手拭いで頬かむりした女が雪道を歩いている。そのあとを座頭市が行く。二人は雪道を行くつらさから互いに声をかけあって親しみを持つ。二人は茶屋で休息する。
女の一人旅。市は事情を知る。女は追われている。追っているのはかつての亭主だ。男はかつては国定忠治の子分であった。
つまりはこうだ。忠治は子分の昭八の女房オマキを見そめて他の子分をやって誘拐し、力ずくで手ごめにした。そのあとに忠治は大戸の関所破りでつかまり、はりつけの刑で死んだ。ところが、昭八は腹の虫が収まらず、オマキを殺す目的で追跡する。
ある宿場町にきて、男は女を土地のヤクザに売り飛ばすと約束して前金をもらう。親分の子分どもはさっそくに女をつかまえてきて、親分が経営する女郎屋の店前でなわをかけたまま顔見世披露をする。元忠治の女だということで、女と一夜を過ごすだけのことに2百両、3百両の値段がつく。
茶店で市は昭八と隣り合わせる。昭八は泣き言を並べる。おれはあの女がにくい。女はいくらでも逃げる機会はあったのに逃げなかった。あの女の気持ちが知れない。いっそ、女を殺しておれも死ぬ。だが、おれはおどされて土地の親分に女を売ってしまった。市さん、どうしたらいい?
市は言う。おまえさんは魂を抜かれるほど惚れているね。しかし、オマキさんはおまえさんが意気地なくて相手にしない。それならこうすれ。命を張って彼女をとり返せ。初めて彼女はおまえさんの気持ちを知る。
男は市に言われて単身、土地の顔役の家に殴り込みをかけて女を救いだす。しかし、全身に刀傷を負って半死の状態。市が助けてくれてひとまず逃げ延びた。空き家に忍び込み、傷の手当。男が寝ているときに女が言う。
「この男はあたしをにくいと思って追ってきたけど、そんなの、あたしには関係ないんだ。つまりさ、この男はあたしに負い目なんかないんだ。なぜって、あたしは忠治に手ごめにされたのに忠治に惚れていたから」
最後は女をとり戻しにきた顔役一家と市が大立ち回りをする。市は一味をばったばったと切りまくる。
市はそのまま立ち去る。
市には必ず難題がふりかかる。それも、普通なら、あたしは関係ありませんと言って通過するところを、市は立ちどまって話を聞いてやり、その事件に入り込む。市はきわめて大きな責任を背負う。この責任をどうやって解決するかというと、ひとたび抜けばだれひとりかなわない仕込み杖の威力である。つまり、仕込み杖の絶大な力、これが解決不可能のできごとを解決する。人と人の情実も刀で消されて、あとは荒れ野のススキだ。
市の映画が登場したのは1970年代である。大卒はほぼ完ぺきに就職できた時代である。高卒も同じだ。その時代になぜ刹那的に快感を感得できる映画がはやったのか? この私でさえ座頭市の映画を見ることはなかった。それがここにきて私は座頭市の映画にはまっている。
今の時代、人のことを考えている暇がない。人のことを思いやっていると自分がバスに乗り遅れる。国の経済は非正規労働者が支えている。働いても働いても貧しい。国は老後の生活は2000万円必要だと言う。何も今さらそんなことを言わなくてもいいのに、発表したのでお年寄りは芯からおびえている。言わなければお年寄りは気づかないでひっそりと死んでいくものを。
座頭市の映画は三つの個性に分類できる。仏のような慈愛を持ち、人に寄りかからず孤独に明るく耐え、大砲でもぶちこまないと死なない全能の軍人である市。美しくいたいけな娘に代表される貧者。そして、腹の底まで腐っているヤクザの親分。
ここで重要なのは、三番目の個性、腹のそこまで腐っているヤクザの親分だ。仁義に外れ、人を人と思わないぴかぴかの悪人。この悪人があって座頭市が華々しく映える。
革命とは名ばかりの中南米のどこかの国でみな座頭市の映画に狂気すると聞いたが、天にいるかいないかの神様にもろ手をあげて祈る民衆の気持ちを市が拾いとってくれるのだろう。
『かどわかされて手ごめにされたのに、あたしさ、忠治に惚れていたんだ。あたしのかつての亭主はさ、忠治のふんどしを洗ってさ、あたしの肌襦袢も洗ってさ』