これは、母が亡くなる前に覚えとして書いてあったブログです。少し加筆修正などしました。
【2017年に記入したものです】


11月12日4:30父のガラケーに病院より緊急の呼び出し連絡が入った

別の部屋で寝ていたので父が私の寝ていた部屋をノックし、私も目覚めてとりあえず着替えだけをした。

父は万が一を考え、ワンコにご飯をあげた。4:30の朝ごはん、ワンコは完食した

どうやら父への連絡は血圧が50くらいまで下がったと連絡が来たらしい

前回同じような呼び出しがあったものの血圧の回復があったから今回もそうなると思っていた。

ノーメイクだけど、まぁ、いいや。
きっとまた血圧は戻るだろうし、安定したら一旦実家に戻って身だしなみ整えてもう1度病院に行けばいいやって思って向かった。

病院に到着したのは5:00少し前。深い呼吸の後15秒止まる呼吸。止まる間隔が20秒になっていた。しかも深い呼吸の回数が増える。
1分間の呼吸は4回から5回程度だろうか。

看護師さんもどうなるか分からないですと、、、
とりあえず父はすぐに弟に緊急の連絡を入れた。

弟も6:00前には到着した。
呼吸は常に気になる。
今まで15秒止まったあとは6秒間隔とかだったのに、、、15-15-6-10秒というような間隔になる。

7:00に血圧を再度測ってもらう。50から復活しない。熱も少しある。

それでも、血圧が下がってはいなかったので父は今のうちに交代で朝ごはんを食べようと提案した。

今思うと何やってたんだろうと、、、コンビニにしようと私、言えば良かったなぁ。

先に私と父で近くのファミレスモーニングに行った。40分ほどで病院に戻った。
その間弟が呼吸を数えていると30秒止まった事があったと言う。

嫌な新記録更新だ。

弟は1人でファミレスは恥ずかしいからとコンビニでおにぎりを買ってきてデイルームで朝食を済ませた。

9:00少し前だと思う。
母の呼吸が変わった。
深呼吸のような深い呼吸で無くなる。
心配になり、父がナースコールを押す。

看護師さんが駆けつけ、お母さん頑張ってるから、耳は聞こえているから声をかけてあげてくださいねと伝えてくれる。


耳は聞こえているからの意味が分からなくて、とりあえずみんな声をかける。

私はお母さん、、、と呼びかける
弟はおちゃらけキャラ、、、おはようございますって呼びかける

父は、、、なんて言ってたかなぁ。

母の口がパクパクと何かを言っているように動き、その後一筋の涙がこぼれた。

私も母の涙には気がついたが弟が「涙がこぼれた」と呟いた。

30秒経っても次の呼吸をしない。
呼びかけても次の呼吸は無い。

私は慌ててスマホの時計を見た。
9:10母は旅立ってしまった。

おそらく涙を流した時だとすると9:08くらいだっただろうか。

私はしゃくり上げて泣きながら、お疲れ様でしたと声をかけた。

家族全員が揃っている所で母が旅立った。
正直私は看取ることはできないと思っていたので、家族が揃うまで頑張った母をすごいと思う。

しばらく家族での時間を過ごし、落ち着いてから荷物をまとめる。

日曜日ということもあり、先生が1人しかいなくて死亡診断まで少し待たされた。

10:43ご臨終です。
ドラマのワンシーンが私の目の前でおきていた。

息を引き取った時間は9:08
死亡は10:43

お母さん、62年という短い人生、お疲れ様でした。ありがとう!


その後11/14に通夜、11/15に葬儀を執り行いました。これから家族のことをお空から見守ってくれることでしょう
これは、母が亡くなる前に覚えとして書いてあったブログです。少し加筆修正などしました。
【2017年に記入したものです】


私が自宅に戻っている間の母の様子、、、

翌日はまだ手を挙げたり反応があり、声はほとんど出ないがそれでも喋ることは少しできていて意識はしっかりとしていたこの状態で少しでも生きてほしいと父とメールでのやり取りをしていた。

次の日は水分摂取も少量に、、、日々父からの報告に浮き沈みする


水分摂取も無く、点滴もせずでなんとか生き延びている母、翌日には母の姉がお見舞いに来てくれて、少しテンションが上がったようです。
夜母と父が二人きりになった時に『お父さん、長生きしてね』と母から言われたそうです

この日医師からの報告で、水分を飲まず、点滴もしないけど、エネルギーをできるだけ使わない生き方ができていると。
点滴を入れるとガンの養分になるし、体内のバランスが崩れて死んでしまうかもしれないからこの調子で行けるところまで行くことになった。

11/9
前日のお姉さんの面会で疲れもあったのか、朝方血圧低下で父は2度目の呼び出しがあった。夕方には血圧も90まで戻っていた。一応安定はしているようだが、痛みを緩和するため昼にはモルヒネ投与がはじまった

状況はどんどん悪化している


11/10
喋ることができなく、反応も少なくなってきているようで、週末来てももう寝ているだけの母を見ているだけになっちゃうけどそれでも来るかと連絡を貰った
私が行くことで、声を掛けることで何か反応があるかもしれないから、今までも毎週通ってたんだし、行くからと伝え週末を迎える

11/11
朝自宅を出て電車に乗り昼に母の病院に着く。ここ1ヶ月週末実家の生活も慣れてきた
母に合うと、寝ている。声を掛けても反応が無い。
でも、呼吸はしている。
午後には弟家族が来て姪っ子が呼びかけた
すると、母は腕を挙げ反応した
僅かな反応でも家族には嬉しかった

一度実家に戻り、荷物を片付け夕方父と病院に行った。夜母に声を掛けるともう1度腕を挙げて反応した

しかし、腕を挙げる反応があっただけ、、、寝ているのを確認して1時間ほどで病院を後にした。
これは、母が亡くなる前に覚えとして書いてあったブログです。少し加筆修正などしました。
【2017年に記入したものです】


11/2子供たちを見送ってから急いでタクシー電車に乗って母の入院している病院に向かった
昼には到着し、母の様子を見る。
1週間ぶりに会った母はもう顔までもがやせ細り頬の肉も無くなり骨と皮だけになっていた

喋ることもしんどそうだった
看護師さんからはお看取りの時の服を用意してほしいと告げられ、その時は近いのだと覚悟した。
呼吸数も少なく、食べることも点滴もしていない

父が夜付き添いで泊まった日、寝てる時の母の呼吸を数えたところ1分に6回。15秒止まることもある。数えてしまったら逆に恐ろしくなったと言っていた

父が家の用事を済ませたいので2時間ほど母と過ごした
その間に看護師さんが貼り薬を貼り替えたのでどんな薬を使っているのか聞いてみたら、『フェンタニル』と言う強い痛み止めのようでした

1週間での変化に気持ちも追いつかず、母に何をしてあげたらいいのか、どうしたらいいのか分からないで2時間が過ぎてしまった父の言っていたように呼吸は少なく、15秒ほど止まったりした
それでも状態は安定しているようで19:30母が寝たのを確認して実家に帰った

夜から弟も実家に泊まり込み、いつお呼びがかかってもいいよう眠りについた。

翌朝まで何事もなくしっかり寝れた


11/3朝9:00に病院に行き母を見る。ヨーグルトをひとなめ。コーラを吸い飲みで少量飲んだ。

前日とあまり変化はない。
母が起きている時に色々話をして、産んでくれた事への感謝の気持ちを伝えた。母の起きている時に産み育ててくれたことの感謝の気持ちを伝えた
単なる自己満、、、
でも、この時言っておかないとって思った。

母は家族の前ではボーッとしている事が多いが看護師さんが来ると少しシャキッとするのか受け答えができる。何だか不思議だ。

午前中は弟の奥さんと子供と、弟の奥さんの両親が見舞いに来てくれた。

弟の奥さんの両親は30分ほど面会して帰っていった。

体調が良さそうなので父は母にサプライズの準備を始めることにした。

実家で飼っているワンコを病院に連れてくることにしたのだ(この時ワンコはペットホテルに預けていたのでワンコの一時引き取りで病院に連れて来ることになった)

病院のスタッフがいい人ばかりで、患者の希望は基本的に可能な限り聞いてくれる
看護師さんに何時からならワンコとの面会が可能か相談をした。

おやつの時間帯なら人手がいそうだと言うことで、お昼を食べてワンコを連れてくるという算段になった。

母にはお昼食べてからワンコを連れてくるねと伝え、ひとまず病院を後にした

午後ワンコを連れてきた時、喜んではいたものの、母の元気はそれほど無かった

喜びたい気持ちはあったけど、もうそこまで体力が無かったのだと思うスマホの中のワンコの写真や動画を見るととても笑顔で喜んでいた母だったのに。

30分ほどワンコとの面会ができ、病院のスタッフさんたちがお手伝いしてくれて写真を撮ってくださり家族での思い出ができた。

ワンコとの面会が終わると母は病室に戻り、父はワンコをペットホテルに預けに行った

母はワンコを合わせてくれたのはスタッフのお陰と喜んでいた。そして、感謝を言いたかったのだろう「韓国人達にお礼を言わなきゃ」って言っていた


せん妄なのか、ここ最近は韓国に行ってきたとか、ヨン様に会ったとか、病院のスタッフにも韓国人?と聞いてみたり、、、どうも韓国とよく口にする

部屋で母といると疲れたから休ませて欲しいと言われ、部屋にいると寝れないからと言われたのでデイルームで待ちながら10分~15分くらいで様子を見に行く。

浅い眠りではあったが寝ている。
弟家族は自宅に帰って行った
18:00過ぎ病院をあとにした。

またビクビクしながら寝ることになった

翌朝、病院からの連絡もなく身支度を整え病院に行く。
前日のワンコとの写真が病室にキレイに飾られていた。

私たち家族はもうここ1か月母との写真は撮る気になれなかった。1週間単位で会っていてどんどんと顔が変わっていく母。正直見ていられなかった。元気だった時の母の面影が無くなった写真を残したくなかった

この日は弟家族が面会に来た。
カフェラテを少量飲んだりコーラを飲んだりした。と言っても舐める程度ではあったが

お昼は父を病室に残して弟の家族と私で近くのうどん屋さんで食事した。
14:00過ぎに弟家族、父と私も病院を出た。
母も家族がいるとなかなか寝れないだろうから、夕方来ると言い残し病院を後にした

父の遅い昼ごはんに付き合い、買い物をして夜ご飯の下ごしらえを済ませてから予定通り夕方母の病院に向かう。ひとまず安定はしているようだ

2時間ほど様子を見て、また夜病院を後にする。
呼び出しが来ないことを祈り眠りにつく


11/5翌朝を迎える

私は自宅に戻る準備をして病院に向かう。
母の安定している状態を確認して駅の切符売り場に向かう。
自宅に帰れそうだ。

切符を買って病院に戻る
この日も弟家族がお見舞いに来てくれた。
母が安定してそうだと感じ、お昼には電車に乗って自宅に帰った。

次の週末まで母が持つのか心配だ
私は週末しか行けない。
平日は夜に父からの連絡で母の状態を報告してもらうら。

緊急性がある場合はその都度連絡してもらうことになっていた。





これは、母が亡くなる前に覚えとして書いてあったブログです。少し加筆修正などしました。
【2017年に記入したものです】

※自分自身の体調不良やら色々あり、2017年内にアップできずにいました。年明け早々にアップするのも気が引けて、、、3ヶ月過ぎ少しづつ気持ちの整理も付いてきたのでアップしました。


11/1父から電話があり、もうお母さんが1日2日の命かもしれないと、、、先生から言われたらしい

11/1の4:00病院から父の携帯に電話が鳴り、血圧の低下のため呼び出された。

もしかしたら、ここ1日、2日の命になるかもと主治医の先生から伝えられたようだ。

9:00過ぎに私の所に父から連絡が入る。
しかし、子供たちの事があるのですぐに駆けつける決断はできないでいた

とにかく、準備をしないと出れない。
ひとまず家族全員分のフォーマルを用意し、自分の荷物はトランクに詰めた。ゴールがまだ先だと思っていただけにショックである

色々考えたが子供たちが翌日学校があるので子供たちを翌日学校に送ってから実家に向かうことにした。

子供たちが帰ってくる時は義実家の両親にお願いして連休中面倒を見てもらえるようお願いをした

もしかしたら看取ることはできないかもしれないが、平日ど真ん中は流石に動けなかった

覚悟をしつつ、翌11/2母の元に駆けつけることにした

母の家系はとにかく11月に亡くなった人、10月末に亡くなり葬儀を11月に執り行う人が多く、私達家族には魔の11月と思っているのだ

11月になった途端血圧低下、お呼び出しとは魔の11月を連想するしかない

昼前には母の血圧も戻ったが、父は心配もあり呼び出しのあったこの日は病院に泊まり込んだ

私もただ、どうか生きている母にもう1度会いたいからと祈ることしか出来なかった






今年は良い1年になりますように
家族みんなが健康に元気に過ごせますように

大好きな旅行にも沢山行けますように
初詣に鈴鹿にある椿大神社に行ってきました

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かなえ滝といってこの滝でお願いしたことが叶うようで、お願いしてきました