人には無限の記憶がある。が、わざとに忘れる。・・・と、勝手に仮定している私。

ただが、筒。されど、筒。

覗き見て、クルクルと回すとそこには、規則正しく美しい紋様が現れる万華鏡が、私の中には確かにある。






産まれてから全ての会話、全ての感情を覚えている状態を想像してみる・・・・今さら戻れやしない時間の事を後悔するのが、関の山だろう。

いつまでも悶々とし、混沌とし、困惑し、今この時間の学習を疎かにする。今を生きるために、忘れる事を無意識に選択している。

忘れることは、知らない事ではない。

ただ「記憶の下のほうに」潜んである。
忘れているけれども、「下のほうにいる記憶の協力者」。

よく聞くのが、痴ほう症の方が行方不明になった場合、その方が若かりしころの思い出深い所へ行く可能性が高い。取り壊された生家だったり、良く遊んだ野山だったり等と、「記憶の下にある場所に」向かうから、万が一を想定して親の思い出深い場所とかは、面倒くさがらず聞いてた方がよいよ。と、知人の消防団員がアドバイスをくれた事がある。

今、何か食べたかどうかも全く記憶になくても、数十年前の鮮明に浮かぶ場所・・・。何度も何度も繰り返し学習された記憶が、痴ほう症というキッカケで突如浮かぶのだろう。

古い記憶は失われたのではなく、どこかに潜み生き続けていて、単に思い出すことが難しいだけ。「忘却」と「学習」は共生関係にあり、もう一度何らかの必要性があるから、再度学習することを手助けをする為に忘れるさせるだと・・・

記憶のなかの、何かにアクセスするとき、それが記憶の中に存在していると、無意識に認識している。そして付属の事も同時に思い出す。単純化された再生とは違うのだ。

記憶から取り出した情報が上手くいけば、将来さらに思い出しやすくなるし、得られる事も大きい と想う。

ただ記憶を取り戻そうとして躍起になると、余計に下の方へ転がり込んだり、第三者の言葉に惑わされ、記憶のスレ違いをおこすのではないかと・・・・

思い出しにくい過去の記憶に悶々とするよりも、今現在、瞳に写る風景や香り、味覚等の五感を楽しむことが有意義だと想う私は、直ぐに忘れる。

戻れやしない過去に、うだうだ愚痴や不満を言う時間は勿体ない。その時、それがベストと考えたのは自分自身なんだからかお

「記憶の下のほうに」忘れているけれども、「下のほうにいる記憶の協力者」は必ずいる。



記憶は、万華鏡の美しさ。






気の向くままに、音を紡ぐ花