中国に侵略されている日本を護り抜け -17ページ目

中国に侵略されている日本を護り抜け

~この日本には、もう国を護とうろする男はいないのだろうか。武力衝突だけが戦争ではない。すでに中国共産党による情報の戦争、そして侵略は始まっている。眠っている男たちよ目を覚ませ。大和魂よ、蘇れ!そしてこの美し国を護り抜け!~

最近、震災の影響もあって、

ボランティア、

つまりは、

奉仕活動をされている方が増えているようだ。


わたしの友人も、

ボランティア活動を始めた者が幾人もいる。



時には、

「偽善者だ~!」と、

罵られているようだが・・・



まぁとにかく、

ボランティアが活発化しているのならば、

ほいなら、

ガキの頃から、

夜は街で

人をタコ殴りにしながらも、


昼間はボランティアをしていた者として、

ひとこと、言っておくかね。



「人生楽しまなければ損だ」


ガキの頃から、

そんなことをずっと考えていた。



それは今も変わらない。



トゥールジャルダンも行った。

ディズニーランドの「クラブ33」も行った。

キャビアも喰らえば、フォアグラが大好きだった。

ワインは味ならば赤。

だがシャブリをアイスペールに突っ込んで、

脇においておくあの雰囲気も、

たまらなく好きだった。


車は革張りのシーマ。

財布には万冊がうなってた。


友と語らい、

祭りで日本酒をあおり、

神輿を担ぎ、

気に入らないヤツは片っ端からブン殴った。


楽しい映画はなんでも見た。


趣味はスキーに、スキューバーダイビング。


週に三度は中野のジムで体を鍛え、

二十歳そこそこで、

ベンチプレスは150キロあげて、

「三十歳までに200キロあげる」

という目標を立てた。


ゲーテも、

シェイクスピアも、

川端康成も一通り読み、

世界の歴史や文化を学んで、

人の十倍くらいの好奇心から、

教養を磨くことも怠らなかった。

ガキの頃からの悪名もあったから、

街では多少の権力もあり、

肩で風を切って歩いてた。

今も昔も、

シャレにならないブサイクは変わらないが、

それでも、

ちょっとは女にもモテたのかもしれない。


とにかく楽しいこと、

面白そうなことは、

何でもやった。

なぜなら、

「人生楽しまなければ損だ」

「笑いが無い人生などつまらん」

と考えていたから。



でも残念ながら、

心は満たされなかった。


自分を喜ばせ、

目や、耳や、舌を楽しませる日々に、

人間の本当の幸福なんぞ無かった。


そこにあったもの、

それは虚しさだけだった。


しか街で暴れて、

敵を増やしていくために、

心に「安らぎ」なんぞ無い。



あるのは、

料理で舌を喜ばせ、

海(スキューバー)で目を喜ばせ、

酒で脳を喜ばせ、

女で肌を喜ばせる、

その程度の喜びだった。



そんな頃、

バブルが弾けて、

ホームレスになった。

途上国じゃぁあるまいし、

この先進国日本で、

ネズミが這い回るラーメン屋の倉庫で寝泊りして、

朝になったら、

皮パンが食い破られていることもあった。


まぁそれから、

いろいろあって、

沖縄、宮古島に一人で渡った。


生きる道は二択だった。


悪に突き進み、

快楽的な成金生活に舞い戻るか、

それとも聖なる道を選び、

幼子の頃の善なる日々に舞い戻るか。


幼い頃から、

キリスト系のボランティア団体に所属して、

キリスト教の教えに触れて生きてきて、

マザー・テレサが大好きだった。

そのために、

洗礼を受けて、

インドに渡って、

マザー・テレサのストカーになって、

「死を待つ人の家」で働き尽くして、

人生を終えるのも悪くないと、

本気で考えていた。


なぜならば、

本当の意味で、

心を満たしていたものは、

「奉仕」

であったことを、

私は、

それまでの人生ですでに学んでいたからだ。

そう、

人間が真に満たされ、

真に喜びを感じるのは、

人に愛を与える時だ。


相手に感謝されようが、

感謝されまいが、

そんなことは一切、関係ない。


「愛を与える」

この行為そのものに、

わたし達人間は喜びを感じるようにできている。


人は愛を与えた時、

すなわち、

人は人に優しくなることができた時、

そこに本当の意味での安らぎがあり、

喜びがあり、

もしも相手に感謝されるようなことがあったら、

それはそれで、

嬉しいことでは確かにあるが、

「オマケ」なようなものであり、

与えることにすでに喜びがある。


人は人に優しくなれた時、

人間としての真の喜びに触れる。


マザー・テレサもこれを知っていたからこそ、

「貧しい人の中でも、
 最も貧しい人に与えたい」
と本気で言えたのだ。

彼女は言う。
「与えているのではありません。
 与えられているのです」
と。

しかし世の中には、

人に愛を与えている優しき者に、

「偽善者」

と罵る者がいる。


確かに世の中には、

偽善者もいるかもしれない。

しかしそう罵る者は、

きっと、

「愛を与えることが人間の幸福であり、
 人に優しくなれることが人の幸せである」

というこの大切な真実を知らず、

舌や目や肌を喜ばせることに、

その生涯を費やしているのだろう。

あるいは、

「自分はお金を持っている」とか、
「自分は良い暮らしをしている」とか、

そうしたことに「優越感」というものを、

感じて幸せな気分に酔いしれているのかもしれない。

しかし言おう。

「優越感」に喜びを感じる者は、

心に喜びを感じているのではない。

「優越感」に浸ることが好きな者は、

己の中にある「劣等感」という苦しみを紛らわせて、

不幸せを埋めているだけに過ぎない。


それは本当の幸せではない。


人間の本当の幸せ、

それは心を満たすことにあり、

そして人が心を満たしていくものに、

まず一番最初に、

愛がある。

愛を与えることにある。


そしてこの愛というものは、

愛を与える心優しき者だからこそ、

誰かからも与えられる。

誰に愛を与えることもせず、

人の悪口ばっかり言って人を裁く、

そんな傲慢な者は、

愛を与えられることも、

なかなか少ないことだろう。


愛無き者に、

真の幸福は無く、

在るのは孤独という不幸である。

すなわち、

ボランティアについて、

ひとこと、言うのならば、

「そこに本当の喜びがある」、

ということだ。


「人生楽しまなければ損だ」

「笑いが無い人生などつまらん」

それは今も昔も変わらねぇが、

人の幸せは愛にある。

優しく生きることが人の幸せだ。


「今日、私は人に優しく生きることができただろううか?」

この自問自答は、

「今日、私は幸せだっただろうか?」

という自問自答に他ならない。


ボランティアする人よ、

人生楽しまなければ損だ。

なぁ、そうだろ?

俺はそう思うぜ。