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今から、8年前。
桜の満開の時。
私の17歳の終わりちかく。
別れは突然やってきた。
私とは5つ違いのいとこのお兄ちゃん。
飲酒運転で、逃げて、事故ったんだって。
私の人生初の、お葬式が、彼だって信じたくなかった。
晴天の青空に、何度願っただろう。
危篤の時に、「神様、どうか助けて!」
届かなかった想い。
人ってなんで生きているんだろ。
生きていたって、お金かかるし、なんで食べるんだろ。
半年は考えてた。
受験まっただなかだったのに。
お葬式の日、窓から、何本もの立派な桜の木から
鮮やかなピンクの花が、咲き乱れていた。
だから、私は、あの時の真っ青な空に、ピンクの色を
目に焼き付けて、絶対に忘れないようにしよう。と強く想った。
会食時に、知らない親戚と思われるおばさん達の声。
「もしも、あんな事故がなかったら…」
「もしも、彼女に赤ちゃんがいたら、よかったのに…」(彼女の立場で、残された方の身にもなってほしい)
「もしも…」
そのときから、ifが嫌いになった。
父親は、兄ちゃんの葬儀なのに、自身の話しているし…
胸くそ悪くなって
一階の兄ちゃんが眠るところに一人降りていった。
整然と並んでいるイスには、誰もいないはずなのに、一人、先に祖父が座っていた。
私は、隣にちょこんと何も言わず、座った気がする。
今の記憶では、何も語らず、隣にいた気がする。
覚えている限り祖父は、泣いていなかった。
いとこの兄ちゃんは、やんちゃだった。
生まれた時に亡くした父親に、荒れた中高校時代。
心優しい兄ちゃんを私は、知っているから、心根は荒れていない。
そんな兄ちゃんを近くで見ていたのは、母や姉だけでなく
祖父もいた。
祖父はどんな想いで、見ていたのだろう。
祖父であり、時には父親になっていたのだろうか。
今では亡きいとこの兄には聞けない。
もう話すことができない祖父に聞けない。
でも、私は知らなくていい。
事故でぼこぼこに腫れてしまった顔、静かに眠る棺を横に、
二人で座ってた。
誰かが、やってきて、何かを話してきたような気がする。
それに祖父は、もう82なのに、キリッとまっすぐ立って
受け応えていた。
私は、その祖父の姿しか覚えていない。
祖父は、孫を亡くしてしまって泣いて良いのに、
涙流さず、凛々しい姿で、私には、それが苦しかった。
「ああ、なんで、じいちゃんに見送らせているの!」
今でも、思い出すと苦しくなるね。
私は、この時から、祖父母の事を寂しくさせないよう、一人孫を亡くしてしまった
穴埋めを少しでもできるよう、祖父母孝行をしようと心に決めました。
数年経って、
会える時には、ちょこちょこ会いに行ったり、
電話したり、手紙かいたり
祖父母の結婚記念日には、ブリザードフラワーを贈ってみた。
ある年には、
私が思いついて、祖父母だけの年越しは、もう長年やっているから
孫を含めた三人での年越しを決行しよう!
と。
その年越しの夜だったのかな。
祖母がお風呂に入っていたからか、
祖父と二人になった時、
私と話していたら
祖父の目から涙流れてた。
なんの話をしたか、これまた覚えていない。
でも、覚えているのは、
「じいちゃんを悲しませないように、生きないといけない」
そう想った。
それを、今日の朝まで、思い出せなかった。
思い出せたのは、じいちゃんが今でも、がんばって生きているから。
もう十分生きているのに、精一杯生きているから。
私は、去年、何度も死にたい。と口に出してしまった。
会社がイヤでイヤで、生きるのさえイヤになってしまった。
そんな会社は、4月をもって辞め、今は別の会社にいる。
心も時間も余裕が出来、もう軽く死にたいなんて言ってはいけない。と反省しています。
そんな時期があったから、よけい、「精一杯生きないといけない」なんて
想えなくなっていた。
あの涙を思い出せた、今日、私はまたじいちゃんに、
ありがとう。と、人の生命力の強さに勇気をもらいながら
歩いています。
桜の満開の時。
私の17歳の終わりちかく。
別れは突然やってきた。
私とは5つ違いのいとこのお兄ちゃん。
飲酒運転で、逃げて、事故ったんだって。
私の人生初の、お葬式が、彼だって信じたくなかった。
晴天の青空に、何度願っただろう。
危篤の時に、「神様、どうか助けて!」
届かなかった想い。
人ってなんで生きているんだろ。
生きていたって、お金かかるし、なんで食べるんだろ。
半年は考えてた。
受験まっただなかだったのに。
お葬式の日、窓から、何本もの立派な桜の木から
鮮やかなピンクの花が、咲き乱れていた。
だから、私は、あの時の真っ青な空に、ピンクの色を
目に焼き付けて、絶対に忘れないようにしよう。と強く想った。
会食時に、知らない親戚と思われるおばさん達の声。
「もしも、あんな事故がなかったら…」
「もしも、彼女に赤ちゃんがいたら、よかったのに…」(彼女の立場で、残された方の身にもなってほしい)
「もしも…」
そのときから、ifが嫌いになった。
父親は、兄ちゃんの葬儀なのに、自身の話しているし…
胸くそ悪くなって
一階の兄ちゃんが眠るところに一人降りていった。
整然と並んでいるイスには、誰もいないはずなのに、一人、先に祖父が座っていた。
私は、隣にちょこんと何も言わず、座った気がする。
今の記憶では、何も語らず、隣にいた気がする。
覚えている限り祖父は、泣いていなかった。
いとこの兄ちゃんは、やんちゃだった。
生まれた時に亡くした父親に、荒れた中高校時代。
心優しい兄ちゃんを私は、知っているから、心根は荒れていない。
そんな兄ちゃんを近くで見ていたのは、母や姉だけでなく
祖父もいた。
祖父はどんな想いで、見ていたのだろう。
祖父であり、時には父親になっていたのだろうか。
今では亡きいとこの兄には聞けない。
もう話すことができない祖父に聞けない。
でも、私は知らなくていい。
事故でぼこぼこに腫れてしまった顔、静かに眠る棺を横に、
二人で座ってた。
誰かが、やってきて、何かを話してきたような気がする。
それに祖父は、もう82なのに、キリッとまっすぐ立って
受け応えていた。
私は、その祖父の姿しか覚えていない。
祖父は、孫を亡くしてしまって泣いて良いのに、
涙流さず、凛々しい姿で、私には、それが苦しかった。
「ああ、なんで、じいちゃんに見送らせているの!」
今でも、思い出すと苦しくなるね。
私は、この時から、祖父母の事を寂しくさせないよう、一人孫を亡くしてしまった
穴埋めを少しでもできるよう、祖父母孝行をしようと心に決めました。
数年経って、
会える時には、ちょこちょこ会いに行ったり、
電話したり、手紙かいたり
祖父母の結婚記念日には、ブリザードフラワーを贈ってみた。
ある年には、
私が思いついて、祖父母だけの年越しは、もう長年やっているから
孫を含めた三人での年越しを決行しよう!
と。
その年越しの夜だったのかな。
祖母がお風呂に入っていたからか、
祖父と二人になった時、
私と話していたら
祖父の目から涙流れてた。
なんの話をしたか、これまた覚えていない。
でも、覚えているのは、
「じいちゃんを悲しませないように、生きないといけない」
そう想った。
それを、今日の朝まで、思い出せなかった。
思い出せたのは、じいちゃんが今でも、がんばって生きているから。
もう十分生きているのに、精一杯生きているから。
私は、去年、何度も死にたい。と口に出してしまった。
会社がイヤでイヤで、生きるのさえイヤになってしまった。
そんな会社は、4月をもって辞め、今は別の会社にいる。
心も時間も余裕が出来、もう軽く死にたいなんて言ってはいけない。と反省しています。
そんな時期があったから、よけい、「精一杯生きないといけない」なんて
想えなくなっていた。
あの涙を思い出せた、今日、私はまたじいちゃんに、
ありがとう。と、人の生命力の強さに勇気をもらいながら
歩いています。
こんばんは。
もうすぐ盆ですね。
今、戦っている祖父に、私の想いを綴ります。
「生きる」ことについて、私自身、考え直し、また「わたしの生き方」を
少しずつ、年をとる毎に、固めていきたいなと思って整理するための内容にしようと思います。
私の祖父は大正15年生まれの、昭和を生き、戦争を経験し
時代の流れが速い平成を歩き、時に走り、生きている人です。
私の母の父親である祖父は、90年の間に、愛をもらったであろう祖父母、両親、
兄弟、友人、後輩、、、そして、孫息子、
なん人の人を見送ってきたのだろう。
祖父は優しくて苦しいとか嫌みとか一切言わず、でも意志が固く強がりな性格なのかもしれない。
それは、祖父は杖をつくのが恥ずかしくて
足が弱っているのに、去年まで無理していたから、とうとうパーキンソン病で
歩きにくくなって、寝たきりになってしまったね。
でも、極力がんばってトイレに行ったり
移動したり、一人でもがんばってた。
今年の3月。
90になったときには、もう話の内容が聞き取れなくて
弱っているのが目に分かるようになり、
元気だった時の姿を思い浮かべると
涙がでてしまいそうなくらいになってしまう。
同時に、私だったら、大往生したいのかどうか。
ここまで、がんばれるものだろうか。
と。
私だったら、もう寝たままでいいや。
苦しいから、もういいや。
となってしまいそうだな。
と、最近ずっと思っていた。
それを反省する・考え直す時がきた。
そんな祖父が、先週末に肺炎のために入院しました。
もう先が長くない。
延命治療はしない。
と連絡を受けた時、まだ祖父はこの世にいるのに
ぽろぽろ、ボロボロ、涙が止まらなかった。
止めようと思っても、止まらなかった。
「今日は、金曜日。あと半日がんばれば、夜にでも実家の方に行こう。
土日に、祖父に会いに行こう。」
とam11:00に、トイレで泣きながら決めた。
ただ、涙はぬぐって、赤目を人にばれないように、トイレを出た。
正午。
お昼休憩に、気が緩んで
デスクにいるのに、涙が溢れでて、また止まらない。
もうダメだ。。
相談しやすい、女性上司に「すみません、そうだんが…」ぼろぼろ
と涙が。。。
(驚かせてすみません。。。)
急遽、その日の午後は、都内の外れにある病院に向かうことになった。
「祖父に会えますように、間に合いますように」
「祖父に、『ありがとう』『大好きだよ』を絶対に伝えよう!」
と決めて。
電車は、三線使い、その中でも、人目気にせず(気にしていたが)、
涙が止まらなかった。
ああ、函館の祖父が亡くなった時に、葬儀に向かう際、
羽田空港のところでも号泣したな。。。
あの時は、また違う状況だったから。
でも、人目がある中で、泣いてしまうのは、今回が二回目か。。。
どんなに気持ちが、急いても、
電車の速度は通常運転。
時間は短縮しない。
もどかしい気持ちに膨らむ感情。
久しぶりに通る、乗り換え線までの道。
いつ振りなのだろうか。
いつからこんなにも、きらびやかなお店や通路になっていたのだろうか。
そう思いながら、
駆け足で通り過ぎる。
電車とバスを乗り継ぎながら、病院について
我慢していたトイレに入る。
祖父がどんな容体なのか、
祖母・叔母が病室にいるのか、
すこし不安の色を浮かべながら、呼吸も整えて
二階の病室に向かう。
もうすぐ盆ですね。
今、戦っている祖父に、私の想いを綴ります。
「生きる」ことについて、私自身、考え直し、また「わたしの生き方」を
少しずつ、年をとる毎に、固めていきたいなと思って整理するための内容にしようと思います。
私の祖父は大正15年生まれの、昭和を生き、戦争を経験し
時代の流れが速い平成を歩き、時に走り、生きている人です。
私の母の父親である祖父は、90年の間に、愛をもらったであろう祖父母、両親、
兄弟、友人、後輩、、、そして、孫息子、
なん人の人を見送ってきたのだろう。
祖父は優しくて苦しいとか嫌みとか一切言わず、でも意志が固く強がりな性格なのかもしれない。
それは、祖父は杖をつくのが恥ずかしくて
足が弱っているのに、去年まで無理していたから、とうとうパーキンソン病で
歩きにくくなって、寝たきりになってしまったね。
でも、極力がんばってトイレに行ったり
移動したり、一人でもがんばってた。
今年の3月。
90になったときには、もう話の内容が聞き取れなくて
弱っているのが目に分かるようになり、
元気だった時の姿を思い浮かべると
涙がでてしまいそうなくらいになってしまう。
同時に、私だったら、大往生したいのかどうか。
ここまで、がんばれるものだろうか。
と。
私だったら、もう寝たままでいいや。
苦しいから、もういいや。
となってしまいそうだな。
と、最近ずっと思っていた。
それを反省する・考え直す時がきた。
そんな祖父が、先週末に肺炎のために入院しました。
もう先が長くない。
延命治療はしない。
と連絡を受けた時、まだ祖父はこの世にいるのに
ぽろぽろ、ボロボロ、涙が止まらなかった。
止めようと思っても、止まらなかった。
「今日は、金曜日。あと半日がんばれば、夜にでも実家の方に行こう。
土日に、祖父に会いに行こう。」
とam11:00に、トイレで泣きながら決めた。
ただ、涙はぬぐって、赤目を人にばれないように、トイレを出た。
正午。
お昼休憩に、気が緩んで
デスクにいるのに、涙が溢れでて、また止まらない。
もうダメだ。。
相談しやすい、女性上司に「すみません、そうだんが…」ぼろぼろ
と涙が。。。
(驚かせてすみません。。。)
急遽、その日の午後は、都内の外れにある病院に向かうことになった。
「祖父に会えますように、間に合いますように」
「祖父に、『ありがとう』『大好きだよ』を絶対に伝えよう!」
と決めて。
電車は、三線使い、その中でも、人目気にせず(気にしていたが)、
涙が止まらなかった。
ああ、函館の祖父が亡くなった時に、葬儀に向かう際、
羽田空港のところでも号泣したな。。。
あの時は、また違う状況だったから。
でも、人目がある中で、泣いてしまうのは、今回が二回目か。。。
どんなに気持ちが、急いても、
電車の速度は通常運転。
時間は短縮しない。
もどかしい気持ちに膨らむ感情。
久しぶりに通る、乗り換え線までの道。
いつ振りなのだろうか。
いつからこんなにも、きらびやかなお店や通路になっていたのだろうか。
そう思いながら、
駆け足で通り過ぎる。
電車とバスを乗り継ぎながら、病院について
我慢していたトイレに入る。
祖父がどんな容体なのか、
祖母・叔母が病室にいるのか、
すこし不安の色を浮かべながら、呼吸も整えて
二階の病室に向かう。