2010-08-08 00:17:17

今日の<フォーラム PTAは新しい公共を切り開けるか>で言いたかったこと(その2)

テーマ:PTAと「新しい公共」
(各論篇です。)
では、公教育の世界において「集団」の声ではなく、「個人」の声に耳を傾けるにはどうすればいいか。
今回の「新しい公共」宣言の流れの中で、元文部官僚の寺脇さんが、「従来のPTAを整理整頓して、保護者と学校の連絡や相談のための『保護者会』と、社会教育活動を行う団体としての『PTA』に分けるとよい」という主張をされているのが大きなヒントになると思っています。

実は、この素晴らしい考え方、残念なことに、最終的な「新しい公共」宣言別添資料におけるPTA関連提言からは落ちてしまっているのですね。
なお、本フォーラムにて寺脇さんが提示された資料は、↓の資料の14ページ冒頭。
http://pta-forum.up.seesaa.net/image/PTA_forum_documents.pdf

ただ、この資料、円卓会議の提出資料をまとめてある内閣府のサイトにはないのですよね?
今日、寺脇さんに、その資料、内閣府のサイトでは見かけなかったのですが?とうかがったところ、6月4日の会議(第8回←最終回)に出したのですがね…とおっしゃるのです。
先ほど、見に行ってみましたが、やはりありませんでした・・。
う~ん、なんでだろ。私の見落としの可能性もありますが。今度内閣府に確認してみます。


話を元に戻します。
この資料において、PTAと保護者会が分離されているところにご注目ください。
また、この考え方は、カワバタさんの「どうしても必要な委員会は学級PTAだけなのでは」という本日の提言ともつながる主張だと思います(↑の資料9ページ)。

ただ、ここから円卓会議・寺脇さんと考えが違ってくるのですが、国が本腰を入れて支援をすべきなのは、PTAのほうではなくて、保護者会のほうではないのですか、と言いたいです。

だいたい、これまでPTAと保護者会の線引きが文部行政のうえできっちりとなされていなかったことは無茶苦茶な話で、それが今切り分けられようとされているのは、ほんとうに素晴らしいと思うのですが、もう一歩進めるべきではないかと思うのです。

なぜなら、任意加入の団体であるPTAを支援し、そこを通して保護者の声を吸収するというなら、PTAに入らない保護者の声はどうなるのかと言いたいのですよ。

まずは、保護者会で担任と保護者が密に連携をとる。
これが、基本中の基本ではないでしょうか。
今日のカワバタさんの話にあったように、新学期、学校に出かけてみたら、担任の先生との話は5分で終わり、あとは延々クラスで何時間もPTAの役員決めをするというのは本末転倒にもほどがある。

公教育において、保護者の声を吸収したい、ボトムアップの実現を!というのなら、なぜ、日々現場でそのお子さんを通して保護者と向かい合っている担任を使って声を集めようとしないのか。
そこが不思議で仕方がありません。

本線としてそのラインが太いものとしてある。
それとは別に任意加入の団体であるPTAのラインもある。
こうあるべきではないのかと思うのです。

寺脇さんの提言は、本線と支線のバランスが逆になっているところが、私的には惜しいなと思うのです。

そして、もちろん、保護者個々には、様々な考えがあります。
身勝手な考えもあるでしょう。
でも、そこは、最終的にクラスのことは担任の先生が、学校全体のことは校長先生が判断すべきかと。
そして、保護者は公教育を担う専門家の最終的な判断には基本的には従うべきかと。

以上でわたしの話は終わりますが、この考えって、実は、「熟議カケアイ」の考え方と瓜二つだと思うのですがね。
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2010-08-08 00:14:34

今日の<フォーラム PTAは新しい公共を切り開けるか>で言いたかったこと(その1)

テーマ:PTAと「新しい公共」
本日会場で言いたくてうずうずしていて(時間の関係で)言えなかったことを書かせてもらいます^^;。
(まずは、総論篇(汗)。)

文科省の前川さんが「初代文部大臣森有礼に始まるトップダウンの教育行政から、これからはボトムアップの教育行政にしていく必要がある。」という話をされました。
「なるほど、コミュニティスクールの背景にはそのような骨太の思想があるのか。」と一応納得いたしました。
しかし、ここで考えなくてはいけないと思うのは、ボトムアップの「ボトム」の単位です。
このボトムが「個人」ではなく「集団」単位になってしまうと、これまでとあまり変わらないという結果になりかねないように思うのです。

実は、森有礼の孫の、森有正(哲学者・仏文学者)は、私の最も敬愛する思想家なのですが、その有正が、日本には「あなたのあなた」、つまり二人称的な存在ばかりがあって、一人称(個人)と三人称(社会・公共)が欠如しているということを述べています(『経験と思想』)。
同じような考えを、例えば『「甘え」の構造』の土居健郎氏も、日本では、集団の力が強く、個人の自由とパブリックの精神が欠如していると述べています(拙ブログでの記事:<集団を超越するものとしての、個人の自由とパブリックの精神>http://ameblo.jp/maruo-jp/entry-10609127057.html)。

日本に「個人の自由がない」というのはまだ分かるが、「社会性や公共性が弱い」というのはどういうこと?と思われる方もいるかもしれませんが、今の大部分のPTAが行っていることを考えてみてください。

入退会の意思の確認もせず半強制的に入会させ、その上役職を強要する。

これは、「個人の自由」の侵害であると同時に、法に基づかぬ不法な行為を犯しているという意味で、反社会的・反公共的なことを行っているわけです。
私は、「その学校のPTAが自動入会と決めたら、その決めごとは新入生の保護者にも適用されます。だから、自動入会のPTAが優良PTAとして表彰されても問題ないと考えます。」と述べた神奈川県教委のPTA担当者のことばは多分一生忘れないと思います^^;。
(拙ブログ記事:<「『自動加入』は人権侵害とは言えない」(By神奈川県教委)※追記あり>http://ameblo.jp/maruo-jp/entry-10494840206.html)

そこには、「集団」の力を過大に評価し、個人の自由と社会的・公共的な決めごと(=法令)を軽んずる日本人的なスタンスが見てとれると思うのですよ。


説明が長くなってしまいましたが、「新しい公共」にあっては、上に見てきたような、「集団」を過度に重んじ、個人の自由と社会的・公共的なルールをないがしろにするようなことはぜひ改めていただきたいと思うのです。
そこが改められなければ、「新しい公共」どころか、かつてたどった「破滅への公共」になりかねないかと・・。

要するに、国が国民の意向に敏感であることは大変に結構なのですが、ぜひお願いしたいのは、「集団」を通して国民の声を吸い上げるという旧来の手法に対してぜひ反省的であってほしいのです。


その点、フォーラム最後のコメントで、文科省の前川さんが、白川郷の「結」の話を例にとられながら、「共同体が先にあって個人がそれに従属するのではなく、これからは、個人の尊厳に基づいて共同体が作られなくてはならない。それこそが『新しい公共』だ。」という話をされ、大変にわが意を得ました。
また、モデレーターであるNHKの早川さんは、最近文科省が始めた熟議カケアイの取材をした時の話をされ、「文科省の官僚が、ある『会』、ある『団体』の代表ではなく、自ら手を挙げ参加したひとりひとりの人の話にあんなに真剣に耳を傾けている姿を自分は初めて見ました。」と話されたのも大変に印象深かったです。
(各論篇につづく。)
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2010-08-06 22:58:34

フォーラムで問いたいこと

テーマ:PTAと「新しい公共」
以下は、あす行われるPTAフォーラムで問題にしたいこと。フォーラムの公式サイトのコメント欄に投稿するつもりです。

******
「趣旨」の文言の訂正、ありがとうございました。
とはいえ、今後「政府による宣言」になる可能性もゼロではないのでしょうから、しっかりとその妥当性を検討する必要がありますね。

私が今回のフォーラムで検討していただきたいことを以下に思いつくままに書かせてもらいます。

◎2.11に横浜で行われたPTAフォーラムにて、寺脇さんが「従来のPTAを整理整頓して、保護者と学校の連絡や相談のための『保護者会』と、社会教育活動を行う団体としての『PTA』に分けるとよい」という主張をなさいました。
私はこの主張に大賛成です。
このような整理整頓をしないまま、PTAを「新しい公共」という美しい言葉に結びつけることは、現在のPTAの強制体質をより強化してしまうことになるのではと強く懸念しています。


◎秋津小学校のサイトを拝見しますと、かなり大がかりな組織体制になっているように思いました。
秋津小PTAにおいて、
① 入会の意思確認はされていますか。
② 役職の強要はありませんか。
③ コミュニティスクールと関連付けられることで、PTAの負荷がより大きくなっていませんか。


◎『宣言』別添資料におけるPTA関連の提言は、どのような経緯で書かれたものなのでしょうか。議事録を追ってみても、その「出所」がはっきりしません。少なくとも、熟議を経たものとは思えません。
母親の「生活の質」を大きく左右しかねない問題についての政策提言は、慎重のうえにも慎重を期していただきたいと思います。

◎上記別添資料には、保護者の負担を軽くするために、NPOを設置したり、税金を投入するとの記述がありますが、その「NPO」はどのような人たちが担うのでしょうか?その負担の問題は? 地域の方が負担してくれるとして、(恩に着せられる等)現役の保護者への「負荷」の心配は?


◎税金を投入したり、それを援助するためのNPOを設置してまで、「PTA」を維持しようとするのはなぜなのでしょう??
そういうことを「国民が望んでいる」とでもいうのでしょうか。
町内会やPTA。これらの特殊日本的な存在をグローバルな観点から反省する時期にあるのではないでしょうか。


◎何かをしようとするNPOを国が支援しようとするのは大変結構なことだと思いますが、PTAやコミュニティスクールをめぐって国が行おうとしていることは、「国から国民への押しつけ」「国からの各地域への役務の割り当て」では?

こうして押し付けられたコミュニティスクールやNPOの役員等の補充の問題はどうなるのでしょう? スタートの時点ではうまく回るとしても。

かつてPTAが全国に設置されて、現在、その役員決めに国民は大変な思いをさせられています。
いま国が推し進めようとしている、コミュニティスクールやPTA支援のためのNPOがPTAと同じ轍を踏まない保証はどこにもないと思いますが、何か成算がおありなのでしょうか?(>円卓会議、内閣府、文科省)


***
なお、「提言」には激しく激しく同意であります。
「首謀者」の皆さま方、本当にお疲れ様でございます。
なおなお、拙ブログにて、PTAと「新しい公共」についてつぶやいておりますので、お時間のあるときにご覧いただければ幸いです。
http://ameblo.jp/maruo-jp/theme-10024991740.html
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2010-08-05 23:59:43

PTAが「新しい公共」になぜつながるのか(その3) PTAから自立する親は「裏切り者」なのか

テーマ:PTAと「新しい公共」
鈴木氏の発言を要約すると、以下のような論点が認められる。

①PTAの活性化は、「新しい公共」の実現そのものだと感じている。

②すばらしい可能性のあるPTAがなぜ不人気なのか。それは組織が自立していないからだ。(行政やP連から)やらされ感のある中の活動では、やりがいや誇りは生まれてこない。単位PTAが自主性を持つことが必要だ。

③PTAは地域によって大きく違うので、共通の活動とともに、自分たちの地域性を考えた独自の活動も必要。

④PTAは同じ悩みを抱える子育て真っ最中の親の孤独感を取り払い、安心感を得ることができるための欠かせないツールとなっている。

⑤PTAには以前から任意参加の問題がある。任意参加だとPTAへ入る人は少なく、強制しないとつぶれてしまうのではと心配する人がいる。しかし、私は恐れることはないと感じている。なぜなら、日本の親を信頼しているからだ。親を教師が、教師を親が、国民が政治家を、政治家が国民を信頼することが大切なように。

⑥困難はあっても、一緒に解決に向けて力をあわせていくこと、大変だけど、やりがいのある、同じ時間を共有することによって自立した活動が生まれてくるのだ。

⑦「新しい公共」が実現する社会を大人から子どもたちへの贈り物としたい。


鈴木氏は、「自立」、「自主性」ということを強調される(②③)。やらされ感のある活動ではやりがいや誇りは生まれないと。独自の活動が必要だと。
しかし、鈴木氏にあっては、その「自主」、「自立」の【単位】は、個人ではなく、組織なのだ。
小組織が大組織に対して、自主、自立を主張している。

しかし、言いたい。
「やらされ感のある活動ではやりがいや誇りが持てない」のは、個人も同じですよと!
個人の自主性、個人の自立に立脚してこそ、「新しい公共」を切り拓けるのではと。
(まるお注:円卓会議の委員の中にも、この方向での問題意識を持っている人はいる。佐野章二委員、寺脇研委員、平田オリザ内閣官房参与。ただ、残念ながら「宣言」には生かされていない。各委員の具体的発言については、後ほど補足する予定。)

個人の自立を軽んじ、小集団の「自立」を重視する姿勢は、「新しい」どころか、いたって「古い」発想ではないだろうか。このような集団のあり方は、いじめ学者の内藤朝雄氏が「中間集団全体主義」と呼び、いじめの大きな要因の一つとしていることをご存じだろうか。


そして、⑤。
確か、鈴木氏は、2.11の横浜でのPTAシンポでは、任意加入の周知に対してはっきりと消極的なスタンスを示しておられた。その点、2か月の間に「進歩」されたとも言えるのだが、「私は保護者を信頼しているから心配していない」というのは、聞き捨てならない。

では、PTAが任意であることを知って、PTAとは別の道を歩むことにした保護者は、「信頼を裏切った」ことになるのだろうか。

⑥でも、「一緒に力を合わせる」、「同じ時間を共有する」ということを強調されているが、学校主催の保護者会に参加する等のミニマムな活動に関しては「全員参加」を前提にしていいと思うが、それ以上の活動については、個人の判断を尊重してほしい。

デモクラシーの単位は、個人なのだから。


正直に言う。
私は、鈴木氏のように、何が必要で、何が大切なことなのか、個人の判断が尊重されるべきことなのに、そこは不問に付して、
「とにかく一緒に活動しましよう、同じ時間を共有しましょう。強制はしません。でも、信頼していますよ。」
というスタンスは、怖いと思う。


なお、前記事で、鈴木氏の発言を受けての金子座長の発言もあわせて引用しているが、

**(引用)**
信頼というのはなかなかつくれないのですけれども、物は使ってしまうとなくなりますね。信頼は使えば使うほど増えるという性質もあるので、これからも頑張ってやっていただきたいと思います。
*********
との座長発言は、円卓会議(の座長)に、日本的な組織の負の側面に対する問題意識が稀薄であることを物語っているのではないだろうか。
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2010-08-05 23:25:12

PTAが「新しい公共」になぜつながるのか(その2) 根拠となる発言の全文

テーマ:PTAと「新しい公共」
(承前)
まずは、鈴木氏の発言の全文を議事録より引用する。
金子座長の発言もついでに引用しておく(末尾)。

↓の発言に、円卓会議によるPTA関連の提言の拠り所がある。
というよりも、これ以外にはない。
よくお読みいただきたい。

**(引用)**
鈴木由香氏
 まず、このような貴重な機会をいただいたことに感謝申し上げます。私は、神奈川県立光陵高校PTA会長の鈴木由香と申します。どうぞよろしくお願いいたします。
1男2女の3人の子育ての間、15年以上にわたってPTAに関わってまいりました。光陵高校の会長を務める前は、横浜市PTA連絡協議会の会長及び日本PTAの常任理事として活動してまいりました。そうしたPTAの活動の中で、PTAの活性化は、「新しい公共」の実現そのものだと感じております。
 お手元に文部科学省の委託事業として、NPO教育支援協会が受託した、保護者を中心とした学校・家庭・地域連携及び活性化推進事業で行ったシンポジウムの資料を配付させていただいていると思います。データの詳細は後ほどゆっくりごらんいただきたいのですが、今、ごらんいただきたいところは、6ページの④PTA組織は必要だと思いますか?という問いに対しての回答です。3,285人中、65%に当たる2,139人の保護者の方が必要であると答えております。必要でないと答えた方は、わずか4%という結果です。PTAについてはいろいろと言われておりますが、これだけ多くの方がPTAの意義を感じておられます。
 ところが、その下の⑤今後、PTA委員を引き受ける予定がありますか?との問いに対して、必要性は感じるが引き受けることはできない29%、引き受けたいとは思わない22%という結果が出ています。つまり、PTAは必要な組織だと思ってはいるが、やりたくない。ここのずれは一体何なのかということです。
 「新しい公共」という考え方にも、これに似た問題があるのではないでしょうか。考え方はとてもいいのだけれども、私には関係ないのかなという感覚です。なぜ引き受けたくないのか。それは、組織が自立していないからだと感じております。使い方を決められている助成金や補助金に頼るのではなく、自分たちで課題を見つけ、解決し、自ら工夫して活動をつくり出す。それが必要だと考えます。やらされ感のある中の活動では、やりがいや誇りは生まれてきません。行政等に対しても、自分たちから提案し、それに対して補助をいただく関係がとても大切なことだと思います。
 第1回の円卓会議で福嶋さんがおっしゃっていた、行政ができないことを地域にやらせるのではなく、地域でできないことを行政がやっていくという考え方を基本に、自分たちの役割を自ら考え、実行する。御存じのように、PTAは地域によって大きく違いがあります。共通の活動とともに、自分たちの地域性を考えた独自の活動も必要なわけです。文部科学省が提案しているコミュニティスクールなどの考え方も踏まえて、行政の下請にならない、指示待ちにならない、自主的な発想で活動していくことが望まれます。
 今、PTAの活性化にはさまざまな問題があり、解決に向けて取組みを始めております。例えば私が横浜市PTA連絡協議会の会長であったとき、金融庁による保険業法の改正を受けて、PTA活動下の保険を整備し、独立した運営への道筋をつけてまいりました。だれかにやらされるのではなくて、困難があっても自分たちでやる、そういった工夫がPTAの会員の本当のやる気を育てていくものだと信じています。そして、その大きな力は、「新しい公共」の実現に通じるものと確信しています。それだけにPTAの可能性は大きいのです。各学校単位のPTAが自主性を持ち、やりがいを感じる活動ができたら、先ほどのアンケートの結果も変わってくるのではないでしょうか。
 人間関係が希薄になった今の社会で、子育て真っ最中の親は、悩みを1人で抱え、孤立している場合が多く見られます。世代間にも見られる子育てのずれや、母親同士の価値観の多様性も原因の一つでしょう。親が孤立しないためにも、PTAへの参加は、みんな同じ悩みを抱えているのだよという共通の認識によって、孤独感を取り払い、安心感を得ることができる欠かせないツールとなっています。
エネルギッシュなPTA会員は、地域において御近所さんとの関わりも強く、価値観の壁も乗り越えた信頼関係を子どもたちと一緒に楽しんでいると感じています。実は今、私は日限山という地域の連合自治会長も務めております。自治会においても、行政から委託された関連団体等の役職の改革が必要な時期に来ているのではないかと感じております。行政からの下請状態で、これもまた自主性ややりがいの薄い状況もあるようです。せっかくPTAで培った保護者の皆さんの力が、地域へと広がり、地域を活性化させることにつながっていかないのはもったいないなと思っています。
 PTAには、以前から任意参加の問題というのもあります。先ほどのアンケートの13ページの⑲に、入会時に任意であるとの説明があったかという質問に対して、説明があったと答えた方が17%、PTAの入会が自由だと知っていると答えた方が25%でした。任意参加だとPTAへ入る方は少なく、強制しないとつぶれてしまうのではと言う方もたくさんおられます。
 しかし、私は恐れることはないと感じています。なぜなら、日本の親を信頼しているからです。親が教師を信頼し、教師が親を信頼する。国民が政治家を信頼し、政治家が国民を信頼する。そういう社会をつくることが大切なことではないでしょうか。PTA活動においても信頼が基本です。
困難はあっても、一緒に解決に向けて力をあわせていくこと。大変ですけれども、やりがいがある、同じ時間を共有することによって自立した活動が生まれてくるはずです。
 最後に、「新しい公共」が実現する社会を大人から子どもたちへの贈り物にしたいです。御清聴ありがとうございました。

金子座長
 ありがとうございました。大変勇気付けられるお話で、1つだけ言いたくなりました。信頼というのはなかなかつくれないのですけれども、物は使ってしまうとなくなりますね。信頼は使えば使うほど増えるという性質もあるので、これからも頑張ってやっていただきたいと思います。ありがとうございました。
******
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2010-08-05 23:13:07

PTAが「新しい公共」になぜつながるのか(その1) 長官の発言

テーマ:PTAと「新しい公共」
「新しい公共」宣言における「別添資料」の中に次の一節がある。

***
◇PTAの活性化によるコミュニティ・スクールへの道
PTAを活性化するため、役員の過重な事務負担をサポートするNPOを設置するか既存の地域組織に委託する。行政が委託事業予算や教育一括給付金から予算を支援し、行政の監査委員会を設置してガバナンスをチェックする。PTAに誰も参加しやすくなり、結果として保護者世代の社会参画が促進され、地域社会の担い手が育成される。また、全国の公立学校をコミュニティ・スクールへと発展させていく。(「(別添)「新しい公共」の具体的なイメージ」)
***

PTAが「新しい公共」と結びつけられている。

ところが、「新しい公共」円卓会議の議事録を丹念に追ってみても、PTAについての本格的な議論は見当たらない。
強いてあげれば、松井孝治官房副長官(当時)が紹介している奥方の話がある(第1回会議議事録p.19)。

**(引用)**
(松井官房副長官)
 3つ目は、自分の地元で、居場所と出番ということがありますが、うちの女房は専業主婦でありました。勿論、居場所はあります。趣味もあります。友達もあります。子どもができて、子どもをさっきのかまど金の小学校、今は御所南という小学校に預けて、そこでいわゆるPTA、今はコミュニティ・スクールなのでコミュニティですね、学校運営協議会の委員をやらせていただきました。
 今まで学校を見ていた女房の目が変わりました。要するに学校の悪口を言うのではなくて、自分たちが参加したときにどうなるのか、何を自分たちは貢献していけるのかという姿を見ることができました。女房は、そこで出番を見出したと思います。
 その実体験があって、私は教育のサービスの現場であっても、あるいは私たちも今もそうですが、霞が関とか永田町で政策をつくる現場であっても、やはりいろんな人が当事者意識を持って、社会の知恵を集めて、みんなが汗をかいてやるということが非常にすばらしいなというふうに実感しています。
 (中略)やはり大事なことは、多くの人が当事者意識を持って、自分たちが勝手に被害者であるとか、一方的な受益者ということではなくて、そこに当事者意識を持って参画していくということを、どうやってこの世の中で形成していくかということだと思います。
******

↑の松井氏の発言は、なぜPTA・コミュニティスクール的なものが「新しい公共」にとって必要かについて円卓会議が語ったことの、ほぼすべてであると言っていい・・。

学校運営協議会委員をやったら奥方の学校に対するスタンスが別ものになったとのことであるが、その変化が一般的・普遍的ななものであるならば、それこそ五万どころか何十万、いや何百万といるPTA役員にも劇的な変化が見られていいはずだが・・。また、長官の奥方のようにいい意味で別人になった人もいるかもしれないが、心身を痛みつけられて別人になった人はいないと言うのだろうか?
そのあたりのPTA的なものの抱える問題(負の側面)についての考察は、松井氏の議論には全く現れない。

PTAの負の側面もにらみつつ、それでもやはりPTAは必要であり、「新しい公共」の実現に欠かせないという議論を展開するのが、神奈川の県立高校のPTA会長を務める鈴木氏だ(氏は市P連会長、日P常任理事を歴任されている)。

氏は円卓会議の委員ではないが、内閣府講堂で4月25日に行われた「新しい公共」フォーラム(鳩山総理も松井長官も出席)で提言されている。
以下の記事で、氏の議論の論点を検討してみたい。
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2010-08-01 22:46:02

呼びかけ人代表による納得の「提言」が出されました!

テーマ:PTAと「新しい公共」
前記事で、その「趣旨」に疑問を呈したところですが、<フォーラム PTAは「新しい公共」を切り拓けるか>の「呼びかけ人代表」より、本日

提言:「新しい公共」の中でのPTAのあり方。そして、学校運営協議会との関係について

が出されました。

当初出された「趣旨」には疑問の渦巻いた私ですが、今回出された「提言」の内容には、隅から隅まで納得させられています。
未読の方は、ぜひご一読を。

呼びかけ人代表のひとりである、カワバタさんがご自身のブログでも触れています。

**引用**
かなり、画期的な内容だと思うし、また、人に響けばいいと思います。
*******
<8月7日「フォーラム・PTAは新しい公共を切り拓けるか」の提言が練り上がりました>
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2010-07-26 22:43:46

<フォーラム PTAは「新しい公共」を切り拓けるか>にコメントしました

テーマ:PTAと「新しい公共」

フォーラム PTAは「新しい公共」を切り拓けるか
大人の元気が子どもの元気!

のサイトの中のコメント欄にコメントしました。

お時間のある方はご覧になりに行っていただければと思います。
そこで書いた論点を後日、このブログでより詳しく展開するかもしれませんが、他の方のコメントも参考になると思いますので、紹介させていただきます。

自分としては、いままでもやもやとしていたものにかなりことばを与えられたように思っています。
まだ、入口ですが。

こちら です。
※上から三番目のコメントです。

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2010-07-22 20:08:49

「PTAの活性化によるコミュニティ・スクールへの道」に対する疑問

テーマ:PTAと「新しい公共」
いつもにも増して荒削りな話になると思いますが、勝手ながら、思いを吐き出しつつ、自ら考え、ご意見をいただき考えし、この問題につきまとめていければと思っています。

PTAは「新しい公共」を切り拓けるか
大人の元気が子どもの元気!


というフォーラムが、近く(8/7)開かれます。

趣旨は以下のようです。
*****
かねてより、PTAは学校・家庭・地域の接点として、学校教育、地域の活性化に大きな役割を期待されてきました。
今回、政府より「新しい公共」が宣言され、「PTAの活性化によるコミュニティ・スクール(「学校運営協議会」制度)への道」が提唱されました。保護者や生徒だけではなく、地域住民が参画し、学校運営から教職員の人事にまで意見を述べることが可能なコミュニティ・スクールを日本各地で導入、発展させていくために、PTAはさらに大きな役割を担うことが期待されています。一方、PTA活動に参加しにくい保護者、役員の選出など組織維持に苦労するPTAも少なくありません。そんな中、PTAが「新しい公共」をみずから体現し、地域とともに子どもの育ちと学びによりそう豊かなコミュニティを培うためには何が必要でしょうか。PTAが秘めた大きな可能性を引き出すための方策は?教職員にとっての望ましいPTAのあり方は?
「新しい公共」の地平を切り拓くPTA像を議論します。
*****

なお、↑の文書で、「今回、政府より提唱された」とされているのは、第8 回「新しい公共」円卓会議資料として6月4日に出された、

「『新しい公共』宣言」

の中での提言のことです。

その提言とは ―
***
◇PTAの活性化によるコミュニティ・スクールへの道
PTAを活性化するため、役員の過重な事務負担をサポートするNPOを設置するか既存の地域組織に委託する。行政が委託事業予算や教育一括給付金から予算を支援し、行政の監査委員会を設置してガバナンスをチェックする。PTAに誰も参加しやすくなり、結果として保護者世代の社会参画が促進され、地域社会の担い手が育成される。また、全国の公立学校をコミュニティ・スクールへと発展させていく。
***
(ただし、上記文言は、「宣言」本文ではなく、「(別添)「新しい公共」の具体的なイメージ」の中にある。)


直観的なもの言いを許していただくなら、もういろんな点で、「???」なのですよ。

カワバタさんもパネリストになっていて(というか今回のフォーラムの中核メンバーです)、PTA問題そのものや、またPTAを「新しい公共」なるものに結びつけることへの懸念についても縷々語ってくれるはずです。
(参照:<「新しい公共+地域社会+PTA」の三題噺でシンポジウムを開く件>)

当方も、ある場所で「疑問が渦巻いている」と息巻いておりましたら^^;、フォーラムでの「指定発言者」に指名されました。
言いたいことを整理整頓し、しっかりと発言してきたいと思っています。


<PTAの活性化?>
それにしても、「PTAの活性化によるコミュニティ・スクール(「学校運営協議会」制度)への道」って、なんなのでしょう?
(コミュニティースクール自体もいろいろ問題があると思っていますが、その点は次回以降に譲るとしまして)コミュニティースクールを下支えする役割なんて背負わされたら、PTAの任意性はますます無視される方向に進むように思えてならないのです。

確かに、『宣言』では、PTAの過重な負担を軽減するためにNPOをこしらえて支援するとか、 予算を付けるとか言われています。
それが先方の解答なのかもしれませんが、なんかぜんぜん的を外しているように思うのですよね。

「なんでそこまでして、PTAの存続にこだわるの?」
です。
私の頭が悪いのか、どうにものみ込めないのですよ。

事務負担を軽減し、予算も支援する。
ぱっと見、ありがたい話のようにも見えます。
しかし、そもそも、政府は、PTAにいったい何を期待しているのでしょうか?

「お金が足りないので寄付してほしい。」
「人手が足りないので手伝ってほしい。」
という要請のほうが、よっぽど分かりやすいです。

事務負担の軽減も、予算の支援もいらないから、まずは、一人ひとりの保護者を自由にしてくれと言いたいです。
そうすることで、もしも、回らなくなる学校が出てくるとしたら、ちゃんと学校が回るように手当てすべきです。それは、政府の仕事です。


<「新しい公共」?>
「新しい公共」とのことですけれど、いったいどこがどう「新しく」なるのか?
こと住民参加の部分で言えば、「新しい」どころか、「古き良き時代」への回帰のような気がしてならないのですよね。
で、その「古き良き時代」って、とんとんとんからりの隣組や五人組の時代と背中合わせじゃありません?

そもそもの話、いま提唱されている「新体制」においては、PTAに入会しない保護者は、「新しい公共」からはじき出されることになりませんか?

新しい公共>コミュニティースクール>PTA>保護者個人

という「タテ」のラインの中で、PTAに入会しない保護者個人の居場所はあるのでしょうか?


今回の提言は、労力とお金の工面をしてでも、国民がこのタテのラインの外に出ていくことを食い止めようとするものなのでは、と私は疑っています。

政府(公)があり、国民(私)がいる。
公と私がいがみ合うのではなく、協力してこの国を盛り立てていく。
このことに何の異存もありません。
しかし、公と私の間に、公でもなければ私でもない、訳のわからない「中間集団」をつくり、その中に「私」を根こそぎ収めようとする・・。
こんなのは、民主主義じゃありませんぜ。どう考えても。
いじめ学者の内藤朝雄氏の言う「中間集団全体主義」です。


官僚組織じゃないのですから、基本的には保護者個人は学校当局とひとりひとり向き合えばいいと思うのですよね。
なぜそれを予算を付け、そのためのNPOを設立してまで束ねたがるのか?

なんか、今回の話は、わたしがPTAの背後に感じていた、日本の全体主義的な体質が面と向かって迫ってくるような感じさえしているのです。
大げさなと言われるかもしれませんが。

ついさきほど、『宣言』だけではと思い、「新しい公共」円卓会議の議事録を見てきました。
そうしたら、円卓会議では、

地域活動については、義務化しなければ誰も参加しようとしないから、義務化すべきだ

などという恐ろしい提言が出され、さらに恐ろしいことに、各委員からは何の異論も出ていないのですよね。(第6回円卓会議での横石知二委員の発言参照のこと。)

具体的には、こんなことを言っているのです。

**引用**
では、これを解決するのにどうしたらいいかというのが、この下側にあるように、自治会活動を活性化させることと、地域コミュニティの組織を見直しすることと、地域コミュニティの連携をすることなんです。
(中略)
具体的な方策としては、ここに書いてあるように、指針をつくる、義務化をさせたらいいと思います。この上の中に、何か参加すること。そうしなければ地域で生きていけないんだということを義務づけるぐらいやらなかったら、なかなか参加しないという人が圧倒的に多いですから。
*******

私の予感(悪寒)は決してオーバーなものではなかったようです。

このシリーズ(=「テーマ」)では、「新しい公共」、「コミュニティースクール」、それらとPTAとのかかわりについて、つぶやいて行きたいと思います。

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