。
松本信弘は、モンメール語の狗(イヌ)を、大とか玄の意味と訳しています。
忘れてはならない事は、イノシシの土偶(青森県)の出土です。ここも太平洋の島々だからです。

紛らわしい話でしたが、支那は、日本の先学:江戸中期の人が既に使用しています。

まだ、考える材料があります。

西方史料のセリカ、セレス
これらは、セリカ(中国)、セレス(中国人)をさします。
張ケンが大夏で見た絹や杖は、何処から仕入れたかと聞き、インドからの答えでした。
その前に、バクトリア王国人(ギリシャ人)は、はじめてインドでみた絹をインド産と勘違いしていました。
古代ローマ人やギリシャ人は、中国人をセレスといい、タリム盆地のトカラ語を話す住民を指した語で、絹の生産者を意味する。

大辞林のシナ
支那は中国に対して、かっての日本人が用いた呼称。秦の帝に由来とされ、それがインドや西方に伝わり、中国に逆輸入されて、漢訳仏典で、支那、震旦に音訳されたことに拠る。日本では江戸中期以降、第2次大戦まで用いられた。
大辞林の震旦
「天草本平家物語4」では、「しんだん」ともいう。秦帝国の土地の意の梵語で中国をいう。コゥライ、テンジクまでも含む。
梵語で、チ―ナ・スターナCina suthanaという。

ルイ・ルヌー著「梵仏辞典」
Cina suthanaは、Transhi-mala yens=マラヤを含めている。

余談、
隋書百済伝、百家で海を渡った百済(くだら)には、高麗、新羅、俀人、中国人がいた。これは、中つ国人と読み、みな、元から日本に居た人が朝鮮半島へ渡ったのです。

11月23日追記
1、北史百済伝
最初、百家で(海を)済ったので、これに因んで百済という。百済人には、新羅、高麗、俀などが雑っており、中国人も居る、とある。
この百済も馬韓の一国で、南史百済伝の伯済とみられる。
2、三国史記の百済(ぺクジュ)
前18年、馬韓の広州の土地を貰って建国、初代は温祚王ですが、最初の国名は、十済というから、異なる国です。温祚の兄の沸流の民も来て、百済と国号を変えた。
3、日本書紀の百済三書
神功皇后の時代、新羅、百済、高麗を三つの韓国という。この三韓は九州に居て、皇后に討たれて臣従した。この百済は、三国史記の百済ではない。

実に、紛らわしい話しです。
しかし、三国史記の近肖古王と続日本紀の近肖古王は、別人で、後者は、「金に似た箱」の義で、津真道が遡って暴露していました。
近:金、肖:似る、古:箱、函、筥。ゆえに、箱崎八幡宮に因んだ百済とみられます。