みりんちゃんのブログ

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闘病(線維筋痛症)日記

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かなり久しぶりの投稿になりましたが、心の整理がついたので書き残して置こうと思います。


年明けから継母の容態が悪化し、もう長くは保たないと言われていたので心の準備は出来ていたつもりでした。

2月28日昼過ぎ、妹から危篤の知らせがあり、コロナ禍で帰郷するべきか悩みました。私自身、線維筋痛症でかなりひどい痛みと母の容態が気掛かりで精神的にもかなり堪えていて何度も倒れるほど衰弱していました。

家族葬で人手が足りない上、私まで倒れたら家族に迷惑をかけてしまう…亡くなった母や家族には申し訳ないと思いましたが帰郷は断念しました。

私と母は我の強いもの同士で衝突する事も多く、私は高校を卒業すると親元を離れ疎遠になりました。

その後、母が交通事故に遭い生死を彷徨い奇跡的に命を取り留めましたが脳挫傷で記憶を失い、下顎粉砕骨折、鼻骨骨折と右足膝上粉砕骨折などで要介護となりました。私は一ヶ月仕事を休職し看病し、その間に母と親子の関係を修復しました。学生時代の私はあまりに幼過ぎて母の思いを汲み取れず傷つけてしまったと…。大人になって分かった、三人兄妹の母親になる覚悟がどれほど大変な事だったのか…。


その日の夜、私は言霊で母と話しました。


「甘え方が分からず距離を置き、父親を取られたと敵対して分かり合おうともせず無駄に時を過ごしてしまった事、本当にごめんなさい。」

「我がままで生意気な私に愛情をいっぱい注いでくれてありがとう‼︎」

「もっといっぱい話せばよかった。」

「もっといっぱい一緒に過ごせばよかった。」

「現世で私達のお母さんになってくれてありがとう。心から感謝しています。」

「苦しく辛い日々はもう終わりです。来世は私と出会わずに幸せな人生を過ごせるように願っています。」

「本当にごめんなさい。ありがとう。」

母の息遣いをそばに感じた気がして涙か溢れました。


そして翌日の3月1日、妹から継母逝去の知らせを受け、ただ呆然と佇むしか出来なくて涙も出なかった…。母は眠るように息を引き取ったそうです。穏やかな最期をを過ごせたようで少し安堵しました。


悲しいのに涙が出ない…。彼に苦しい気持ちを吐露しました。彼も父親が亡くなった時、葬儀の手配や諸々の事に追われ泣く暇もなかったと…。そして病気で死期が分かっていれば心の準備も出来てたから。

別に涙が出なくても変じゃないと言ってくれた。


明日の葬儀に出席出来ないと思うと涙が止めどなく溢れました。


3月4日、コロナ禍の葬儀は母の友人も代表者数名と父、兄夫婦とその息子達三兄弟、そして妹夫婦だけの寂しい葬式となりました。



暫くの間、感情の起伏が激しく鬱が再発してしまい線維筋痛症の痛みも悪化し通院も出来ないくらいひどい状態になってしました。


今は、たまに訳もなく涙が流れるくらいで感情の起伏も穏やかになりました。

線維筋痛症は相変わらず悪化したまま痛みと共に過ごす日々です。