国家についての誤解

国家についての誤解

なるべく少ない字数で、一切の学術的作法を省いて、俳句のような簡明さで、19世紀以降の政治学の成果をブログ的スタイルに翻訳してみる。

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 トランプ米大統領は30日、サリー・イエーツ司法長官代理を更迭した。イエーツ氏はこれに先立ち、中東・アフリカ7か国からの渡航を制限するトランプ氏の大統領令について、従う必要はないとの考えを司法省に伝えていた。米国内では、大統領令が憲法に違反するとする訴訟も起き、混乱はさらに拡大している(2017年1月31日)。
 
 メディアはこぞって、アメリカ大統領トランプの「ポピュリズム」を非難します。ポピュリズムとは何でしょうか?マスコミは、大衆受けする政策を打ち出す人を、「ポピュリズム」として批判します。大衆受けする政策とは、マスコミをはじめとする自称「エリート」の見解に反するけど、なぜか国民の多数に支持される政策です。
 
 私は「ポピュリズム」という用語は使用しない方がいいという意見です。中身がないからです。でもあえて、マスコミに乗っかって「ポピュリズム」という用語を使用すれば、その意味するところはただ1つ、法的手続きを個人的感情で置き換えることです
 
 国家とは、合意された法的手続きによって存続する共同体です。個人的、主観的には支持できない政策であっても、合法的に施行される政策には、法の執行機関が従うことによって国家は成り立ちます。国家とは、「内容の正義」より、「手続きの正義」を優先する共同体です。
 
 なぜ「内容」より「手続き」を優先するのでしょうか?それは、○○万人を超える共同体においては、内容の是非には大多数が合意できないが、手続きの是非には合意できるからです。国家とは、手続きの合意に基づく共同体です。
 
 なぜ地球上を国家が埋め尽くしたのでしょうか?それは、手続きの合意のみが内戦を防げるからからです。共同体の存立自体を危うくする争いを防ぐ知恵を、人類は何万年の試行錯誤の末に発見したのです。それが国家です。
 
 ○○万人が共存する共同体は、個人の主観的好き嫌いで左右されたら成り立ちません。合意された手続きによって決定し、合意された手続きによって政権をひっくり返す、これのみが平和の礎です。アメリカで現在進行している事態は、国家という秩序の正反対です。
 
 トランプ大統領によって解任された司法長官がやらかしたのは、「私は嫌い。だから従うな」です。これが通用したら、秩序なんて成り立ちません。秩序への愛、これが国家です。手続きの合意によって争いを回避する、これが国家です。
 
 トランプ大統領の政策に反対の意見を持つのは自由です。でも、個人の好き嫌いで物事が決まれば、個人の信条は千差万別ですから、混乱が支配するのは避けられません。合法的に選ばれた国家元首が、合法的に決めた政策なら暫定的に従う、不満なら選挙でひっくり返す、これが国家、これが民主主義です。
 
 ポピュリズム、これが反トランプの本質です。今はまさにポピュリズムの時代です。
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 1年前のテロは、二つの価値観の反目をあおり、分断をさらに先鋭化させてしまったように見える。寛容な社会をもたらすはずの世俗主義の理念が、相いれない異文化を排斥しようとする「不寛容」を生み、溝を広げる原因になっている(2016年11月13日毎日新聞)。

 

 フランスの世俗主義とイスラム移民の間にある溝についての毎日新聞の社説です。この社説は、フランスの世俗主義を曲解しています。世俗主義は特定の文化を排斥しません。世俗主義はイデオロギーであって、文化ではないので、特定の文化を排除するわけがないのです。

 

 フランスの世俗主義が排斥しようとしているのは、反世俗主義です。イスラムの過激思想は世俗主義を否定します。すべての○○主義は、自己を否定するものを否定します。そうじゃないと、イデオロギーとして成り立ちません。すべてのものは、自分を否定するものを否定しないと存在できません。当たり前です。否定の否定は肯定ですから、自己の存在を肯定する者は、自己を否定するものを否定します。

 

 世俗主義は反世俗主義を否定します。民主主義は反民主主義を否定します。立憲主義は反立憲主義を否定します。平和主義は反平和主義を否定します。したがって、平和主義でさえ、自己を否定する勢力と戦います。絶対的平和主義が存在できないのは論理的必然です。

 

 世俗主義は特定の文化を否定しません。世俗主義が否定するのは、特定の宗教が社会の統治原理になる事態です。フランスの世俗主義では、宗教は私的であるべきで、公的な領域に入ってきてはいけません。公私の区別が重要なんです。宗教に公私の区別はありますが、文化に公私の区別はありません。だから世俗主義は、文化とは何の関係もないのです。

 

 「寛容」は中身の薄い概念です。「寛容」をすぐ口にする勢力は、思想的にはレベルが低いと考えて間違えありません。平和主義者は戦争に寛容ではありえません。立憲主義者は独裁者に寛容にはなれません。寛容には限界があるわけで、不寛容に対して寛容にはなれないでしょう。反対の思想に対する不寛容さは、毎日新聞が見事に例示してくれています。

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 米大統領選での共和党ドナルド・トランプ氏の勝利を受け、新聞・テレビの影響力の低下を嘆き、メディアの「敗北」を認める声が広がっている。背景にあるのは、大手メディアに対する信頼性の低下と、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)からの偏った「ニュース」に依存する有権者の増加だ≪2016年11月11日読売新聞≫。

 

 読売の特派員・小川聡氏の記事です。大手メディアに対する信頼の低下と、ネットからの偏った情報に依存する有権者の増加が、トランプ勝利の要因だとしています。小川氏の考えに、大手メディア敗北の要約があると思います。

 

 まず小川氏は、大手メディアの垂れ流す情報が偏っていると有権者に判断されたことにまったく無自覚です。有権者が大手メディアを信用しなかった理由がこれです。「大手メディアは偏向している」と国民の多くが感じているからこそ、新聞・テレビの報道は影響力を持てなかったのです。

 

 しかも小川氏は、同じことが日本でも起きていることに気づいていないようです。大手新聞では、産経新聞以外の購読者数は激減しています。産経は、大手メディアが報道したがらない類の情報を報道します。新聞も「差別化」しないと生き残れない時代です。報道の信頼性が低下しているからこそ、産経やネットが大手メディアが報道しない情報を伝えると、その情報に信頼性が増すわけです。

 

 小川氏は、SNSの「偏ったニュース」に、有権者が「依存」していると書いています。なぜ「依存」というネガティブな言葉を使うのか?読売新聞の購読者には使わないでしょう。大手メディアから情報を入手する人は「依存」ではなく、SNSの情報を活用する人は「依存」しているという発想です。

 

 これが大手メディアの無意識的信念です。「トランプ支持者は低学歴、低収入、ヒラリー支持者は高学歴、高収入」。「ネトウヨは低学歴、低収入、新聞購読者は高学歴、高収入」。「ネットは知的レベルが低い、新聞・テレビは知的レベルが高い」。こういう二分法で、大手メディアは世界を解釈してきましたが、安倍政権の長期化、イギリスのEU離脱、トランプ氏勝利は、ことごとくメディアのステレオタイプ的二分法を粉砕してきました。

 

 結局、インターネットによる情報の民主化が大手メディアの特権を奪ってしまいました。大手メディアは裸の王さまです。気づいていないのは自分だけ。ネットでは情報が玉石混交します。しかし、情報源が多様なので、比較検討することができ、逆に偏向報道から身を守りやすくなります。大手新聞が消失することはありませんが、しょせん情報源の1つにすぎなくなった、これが小川氏が気づいていない不都合な真実です。

 

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 ローマ社会科学国際自由大学(LUISS)のセバスティアーノ・マフェットーネ教授(政治哲学)は「今、世界的なトランプ現象が起きている。移民への反感が共通要素で、欧州の指導者は多文化主義にブレーキをかけようとしている。トランプ氏勝利の影響は世界中に波及し、(1)経済(2)政治(3)民主主義--の危機を招くだろう」と指摘している(2016年11月10日毎日新聞)。

 

 トランプ勝利で露わになったのは、大手マスメディアの無能でした。アメリカの有力紙57社がクリントン支持。トランプ支持はわずかに2社。猛烈なトランプ攻撃を続けたにもかかわらず、有権者は大手新聞の論説・報道に影響されませんでした。メディアのスタンスが無視されたのです。新聞が社会の木鐸だった時代がとっくに終わっていた事実が、これほど露骨にさらされたことはなかったのではないでしょうか。

 

 大手メディアはトランプ現象を理解できませんでした。つまり、大手メディアや、そこを根城にする知識人たちは、トランプ氏がなぜ支持されたのか説明できません。説明できないから、これからも時代の潮流をつかみ損ねるでしょう。つかみ損ねるから、これからも購読者に対する新聞の論説の影響力は限られてくるでしょう。

 

 毎日新聞が意見を引いているイタリア人教授の分析は、的を外し続けた知識人の典型です。曰く、「トランプ氏の勝利は経済、政治、民主主義の危機を招くだろう」という月並みなご意見ですが、説明が逆立ちしています。

 

 トランプ氏が勝利したから危機が訪れるのではなくて、危機がすでに来ているからトランプ氏が勝利したのです。「すでに危機の時代に突入した」という認識がないから、トランプ現象が理解できないのです。

 

 このイタリア人教授、「欧州の指導者は多文化主義にブレーキをかけようとしている」とご不満なようですが、危機を招いたのは多文化主義です。多文化主義自体が危機だったんです。そこで、リベラリズムには解決能力がないと見限った層が、トランプ氏やイギリスのEU離脱に投票したわけで、トランプ現象は危機に対する対応の選択肢として支持されたんです。

 

 トランプ氏が危機を処理できるかどうか、これから世界が注視しますが、トランプ氏を危機の序章と考えている限りは、現代の潮流は理解できません。移民がどのような危機を引き起こしたのか把握しない限り、大手メディアはこれからも失敗を重ねるでしょう。

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 英国もまた国民投票でEU離脱が決まった。これは移民に対する「恐れ」の感情が引き金となって、「英国第一」を掲げ国民の主権意識を煽る離脱派を勢いづけた。米国でも似通った現象が起きている。大統領選共和党候補となるトランプ氏が「米国第一」を掲げ、移民排除、反ワシントン、反エスタブリッシュメント(支配階級)を訴えて、熱狂的な支持を集めている。感情が理性を凌駕して増幅する状況は、西欧社会の弱体化を招きかねない(2016年7月9日産経新聞 宇都宮尚志論説委員)。

 トランプ現象やイギリスのEU離脱を「理性の敗北」として捉える論説が多いのですが、そんな分析こそ理性の敗北です。マスコミの発想はこうです。「民衆は感情的になっている。EU残留が理性的なのに、感情が勝利してしまった」。なぜこういう誤った分析になるかといえば、メディア自身の感情が理性を凌駕しているからです。

 19世紀の政治学者たちは口をそろえて、「民主主義が理性的に機能するのは、共通の価値観・文化・歴史を共有している国民においてだけだ」と強調しました。国民が集団的に理性的になれるのは、共通の倫理、感覚、尺度を共有していると信じるからです。国民国家が世界帝国を打ち破っていけたのは、国民の結合力の強さによります。帝国は諸民族の緩やかな寄せ集めにすぎず、国民国家が一致団結して攻め込めばたやすく崩壊しました。面積や人口ではるかに劣る日本が清帝国に勝てたのは、日本がいち早く国民国家だったからです。

 近代において理性的であるとは、共通の価値観、文化、歴史を通しての国民統合です。ところが第二次世界大戦以後、西欧では感情が理性をねじ伏せました。「完全な市場社会の実現」という感情的ユートピアが膨大な移民を可能にしました。完全な市場社会においては、人間は「経済人」としてのみ存在し、もはや国籍や文化や宗教の違いはなくなるはずでした。市場は個人の利害を調整し、利益を追求する諸個人は自由を謳歌するはずでした。このイデオロギーは近代的理性に真っ向から反しましたが、感情が西欧人の判断を狂わせました。

 共通の価値観、文化、歴史なしでも民主主義は可能であり、経済的繁栄だけで国民を統合できると信じたセンチメンタリズムは崩壊しつつあります。イギリスのEU離脱は前兆です。民主主義は国民を統合しません。すでに統合された民族においてだけ民主主義は機能します。

 マスコミの分析では、原因と結果が逆立ちしています。EU危機は、民衆の感情が高ぶってエリートの理性が負けているのではなく、エリートのユートピア的感情が行き過ぎたので、国民の危機意識が高まっているのです。近代国家が理性的であるためには、①主権を確保し、②共通の価値観、文化、歴史、倫理、宗教を共有しない人口を減らす努力が必要です。共通の基盤がないと民主主義が機能しなくなりますから。経済的ユートピアこそ感情の産物であり、近代国家は鉄の法則を貫徹して、エリートの感情に理性の鉄槌を下すのです。
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 国民投票では、高齢者が離脱を特に望んだ。自分の周りの環境が昔知っている英国とは違うということで、ノスタルジーにもとづく投票となった。(米大統領選で共和党の候補指名が確定した)トランプ氏の支持者と同じように、「英国を偉大にしよう」という形になり、「魔法の笛」に踊らされて崖から落ちてしまった(2016年6月24日産経新聞 野上義二元駐英大使)。

 イギリスのEU離脱にマスコミと市場が大騒ぎしています。世界の秩序が崩壊したような慌てぶりです。3ヶ月もすれば、世界はこんなに大騒ぎしたことすら忘れるでしょう。なぜ大騒ぎしたか反省しないから、いつも無駄に大騒ぎします。進歩がありません。

 結論から云うと、イギリスがEUを離脱してもたいした影響はありません。①為替・株相場はじきに落ち着きを取り戻します。②イギリスに拠点を置く日本企業はどこにも移りません。③ロンドンは変わらず世界の金融拠点して活躍します、④イギリスの国際的地位は変わりません。

 「イギリスが離脱すれば世界は終わる!」と大騒ぎしていた輩は、バカかあるいはイギリスのEU加盟から利益を得ていた人たちだけです。イギリスが離脱して困るのは彼らだけであって、イギリス自体ではありません。そもそもイギリスはユーロを使っていませんし、さまざまな特例が認められていました。イギリスはEUが生まれる前からヨーロッパの大国です。イギリスを大国にしたのはEUではありません。イギリスはこれからも変わらず、国際社会で一定の影響力を持ち続けます。

 日本経済への影響が懸念されていますが空論です。円高が懸念されていますが、円高になって困るのはGDPにわずかしか貢献しない輸出企業だけです。日本経済は典型的内需型ですから、自国通貨が強くなればおいしいことだらけです。日本企業はイギリスから脱出しません。日本企業がなぜイギリスに拠点を置くかといえば、イギリスだからです。イギリスには資本主義に必要なすべてがあります。イギリスの政府、法律、伝統、文化、人材、すべてが資本主義型です。フランスのような官僚が強すぎる中央集権国家ではない。ドイツのような分散型国家かつ神経症国家ではありません。ヨーロッパに拠点を置けるのはイギリス以外にないんです。

 自称・知識人はあいもかわらず、離脱派を「ナショナリズム」、「ポピュリズム」、「移民排斥」とバカにしています。野上義二元駐英大使は、「魔法の笛に踊らされて崖から落ちてしまった」と分析していますが、笑止千万です。イギリスはヨーロッパで最初に国民国家になった国です。国民国家の利得を再発見したからEUから離脱しただけです。正しい判断です。ヨーロッパ人がいまだにEUの欠陥に気づかないことを笑うべきでしょう。

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 最近の国政選挙では低投票率傾向が目立つ。とりわけ若い世代の選挙離れは深刻だ。投票率が52・66%だった14年衆院選で、20代は3割台に落ち込んでいる。大学入試世代でもある新有権者が流れを変えていけるのか、危ぶむ声は強い(2016年6月18日毎日新聞)。

 投票率が下がることは悪いことではありません。ある種の成熟でもあります。プロの一票も素人の一票も完全に同等に扱われるのが民主主義です。したがって良質の選挙とは、①何も考えずに投票する人、②おバカなイデオロギーに染まった人ができるだけ参加しない選挙です。

 投票を勧めれば勧めるほど、政治に疎く、情報もなく、ふだん何も考えていない人口が投票所に向かってしまいます。選挙にとっての善とは、投票率が上がることではなく、合理的な選択がなされることです。政治に興味のない人口が投票を控えることで、合理的選択の可能性が増します。

 団塊の世代がこの世から姿を消せば投票率はグッと下がるでしょうが、投票の質は格段に上がるでしょう。日本の安全保障政策の足を引っ張ってきたのは、この世代です。改憲も、団塊の世代があの世に行けば実現します。団塊の世代とは、政治は大好きだけど、国家について何も知らない人口が圧倒的に多い世代です。良質な社会は、ヘンな人たちが投票しない社会です。

 投票率の低下は、民主主義の成熟でもあります。投票しなかった人たちは選挙の結果を受け入れます。「自分は投票しないけれども、議会の決定は受け入れる」という態度が社会全体に浸透しています。国民の国家意識が成熟している証拠です。「政治に詳しい人が投票すればいい。私たちは彼らの決定に従う」という姿勢は、分業を理解した知性であり、国家という共同体の一員として生きている自覚があります。投票率の上昇を民主主義の成熟に結びつけるマスコミの短絡ぶりよりずっと合理的です。

 成熟した民主主義とは、有権者全員が投票する社会ではなく、有権者全員が選挙の結果を投票しようがしまいが自分の決断の結果として受け入れる社会です。

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 外国人技能実習制度はアジア諸国への技術移転や国際協力をうたいながらも、実際には低賃金労働者を受け入れるとともに、アジア出身者を厳しい環境の中で低賃金で働かせ、結果的に技能実習生の日本への印象を悪化させているということだろうか(巣内尚子 ジャーナリスト 2016年5月7日)。

 基本中の基本ですが、資本主義社会では賃金労働者は労働力です。これが経営者側から見た労働者の定義です。経営者が人徳者であっても、経営者は社員を労働力として扱わざるを得ない地点に来ることがあります。経営危機のときです。家族にリストラはありませんが、企業にはあります。会社の帳簿には、社員は人間としてではなく人件費としてしか現れませんから、経費削減の必要に迫られるとリストラされます。労働力はモノです。資本主義社会では、私たちは人間であり同時にモノです。

 モノとして扱われる利点もあります。私たちは会社に対して、モノ以上の貢献をしなくて済みます。辞めたい時に辞め、雇用契約以上の犠牲を払わなくていいのです。したがって労働者にとって、会社とはモノです。家族はモノではありませんが、会社はモノです。労働者は会社をモノとして利用していいんです。会社よりも自分を優先していい自由が資本主義社会にはあります。古代社会の奴隷に、こんな自由はありませんでした。労働者にとって経営者は主人ではなくモノです。資本主義社会とは、雇用者と被雇用者がお互いをモノとして扱う社会です。中世では忠義で結ばれていましたが、近代ではお金で結ばれています。

 とはいえ、雇う方が強いので、雇われる方の権利が法律で保護されているのが資本主義社会です。経営者はできるだけ安く雇いたい。近代社会は資本主義社会なので、一方で人間を労働力として扱いますが、同時に国民国家でもあるので、人間を国民として扱わなければいけません。国民として扱うとは、国家の一員として扱うということです。ここから労働者の権利の擁護が生まれます。国民国家の強さとは、一方で人間がモノとして扱われながら、他方で国家のメンバーとして保護されている点にあります。先進国の強さはここにあり、後進国の弱さは国民がメンバーとして保護されていない点にあります。

 高付加価値型資本主義社会の負け組は、安い労働力がないと倒産する企業です。中進国と後進国は安い労働力と資源を武器にして、先進国から資本を呼び寄せ成長します。先進国は、中進国と後進国では生み出せない経済価値を生んで儲けます。先進国の企業は、労働賃金の安さで中進国・後進国と競争しても勝てるわけがありません。ところが現実には、日本においても安い労働力がないと倒産する会社があります。自然淘汰で滅ぶしかないのですが、ここに政治家と官僚が介在して、そんな企業の経営者を救おうとします。そんな経営者は本来は死んでいるのですが、政治家の助けで生きてきます。つまりゾンビです。死んでいるのに生きている。

 ではゾンビ経営者にどうやって安い労働力を提供するのか?日本国民を利用することはできません。国民を不当に安く雇用するとブラック企業として叩かれます。国家のメンバーですから、メンバーの権利は保護されます。時代の波に乗り遅れた経営者を救うために考え出されたのが、外国人技能実習制度です。

 ①安い労働力が欲しい。②でも国民を搾取すると叩かれる。③そうだ、外国人から搾取しよう。そもそも論として、政府が外国人技能実習制度によって助けている経営者は、ほんらい廃業するべき経営者です。ゾンビとして生きているだけです。しかも映画のゾンビと同じく、他人を犠牲にして生きています。なぜ外国人を安く雇うのか?日本国民をまともな賃金で雇えないからです。なぜまともな賃金で雇えないのか?経済価値を生み出せないからです。国民をまともな賃金で雇えない経営者は消えるのが、国民国家における資本主義の掟です。

 移民政策とは、外国人技能実習制度の拡大版です。どちらも本質は同じ。まともな賃金を払っていたら倒産する経営者を救うためです。しかし決して救えません。死期が少しだけ延びるだけです。安い労働力を雇っても救えません。資本主義社会で生き延びるのは、不断に価値を創造する経営者だけですから。外国人技能実習制度も移民政策も、資本主義のルールに反するから批判されるべきです。

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 「大統領は日本に謝罪すべきと考えているか」との質問には「そうは思っていない」と述べ、オバマ氏が原爆投下に関して謝罪する可能性を明確に否定した(読売新聞2016年5月3日)。

 日本の野党の諸君には、これが世界の常識だという事を学んでいただきたいものです。原爆投下が非人道的なのは云うまでもありませんが、戦争自体が非人道的ですし、国家の行為を代表して謝罪できる人間がいるのかも疑問です。謝罪するという事は、公的に犯罪的行為だと認めることになりますから、原爆の被害者がアメリカ相手に訴訟を起こして補償を求めることも考えられます。おバカな日弁連には、自称「人権派」弁護士がたくさんいますからありえる話です。いずれにしても、謝罪するかどうかは、アメリカ人が考えることであり、私たち日本人には関係ありません。それはともかく、執拗に謝罪を要求する人間に出会うと、精神の偏狭さを感じます。

 そんなことより、日本国民は戦争で起こった自国の被害については、どの国に対しても謝罪を求めないという高貴な姿勢を貫くことが大切かと思います。戦争の被害はお互いさまですから。戦争の被害について謝罪を求める民族は、ほぼ100%戦争に弱い民族です。尚武の気風がある国民は、戦争に負けたからと云って勝者に謝罪は求めません。戦いというのは、そういうものだと知っていますから。尚武の伝統に欠ける国民は必然的に戦争に弱いし、戦いで負けた分を「倫理」で取り戻そうとします。しかも、その「倫理」とやらは「弱者の倫理」なので、「もう1回やろう」ではなく、負けたこと自体を理由に敗戦の「補償」をおねだりします。負けたことを理由にして謝罪を求める精神構造を私は理解できません。

 戦争も勝負の1種ですから、負けたこと自体が「精神的勝利」の理由にはならないことを、勝負ごとに慣れている国民は知っています。敗者に潔さを求める文化は、勝者に謙遜を求める文化です。文化は国民を貫く精神ですから、ある民族の戦争観はスポーツにも現れます。試合に負けて悪態をつく民族は、戦争で負けたら謝罪を要求するでしょう。スポーツと戦争を分ける理由はなく、どちらにも国民の勝負に対する価値観が滲み出ます。スポーツに死人ではでませんが、戦争は死人だらけです。賭けるリスクの度合いは違います。しかしスポーツの延長が戦争であり、古代オリンピックに逆説的に現れています。

 軍人というのは保守的な生き物です。古式の倫理が一番色濃く残っているのは軍です。近代軍の中で語り草となる倫理的ヒーローと古代、中世の戦争のヒーローはほぼまったく同じタイプです。戦争において徳とされる価値観も、数千年のときを経て変わりません。敗者が胸を張って勝者に謝罪を要求するというのは近代特有の現象でして、カエサルもハンニバルも楠正成も真田幸村もネルソンもチャーチルも抱腹絶倒したでしょう。

 戦争において倫理は肯定され、かつ否定されます。倫理は否定されます。殺人が功となりますから。しかし人類は戦争においても倫理を忘れませんでした。もちろん例外は数多くあります。戦争の倫理は時代時代で変遷した面もあります。文明圏によって異なったりもします。人類普遍の「戦争倫理」を唱えようとしたのは近代の特性です。私は賛成です。戦争にも倫理があるべきです。捕虜を虐待しないとか、一般市民を攻撃しないとか。拷問はしないとか。「核攻撃しない」が公的に戦争倫理に含まれる可能性は極めて低いですが、広島・長崎の「証し」は人類の意識に大きな影響を与えたと思います。オバマ大統領が広島を訪れる意義は大きいと思います。

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 安倍晋三首相が「成長戦略の柱」と位置づける環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)の交渉が難航を極めた末、ようやく大筋合意にこぎつけた。東京を除く5紙が積極的にこれを支持し、TPPの意義を強調した(産経新聞2015年10月14日)。

 数百万年もの間、人類は狩猟・収集で食料を得ていました。農業を営むようになったのは、たかだか1万年前ぐらいからです。多くの学者は農業の開始が国家を生み出したと考えました。したがって、農業こそが文明の曙だと。ゴードン・チャイルドは農業の開始を『新石器革命』と呼び、この用語が学者の間で大流行しました。ところが農業の発見と国家の誕生には数千年間のギャップがあり、農業と国家がストレートには結びつきません。

 他方、農業と国家の関係は否定し得ない面もあります。王や官僚は生産に携わりません。つまり食い物を自分で作りません。誰かが代わりに働かないといけません。無産階級を養える社会制度がないと国家は生まれません。農業は余剰生産ができるので、過剰な農作物で王や官僚を養います。

 チャイルドは後に『都市革命』という著作を世に出します。チャイルドの『新石器革命』と『都市革命』という概念が、20世紀の人類史観に大きな影響を与えました。こんな感じです。曰く、①人類は長年、狩猟・収集で生きてきた。②しかしある時期、農業を発見した。農業のおかげで食料生産力が増した。③豊かになった人類に都市が生まれた。④都市が発展して国家になった。つまり農村が発展して都市になったという史観です。チャイルドが世に出た1930年代は社会主義が勢いを増した時代でして、チャイルド自身も社会主義者でした。資本主義が発展すると社会主義になるという進化論的革命観が『新石器革命』と『都市革命』に反映されています。

 ところがチャイルドの史観には重大な難点があります。農民というのは、強制されない限り余分に働きません。つまり農民には余剰作物を作る動機がないのです。自分の家族を養える分だけ作れば、あとは寝ていたい、これが普通の農民です。農民が余分に働くとしたら、動機はただ2つ。①お殿さまが「年貢を納めろ!」と命令するからです。この場合、国家があるから農業の発展したことになります。②余分な作物を売って現金を得るか、他の商品と交換できるから。この場合、通商の場としての都市があることが前提です。つまり都市があるから、余剰作物を生産するわけです。

 そういうわけで、農業が発展して都市と国家が生まれたのではなく、都市と国家があったから農業が発展したのです。すでに18世紀に経済学の開祖アダム・スミスは気づいていました。スミスは奇妙な発見をしました。なんと、工業大国だけが農業大国でした。工業が発展していない国は、農業も発展していないんです。都市が発展していない国は、農業が発展していませんでした。理由は簡単、都市がなければ作物をたくさん食べる人口がないからです。都市があればこそ、農民はお金儲けできるのです。したがって、人類の農業生産力が飛躍的に発展したのは、産業革命以後です。これが歴史の真実です。

 農業と工業は不可分です。工業を支援すれば農業が廃れ、農業を支援すれば工業が廃れることにはなりません。都市の人口が稼いでこそ農作物が売れ、農業が発展します。国家が誕生して以来、農作物は商品です。何千年も前から。農業力は工業力に比例しますから、日本の農業には可能性があります。この可能性が開花するかどうかは、日本国民の努力次第です。

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