2017年4月1日、母が旅立ちました。

 

前回ブログを書いてから約一か月、毎日毎日、色々なことをブログにも記したかったけれど、そんな気持ちの余裕がなく過ぎ、次の更新が逝去のご報告になってしまいました。

 

3月の一か月間は、多くの親戚、母の知人が施設に面会に来てくれました。
北海道から、京都から、埼玉から・・・私も母も、生きる力・支える力に繋がっていました。

 

施設のスタッフの皆様、往診の先生、看護師さん、最期まで献身的に尽くしてくださいました。

 

3月前半は、眠る時間が増え、会話は少なくなってきましたが、変わらない笑顔で、変わらない日々だった気がします。でも、徐々に弱っていく感じは否めませんでした。毎月楽しみにしている俳句の会報が来ても、読もうとしなかったので、もう気力がないのかな・・・と。 

 

年度末で、子供の学校や習い事の予定も立て込んでいて大変でしたが、私も毎日できる限り、通いました。
 

3月20日過ぎから危篤になりました。

 

「本当に最後の最後の状況、今日・明日お別れが来てもおかしくない。」

 

と先生に言われてからも、1週間以上、頑張っていました。

 

人の生命力は計り知れない・・・そう思いました。


眠る時間がますます多くなったり、痰が絡んで苦しそうだったり、息苦しさも訴えていましたが、強い痛み止めを使って意識朦朧とならないよう、ひどい浮腫みにならぬよう、医療も上手にコントロールしていただいた気がします。
意識が薄れていくギリギリまで、意思疎通が図れました。
 

亡くなる前日だったでしょうか。もう意識レベルが低下していて、意思疎通はできませんでしたが、右手を「バイバイ」という感じで、手を振ったのです。3回くらい。もうすぐ旅立つ事を悟っていたのでしょうか。

最後の夜は、i-podで一緒に音楽を聴いていました。

アメイジング・グレースやモーツァルトの子守歌、愛燦燦・・・など。

愛燦燦の歌詞を噛みしめながら聴いていたら、涙が出てきました。


最後の1週間は、家族が交代で寝泊まりしました。

 

3月の終わり、横浜はまだ桜が満開ではなかったのですが、看護師さんが「桜が咲いたよ!」と母の居室に桜の木を持ってきて下さいました。


お部屋で今年の桜を見ることができました。


4月1日の午後、皆が見守る中、静かに息を引き取りました。
苦しまず、痛がらず、幸いでした。


4月4日、満開の桜の中、家族のみで直葬にてお見送りしました。

旅立ってから10日・・・綺麗なお花に囲まれ、
息子が公園で見つけた桜を飾り、静かな日々を過ごしています。
四十九日の納骨まで、そばにいられる日々を大事にしたいと思います。

 

2015年11月16日、膵臓癌発覚から1年5か月弱の闘病生活でした。
 

発覚当初は手術も不可能な状況で、余命半年無いだろうと言われていましたが、抗がん剤が効き、12時間近い大手術も頑張りました。

 

ジェムザール・アブラキサンの抗がん剤、副作用の痺れや倦怠感は辛そうでしたが、薬のおかげで腫瘍が小さくなり、食欲が戻り、箱根旅行やコンサートに行ったり、孫の小学校入学を見届けられたり、寿命が延びたことは、よかったと思いたいです。


術後数か月で、あっという間に肺と肝臓に転移してしまったのは本当に残念でなりませんでしたが、リンパ節転移があったので、やはり仕方がなかったのかな・・・と思います。


最期まで「痛み」をあまり訴えなかったのは、手術で原発を取り除いていることもあったと思うので、手術ができてよかったと思いたいです。
 

食事が摂れなくなっても、腸ろうや点滴で4~5か月も穏やかな生活ができました。
医療の凄さにも驚かされました。

 

このブログをはじめて、同じ様な病と闘う方、そのご家族の方との繋がりが、支えになっていました。学ぶことも多く、共感することも多く、いつの間にか、自分の事のように心の中で声援を送っていました。


コメントしたいな、と思いながらも、うまく気持ちが文章にまとまらなくて、「いいね」を押すばかり・・・ということも多かったですし、自分自身もなかなかマメに更新できなかったのですが・・・そんな私のブログにコメントを寄せて下さったり、読んで下さった皆さま、本当にありがとうございました。

 

いつの日か、膵臓癌も容易く完治ができる未来が来ることを願っています。