麺屋 夢創の夢ブログ

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皆様こんばんは♪




47日目の実戦更新です♪





今日の文章です♪






人間の価値は他人が決める





人間という生き物は、自己愛で生きている。

誰しも自分がいちばんかわいい。

したがって、自分に対する評価はどうしても甘くなりがちだ。


「自分はすごくがんばっている」「こんなに大きな成果をあげた」と自分をほめてやりたくなる。

けれども、他人もそう思ってくれなければ、それはたんなる自己満足にしかならない。

言い換えれば、人間の価値は他人が決めるのである。


他人の評価こそが正しいのだ。

自分の評価が正しいと信じ込んでしまえば、自分を甘やかし、低いレベルでの妥協(だきょう)を生む。


評価されない原因を「見る目がないあいつが悪い」と、自分ではなく他人に求めるようになる。

それではひがみ根性だけが増大し、何の成長ももたらさない。


そうならないためには、評価は他人がするものだと肝(きも)に銘(めい)じるとともに、「自分はまだまだ」とつねに自戒することだ。

そうすれば、おのずと他人の評価も上がるはずである。


『ノムラの教え』講談社





どんなに素晴らしい商品であっても、その価値が人に伝わらなければそれは無いのと同じ、とはよく言われることだ。

同様に、寝る間も惜しんで必死に頑張っていようと、他人がその価値を認めなければそれは無いのと同じ。


「私はこんなに頑張っているんです」「オレって能力あるんです」などと自慢する人ほど、他人からみて滑稽(こっけい)でイタイ人はいない。

反対に、人一倍の努力家なのにそんなそぶりはまったく見せず、いつもニコニコと楽しそうに生きている、それでいて商売が上手だったり、抜群の成績を残している、などという人はカッコイイよくて魅力があり、まわりの評価も高い。


もし今、評価されていないと感じるなら、それは自分の努力や実力が足りないということ。

誰もが認めざるをえなくなるような、あふれるほどの魅力があれば、みな放っておかない。


他人の評価こそが正しいと、思い定めたとき、「自分はまだまだ」と謙虚になれる。

「人間の価値は他人が決める」と心に刻みたい
皆様こんにちは♪



46日目の実戦更新です♪





今日の文章です♪







「誕生日おめでとう」の本当の意味





ある人に「誕生日おめでとう」と伝えたとしましょう。

年を一つ重ねることは、普通は誰にとっても楽しいことではないはずなのに、やはり誕生日が来れば「おめでとう」と言いたくなってしまいます。


逆の立場で考えてみましょう。

年を一つ重ねたからうれしくないはずなのに「誕生日おめでとう」と言われたら。

うれしいかもしれない。


そこでわかりました。

誕生祝いの言葉には「あなたがこの世にうまれてくれてありがとう」という意味がつねに隠れています。

だから、そう言われてうれしいのでしょう。

でも、なぜ、その意味が隠されていると人は「うれしくなる」のでしょうか。


もしかしたら、人がこの世に生まれてきたことの意味は「他の存在から自分が喜ばれる存在であること」なのかもしれません。

他の存在とは、もちろん人間も含めて、動物や植物を含めたすべての存在です。


だとしたら、「ありがとう」「うれしい」と言われたときに私たちがうれしくなるのも納得できます。

つまり、生まれてきたことの意味が「喜ばれること」であるから、私たちはそれを言われたら幸せになるようにプログラムされているようです。


《「ありがとう」「うれしい」と言われたとき、“私”が“幸せ”“うれしい”“楽しい”。それは、娯楽などの“楽しさ”とは異なる「喜ばれる」ことの“楽しさ”“幸せ”。》


『心を軽くする言葉』イースト・プレス





女性や年配の方に、「誕生日おめでとう」と伝えると、「もう、そんなにうれしい年でもないけど」などという言葉が返ってくることがある。

「誕生日おめでとう」は、年を一つ重ねたからおめでたいのではない。

「誕生日おめでとう」には、「あなたがいてくれてうれしい」、「あなたがこの世にうまれてくれてありがとう」という意味が隠されている。


人として、一番悲しくてつらいことは、自分の存在を無視されること。

無視がもっとひどくなると、「あなたがいない方がよかった」、「生まれてこなければよかった」、という存在否定となる。


反対に、もっとも楽しくてうれしいことは、「あなたがいてくれてよかった」という存在の全面肯定。

「誕生日おめでとう」には、素敵な意味隠されている。
皆様こんばんは♪




45日目の実戦更新です♪




今日の文章です♪





ただそれだけのこと





ほとんどの人は、幸せの度合いは、お金や所有物、ルックスに大きく左右されると思い込んでいます。

けれども、よく考えてみれば、必ずしもそうではないことに気づくはずです。


みんなが羨(うらや)む高価な物を自由に買えるお金持ちや、だれをも虜(とりこ)にしてしまうような容姿に恵まれた人が、必ずしも幸せな人生を送っているわけではないでしょう?

それどころか、心の内側はみじめで、心配ばかりしている人が少なくありません。


では、人を幸せにするものとは何でしょうか?

それは人を不幸せにするものと同じ。

その人の心の中の思いです。


不幸せになるのは簡単です。

生活の中のいやなことばかり、ずっと考えていればいいのです。


幸せになるのも同じです。

生活の中のいいことばかり、ずっと考えていればいい。

単純なことです。


「わたしが不幸なのはいやなことばかり起こるからだ」と言いたくなるかもしれません。

でも、だれでも毎日、いいこともあれば悪いこともあります。

幸せな生き方を選んだからといって、楽しいことばかりが起こるわけではありません。


けれども、幸せな生き方を選んだ人は、毎日いいことを探し求め、それを見つけます。

反対に、不幸せな生き方を選んだ人は、毎日悪いことを探し求め、それを見つけます。

ただ、それだけのことです。


ヘレン・ケラーが言っています。

「顔を太陽に向けましょう。そうすれば、影を見ることはできません」


『あなたがなりうる最高のあなたになる方法』ディスカヴァー





毎日、幸せで充実した日々を過ごすか、不幸せで不満の日々を過ごすかは、その人の見方や考え方の違い。

誰にでも、嫌なことや悪いことは等分に起こる。

これは、容姿がよかろうが、金持ちだろうが、プロスポーツ選手だろうが、みな同じ。

幸せな人と、不幸せな人と、たった一つ違うのが、その嫌なことや悪いことの中から、何を見つけるのか、探すのか。


幸せな人はいいことを見つけ、不幸せな人は悪いことを見つける。

光を見るか、影を見るか、だ。

「ただそれだけのこと」


常に明るい方を見る人でありたい