2014-11-06 22:16:20

日本世間学会 第32回研究大会で発表します

テーマ:エビデンスとしての日本語
明後日の土曜日に開催される、日本世間学会の第32回研究大会で、

「日本語から探る『私』の姿」

という題目で発表します。

学会に提出した、発表の概要は、以下の通りです。

**********
「~することになりました」、「~と思われます」、「~と考えられます」等の「自発」表現が存在し好まれる。スル表現「お~する」が自己の行為を卑下する謙譲語として用いられ、ナル表現「お~になる」が相手の行為を尊ぶ尊敬語として用いられる。このような日本語に特徴的な事実は、日本の社会においては「主体性」や「自己決定」がネガティブなものとしてあることを示す。

その一方で、日本語では、敬語、人称詞、授受表現、受身表現、「~てくる」等、「私」との関わりを表わす表現が、文の成立において非常に大きな位置を占めている。このことは、日本語の「自己中心性」を示すものとして注目される。

日本語において認められる、「主体性の弱さ」と「自己中心性の強さ」という、この一見、矛盾した性質の背景には、どのような日本人の「私」の姿が認められるのか。
本発表では、丸山真男、木村敏、森有正、西田幾多郎、河合隼雄、プラトン等における「私」のあり方をめぐる所説に学びつつ、考えてみたい。
**********

このようなテーマで考えてみようと思ったきっかけは、一昨年の秋開催の第28回日本世間学会の研究発表大会(加藤薫(2012)「世間と日本語に通底するもの -主体性と第三者的視点の欠如-」)にて、日本語に見て取れる「非主体的側面」と「自己中心性」に言及したところ、「言っていることが矛盾していないか? いったい、日本人には『私』があると言っているのか? ないと言っているのか?」という批判を受けたことです。
この批判にこたえつつ、日本における「私」のあり方について理解を深められればと思います。
このことは、PTA問題の解決にも資するものと考えています。


前エントリで宿題とした、「世間」のあり方とPTA問題との関連性については、「継続審議」としたいと思います…。


なお、一昨年の発表内容と質疑応答の様子は、過去のブログ記事で取り上げています。

・日本世間学会 第28回研究大会で発表して(1) 発表篇
2012-11-18


・日本世間学会 第28回研究大会で発表して(2) 質疑応答篇
2012-12-04


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2014-08-11 01:06:22

「世間論と日本語 ―世間論に符合する日本語の文法的特徴―」『世間の学』VOL.3

テーマ:エビデンスとしての日本語
「世間論と日本語 ―世間論に符合する日本語の文法的特徴―」が日本世間学会の学会誌『世間の学』VOL.3に掲載されました。

書影と論文集全体の目次(収録論文のタイトル)は、こちらです。

ちなみに、PTAについての拙論文(「日本型PTAに認められる問題点-ないがしろにされる『主体性』」)が掲載されている『世間の学』VOL.2については、こちら

以前、拙ブログ記事で『世間の学』VOL.2に掲載されたPTA論文の紹介をしましたが、まとめとして、
********************
PTA問題とは、けっして例外的かつ表層的な底の浅い問題ではなく、我々の「存在のあり方」と深く関わる問題だと思うのです。
*********************
と述べました。
http://ameblo.jp/maruo-jp/entry-11194438034.html

今回の論文では、その我々の「存在のあり方」について、日本語の文法的特徴から迫ったつもりです。


目次は以下の通りです。

*****
はじめに

1.「長幼の序」…敬語・人称詞のあり方
1.1 敬語体系の存在と中立的文体の欠如
1.2 「敬語行動」をめぐる日米比較 - 浮かび上がる「長幼の序」
1.3 「敬語行動」をめぐる日韓比較 - 浮かび上がる「相手」と「集団」の重さ

2.「贈与・互酬の関係」…授受に関わる表現

3.「共通の時間意識」…「よろしくお願いします」他・終助詞
3.1 「共通の時間意識」とは
3.2 「絆」の存在を示すその他の表現
3.3 終助詞「ね」の必須性

4.「自己決定の不在」…「自発表現」
4.1 「自発表現」- 「場所」としての「私」
4.2 「~ことになる」- 「主体性」を秘す「私」
4.3 尊敬語と謙譲語の成り立ち - 「自然発生」を尊び、「行為」を卑しむ心根

5.「空気の支配・所与性」…「S」が析出されない構文的傾向
5.1 「空気の支配」と「世間の所与性」とは
5.2 日本語における自動詞構文への好み - 非分析的傾向

6.「差別性・排他性」…自己中心性と二人称志向性
6.1 「自己中心性」と「差別性・排他性」- 差別性の背景
6.2 「二人称」への過剰な配慮と「三人称」への冷淡な扱い

まとめに代えて - 日本語の整理を通して見えてくるもの
*****


日本語論の観点から世間論の主張を裏付けていくという論の進め方になっていますが、私的には、世間論に導かれつつ、長年日本語について抱いてきた“もやもや”をかなりの程度整理できました。
整理や考察が足りないところも多々あることは自覚していますが、自らの問題意識をとにもかくにも“一か所にまとめられた”ように思います。今後は、ここを起点に前に進んでいければと思っています。

なお、この論文は、2012年の11月に開催された日本世間学会 第28回研究大会で、「世間学における指摘と日本語のありかた ~主体性と第三者的視点の欠如をめぐって~」と題して発表したものを、自分なりに発展させたものです。
発表時に配布したハンドアウトは、以下の拙エントリに貼ってあります。
・日本世間学会 第28回研究大会で発表して(1) 発表篇

そのエントリにいただいたコメント(「世間論の論点をもっと分かりやすく示すべきでは」)等も参考にさせていただき、日本語の考察もより進めたつもりです。

次のエントリでは、「世間」のあり方とPTA問題との関連性について述べてみたいと思います。

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2014-05-23 22:02:27

小平の風に投稿しました。

テーマ:エビデンスとしての日本語
日本語に関する記事を二本、勤め先の学科のブログ「小平の風」に投稿しましたので、遅ればせながら、紹介させていただきます。

一本は、「いまどきの日本語  ― 「ら抜き」と「さ入れ」 ―」で、何かと批判されることの多い「いまどきの日本語」を、日本語の歴史を振り返ることで「擁護」してみました。
※その論旨は、金田一春彦氏などがすでに述べていることで、私のオリジナルではありません。

もう一本は、「『敬語行動』をめぐる日韓比較 …浮かび上がる『相手(二人称)』と『集団』の重さ」です。
この記事は、近刊予定の『世間の学 VOL.3』(日本世間学会編)に掲載される、拙論文「世間論と日本語 ―世間論に符合する日本語の文法的特徴―」の一部を利用してまとめました。
論文が刊行されましたら、またこのブログで紹介したいと思っています。


<「小平の風」の過去記事>
・神戸・京都・奈良研修 ~伝統文化と欧米の文化~

・This is a pen. を日本語にできるか?

・「好きです」に面くらったフランス人の日本文化論 ―主体=「創造主」不在の文化―

・日本語とPTA ―「主体性と公共性」の希薄さをめぐって―

・日本世間学会

・「ネット」の力 ― 仙台市教育課題研究発表会に参加して

・世間学と日本語

・二つの『私』 ― 日本人に『私』はあるのか? ないのか?


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2013-02-27 11:27:57

「小平の風」に「二つの『私』 ― 日本人に『私』はあるのか? ないのか?」と題して書きました

テーマ:エビデンスとしての日本語
2012-12-13 21:57:47

小平手話サークル2012年度講演会(小平市福祉会館) 

テーマ:エビデンスとしての日本語
昨年度に続いて小平手話サークルからのご依頼があり、世間学会のあった翌週の火曜日(11月13日)の19:00から、

第二言語としての日本語を考える
~「私」との関わりが表現される言語 ~


と題して日本語についてお話ししました。
(昨年度の様子は、こちら)


主催者の方から「第二言語としての日本語」というお題が示され、「日本語のどんなところに注意しながら外国人学習者への日本語教育に携わっているのか話してほしい。手話通訳の勉強をしている人や、健常者に日本手話を教えている人の参考になると思う。」といったお話でした。

話の中心は、日本語における「自己中心的な視点」です。
以下に、講演会当日に配布したハンドアウトを貼っておきます。なお、ハンドアウトにもともと記されていた説明は黒字、当日話した内容等は青字で示します。


********************
0.はじめに
0.1 第一言語(母語)と第二言語

第一言語は自然に身につけられるが、第二言語を習得するには意識的に学習することが必要。

・『みんなの日本語』と『新文化初級日本語』
・学習を始めた場所の違い(日本か母国か)

① 日本語教育(初級)の現場では、現在、『みんなの日本語』(スリーエーネットワーク)が圧倒的なシェアを誇っているが、それは「文法(文型)」がしっかりと教授・学習できる点が評価されているからだと思っている。(なお、中級においては文化外国語専門学校の『文化中級日本語』が多くの日本語教育機関で使われている。)

② 日本語教育に長年携わってきた経験からすると、ゼロレベルから日本で日本語の勉強をしてきた学生と較べて、中級までは母国で学習してきた学生は(来日当初は聞き取りと発話にたどたどしさがあるものの)上級レベルにおいて伸びる傾向があるように思う。

上記二つの点から、第二言語の学習には文法・文型についての意識的な学習が重要であることがうかがわれる。



0.2 「第二言語としての日本語」との相性
ひと口に「第二言語としての日本語」と言っても、学習者の母語によって習得の難しさは違ってくる。
学習者の母語のタイプが日本語に近ければ習得の困難度は低くなり、日本語から遠ければ習得の困難度は高くなる。

・韓国語母語話者と中国語母語話者における日本語習得の困難度の違い
困難度:( 中国語 )>( 韓国語 )
韓国語は日本語と文法がもっとも近い言語と言われている。韓国語を母語とする学習者が中国語や欧米系の言語を母語とする学習者に較べて、ずっと楽に日本語を身につけることは日本語教育に携わる多くの者が感じることだと思う。

では、習得の困難度に関係する「日本語の特徴」はどのようなものか?


1.日本語の特徴 -自己中心的視点

1.1 「自己中心的な視点」と「第三者的な視点」

「自己中心的な視点」:自分に密着したところから世界を見る。
・自分自身は視野に入らない。「自己」は特別な扱いを受ける。
・「『私』との関わり」が表現される。

「第三者的視点」:自分から離れた第三者的な位置から世界を見る。
・自分自身も「登場人物」の一人として扱われる。
・発端と結末(主体から客体へという客観的な流れ)が表現される。

日本語は、「自己中心的な視点」を強く持つ言語。

「自己中心的な視点」における「自分自身は視野に入らない。「自己」は特別な扱いを受ける。」という側面に関しては以下の2.1~2.3において触れる。いっぽう、「「『私』との関わり」が表現される。」という側面については2.4~2.7で触れる。


2.「自己中心的な視点」に由来する表現とは
2.1 「今、私はどこにいますか?」


(1)「今、あなた、どこにいるの?」
(2)「今、あの人、どこにいるの?」
(3)??「今、私、どこにいるの?」⇒ここは、どこ?

(4) Where are you?
(5) Where is he?
(6) Where am I?

英語では「自己」は二人称、三人称と同じように扱われている。つまり、英語話者は「自己」を突き放して「他者」と同じように扱っている。(第三者的視点)
一方、日本語では「自己」は二人称、三人称とは違う特別な扱いを受けている。
(自己中心的視点)

中国語は両様の言い方が可能なようだ。


2.2 「私は星を見ます。」/「私は虫の鳴き声を聞きます。」

(1)「星が見えるね。」
(2)「虫の鳴き声が聞こえるね。」

(3) I see stars.
(4) I hear a humming of insects.

日本語では、通常、「私」は表現者の視野に入らず表現されない。

中国語も日本語と同様の「私」抜きの言い方が普通とのこと。


2.3 「鈴木さんはうれしいです。」

(1)「(わたしは)うれしいです。」
(2)??「あなたはうれしいです。」
(3)??「鈴木さんはうれしいです。」

(4) I am happy.
(5) You are happy.
(6) He is happy.

英語では各人称が同列に扱われているが、日本語ではそうなっていない。

韓国語には日本語と同様の制限が見られる。なお、2.1と2.2においても韓国語は日本語と同様の振る舞いをする。


2.4 「鈴木さんが私に素敵なプレゼントをあげました。」

(「与え手」が主語)
(1)鈴木さんが佐藤さんにプレゼントをあげた。(「私」の立場:第三者)
(2) 私が鈴木さんにプレゼントをあげた。(「私」の立場:与え手)
(3)鈴木さんがわたしにプレゼントをくれた。(「私」の立場:受け手)

(「与え手」が主語)
(4) Mr.Suzuki gave a present to Mr.Sato.
(5)I gave a present to Mr.Suzuki.
(6) Mr.Suzuki gave a present to me.
(中国語は「給(ゲイ)」、韓国語は「주다(チュダ)」)

第三者的な視点から「与え行為」を眺めた場合、「自分」の立場が与え手であれ受け手であれ、(突き放されて他者と同様に見られているので)そこには「人物Aから人物Bに対してなされる行為」という共通性が認められる。
一方、自己中心的な視点から「与え行為」を見た場合、「自分」が与え手であるか受け手であるかで「別もの」となる。

一方、「あげる」と「もらう」の使い分けは、与え手が主語になる(「あげる」)のか受け手が主語になる(「もらう」)のかの違いに対応しており、他言語にも幅広く認められる。

**********
・「あげる」と「もらう」を区別する基準 
主語(動作の主体)が与え手なのか受け手なのかが問題で、「私」との関わりは問題にならない。
⇒第三者的な視点からの使い分け

・「あげる」と「くれる」を区別する基準 
「私」が与え手なのか受け手なのかが問題で、「私」との関わりが問題になっている。
⇒自己中心的な視点からの使い分け
**********
※日本語は「私」中心の言語。つまり、「私」の視点から事態を捉え、描写する性格が強い。



2.5 「友だちのAさんが私の引越しを手伝いました。」

(1)「AさんがBさんの引越しを手伝ったそうです。」
(2)??「Aさんが(私の)引越しを手伝いました。」
Aさんが引越しを手伝ってくれました。

「自分」への影響(受益感情)が表現されないと自然な「文」にならない。

「~てあげる」「~てくれる」「~てもらう」といった恩恵性を表す表現は、そもそも欧米の言語や中国語には見当たらない。山田敏弘 (2004)によると、日本語以外に授受の補助動詞を用いて恩恵性を表わすのは、韓国語、ヒンディ語、モンゴル語、カザフ語などかなり限定された言語に限られる(p.341~355)。

他言語における類似の表現との違いについては、世間学会発表のハンドアウトの注3参照。



2.6 「今朝5時に父が私を起こして、私に身支度しろと言った。」

(1)「今朝5時に父に起こされ、身支度しろと言われた。」(映画『アンネの日記』)

(2) This morning ,father woke me up at 5 O’clock and told me to hurry.(映画『Anne』)
(韓国語、マラーティ語も英語と同様に能動態。)

日本語では、受動態にすることで『「自分」への影響』が表現される。
一方、「英語や韓国語は、主体から客体へという客観的な流れを重んじ、事態の行為者の視点から事態を捉え、能動文で描写する傾向が強い。」(堀江他(2009)p.198)

堀江他(2009)では、日本語原文のものとして『窓ぎわのトットちゃん』と『こころ』、英語原文のものとして映画The Diary of Anne Frankとその各国語訳を使って、日本語、韓国語、英語、中国語、マラーティー語において受動文がどのくらい使われるかが調査されている。それによると、日本語が受動文を多用する傾向が明らかに認められる。

『トットちゃん』とその訳における受動構文の分布は以下のとおりとされる。
日本語:80
韓国語:47
英語:37
中国語:31
マラーティー語:7


『こころ』とその訳における受動構文の分布も、同様の結果となっている。
日本語:339
韓国語:164
英語:102
マラーティー語:42

では、なぜ日本語には受動文が多いのか。ここにおいても、「自己中心的な視点」が関与していると考えられる。
英語、中国語、そして韓国語においては、動作の主体を中心にして(つまり主語にして)文を組み立てる傾向は、たとえ自分(あるいは自分が共感する存在)が動作の受け手である場合も維持される。それに対して、日本語では、自分(あるいは自分が共感する存在)が動作の受け手となる場合、自分を主語にして(つまり、受け手である自分の視点から事態を眺めて)、受動文が用いられる強い傾向がある。



2.7 「国の母が僕にリンゴを送った。」

自己中心的な性質を示すものとして、「行為の自己への接近」を示す「~てくる」について見ておく。

(1)「鈴木君が佐藤君を訪ねたそうだ。」
(2)??「鈴木君が僕を訪ねた。」⇒鈴木君が訪ねてきた。
(3)「母がアメリカに留学している弟にリンゴを送ったそうだ。」
(4)??「母が私にリンゴを送った。」⇒母がリンゴを送ってきた。

日本語では、(行為の)「自己」への接近には特別な表現が使われる。

では、他言語では、どうなるだろう?

(5)健が僕に手紙を書いてきた。
(6)健が僕にボールを投げてきた。
(7)健が僕に電話をしてきた。
(8)健が僕に招待状を送ってきた。

堀江他(2009)では、(5)~(8)の表現が他言語ではどのように表現されるのかについて、母語話者に対するアンケート調査により調べた。
対象言語は、

ベトナム語、タイ語、クメール語 ←東南アジアの言語
中国語、モンゴル語
韓国語、英語
ヒンディー語、マラーティー語、ネパール語、ベンガル語 ←南アジアの言語

である。


その結果、日本語と同様に「~てくる」に相当する表現を義務的に使用する言語は、第一列目にあげたベトナム語などの東南アジアの言語であった。一方、「~てくる」に相当する表現を用いないのは三列目の韓国語、英語と四列目の南アジアの諸言語であった。
二列目の中国語は、(8)に関しては「~てくる」に相当する表現が用いられるとのことだが、それ以外のものについては使っても使わなくてもどちらでもよいとの結果が出た。モンゴル語は、(8)のみ「~てくる」に相当する表現を使ってもよく、(5)(6)(7)は使わないとの結果が出ている。


※受身においても東南アジアの言語は、日本語に近いふるまいをしている点が興味深い。特に、ベトナム語は、特殊日本的な受身として話題になってきた用法がすべて揃っている。

(2.6と2.7は、堀江他(2009)の一部を要約したもの。)


3.まとめ
日本語に最も近いと言われる韓国語との間にも興味深い違いがみられた。
東南アジアの言語との間に見られる同質性は注目されるが、それらの言語には「あげる」・「くれる」の使い分けはないし、日本語のような敬語も認められない。
このように見てくると、日本語は、その自己中心的発想において際立った特徴のある言語と言える(一方、英語は第三者的発想において際立った特徴を持つ)。
日本語を第二言語として習得するには、この日本語の構造上のポイントを押さえた学習・教授が必要となる。


参考文献
安西徹雄(2000)『英語の発想』ちくま学芸文庫(元、講談社現代新書(1983))
池上嘉彦(2006)『英語の感覚・日本語の感覚』NHKブックス
池上嘉彦(2007)『日本語と日本語論』ちくま学芸文庫
金谷武洋(2004)『英語にも主語はなかった 日本語文法から言語千年史へ』講談社選書メチエ
堀江薫,ブラシャント・パルデシ(2009)『言語のタイポロジー ― 認知類型論のアプローチ ―』研究社
森田良行(1998)『日本人の発想、日本語の表現』中公新書
森田良行(2002)『日本語文法の発想』ひつじ書房
山田敏弘 (2004)『日本語のベネファクティブ ―「てやる」「てくれる」「てもらう」の文法―』明治書院
加藤薫(2012)「日本語の構文的特徴から見えてくるもの ―「主体・客体」と「自分・相手」―」『文化学園大学紀要 人文・社会科学研究』20号

*************************


なおなお、ハンドアウトは、講演の約一週間前に主催者に提出したもので、世間学会で受けた問題提起は反映されていません。
「自己」という用語の検討、ふたつの「私」の問題は近々とりあげたいと思っています。
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2012-12-04 22:00:39

日本世間学会 第28回研究大会で発表して(2) 質疑応答篇

テーマ:エビデンスとしての日本語
質疑応答の様子を記録した資料が手に入ると思っていたのですが、私の勘違いでした。記録するのは発表部分のみで、質疑応答部分は記録に残さないことにしているとのこと。これは、日本社会の「実態」をめぐっての率直な意見交換をやりやすくするための処置のようです。
というわけで、以下のやりとりは、私の記憶に頼ってのものになります。
(当日参加された方、何かお気づきの点などありましたらご一報いただければ幸いです。)


発表後、次のような質問や意見をいただきました。

① <司会のS氏から>
英語に関してだが、時代をさかのぼった場合、どういうことが言えるだろうか。
世間学ではヨーロッパにおいては12世紀ころに「世間」から「社会」への変化が見られたという見方をするが、それとの関連で何か言えることがあるか。

<まるおの返答>
古い時代の英語については不案内であるが、『日本語に主語はいらない』で知られる金谷 武洋氏の『英語にも主語はなかった』によると、世間学の主張との興味深い平行性が英語史にあるようである。
というのは、同書によると、英語において主語が明示されるようになったのは12世紀からで、それまでは主語が示されないことが多々あったというのである。もっとも、そこから、金谷氏は日本語との同質性(非スル的性質)を主張されるがその点には共感できない。発表者としては、12世紀以前においても、現在のスペイン語のように、動詞の語形変化により主語が表わされていた点を重く見たい。
とは言え、英語史において、主語・主体をめぐっての大きな変化が12世紀に起きていることは興味深い。


②<Y氏から>
質問ではなく、コメントをしたい。
(2.4.1の例文(3),(4)で)自発が取り上げられているが、確かに、「~と考えられる」のような自発表現は論文を書くときなどに、それを使うことでごまかすというか、責任逃れを行うということがあると思う。
しかし、自発が常にそのような使われ方をするかと言えばそうではなく、抑えても抑えきれない、湧き出てくる「強い思い」の表現として使われることもあるだろう。「私」が思っているのではなく、「もうひとりの『私』」の思いを表しているというか。
(関連して、万葉集の山上憶良の「瓜食めば子ども思ほゆ。栗食めばましてしのばゆ」にも言及)

2.4.2の(7)例についても、(消極的な表現という側面だけではなく)その結婚を運命として、変えようがないものとして受け止める心情、大きな力、大きな背景を感じているという側面もあると思う。

<まるおの返答>
返答を考えていたら次の質問が出されたのでなし。

(現時点でのコメント)
自発表現が「強い思い」を表す場合があるというのは重要な指摘だと思う。いっぽうで、その「強さ」、「大きな力」は、「私」が場所格(「に」格)で表されることから分かるように、能動性、主体性とは別次元のものであることも再確認しておきたい。


② <O氏から>
言っていることに矛盾が感じられる。
2.4では、「自己決定の不在」とか、「『主体性』を秘す私」とか言っているが、いっぽうで、2.6で、「自己中心性」ということが言われている。いったい、「自己」はあるのか、ないのか。
(そもそも、「自己決定の不在」と言うが)自らの経験に照らしても、人と話をする場合、「この人は自分よりも格上なのか格下なのか同等なのか?」といった、その人との上下関係を常に意識し、そうすることで表現を調節している。
(これは、ある意味、自己決定を行っていると言えるのではないか。)
※( )内は、まるおの理解による補足。

<まるおの返答>
自分としては矛盾したことを言っているつもりはない。しかし、「自己中心的性質」という時の「自己」は(欧米式の理解がどうしても入り込んでくるので)、「私」や「自分」と言い換えた方がいいかもしれない。
「私」には二種類あって、(この点については本発表では十分に触れられなかったが)それは、自己密着的な「私」と自己超越的な「私」。
日本語においては、自己超越的な「私」の存在感は薄く、自己密着的な「私」の存在感は強いのだと考えている。
そのように二種類の「私」を考えれば、2.4と2.6は矛盾していることにはならないと考える。2.4でとらえた性質と、2.6でとらえようとした性質が日本語に「同居」していることは間違いのないことだと思っている。
とは言え、この部分が、いまだ未整理・未熟であることは確かだと思う。「自己」等々のタームをきちんととらえなおして整理していきたいと思っている。

なお、インド哲学で言われる『自我』(即自的)と『自己』(対自的)との区別が参考になるのではとの助言がS氏からあった。

(現時点でのコメント)
拙論に限らず、日本語論、日本人論一般において、「自己」とか「私」という言葉をめぐり「混乱」があることは前から気になってはいた。この点をはっきり指摘していただけ、大変勉強になった。

「私」のあり方については大きく二つに分けて考えるべきではと考えている。この問題については、できるだけ近いうちにエントリを立て、整理してみたいと思っている。
あらかじめ、結論的なことを言えば、「私」にはデカルトの言う「私」と、西田幾多郎の言う「私」があるという見通しを持っている。つまり、「主体(主語)としての『私』」と「場所(述語)としての『私』」である。
日本語において存在感が希薄なのは「主体(主語)としての『私』」であり、その存在感が濃厚なのは「場所(述語)としての『私』」のことだと言えるのではないか。
(ちなみに、2.4で取り上げたのが前者の「私」であり、2.6で取り上げたのが後者の「私」である。)


④ <K氏から>
日本語をさかのぼった場合、どのようなことが言えるか?

<まるおの返答>
今回取り上げた現代日本語に認められる性質は、基本的には古代語にも認められるであろう性質だと考えている。しかし、細かい考察は今後の課題である。

今回取り上げた項目で現代語とは明らかに違っているものについて述べておくと ― 、
「あげる」と「くれる」の使い分けについては古代語にはなく、「くれる」が現代語の「あげる」の意味も表わしていた(方言で同様の使われ方がある)ということがある。


なお、休憩時間に、代表幹事のT氏から、語順の同じ蒙古語と比較してみると面白いのではないかとの助言をいただいた。

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2012-11-18 20:08:10

日本世間学会 第28回研究大会で発表して(1) 発表篇

テーマ:エビデンスとしての日本語
前エントリで触れたように、11月10日(土)に開催された日本世間学会 第28回研究大会で、

世間学における指摘と日本語のありかた
~主体性と第三者的視点の欠如をめぐって~


と題して発表しました。

その時のハンドアウトを以下に貼ります(字句の微調整を行ったところがあります)。
なお、ハンドアウト中の日本語に関する指摘は、拙ブログにてこれまで述べてきたことと大きく重なるものであることをあらかじめお断りしておきます。

う~ん。もう少し考えを進めるというか、深めたかったのですが、なかなか思うようにはいきませんでした。しかし、拙発表に対して非常に刺激的な突っ込みと言うか助言をもらえました。その突っ込みをめぐり考えていくことで、これから考察を進めていければと思っております。
(世間学における主張と日本語のありかたとの符合性を確認するという第一の目的はほぼ達することがてきたと思っています。)

次エントリでは、質疑応答の紹介をする予定です(現在、当日の録画・録音資料を取り寄せ中。それを確認してからアップの予定です)。


***************************
1.はじめに
日本語のあり方には、世間学における指摘と符合する点が驚くほど多い。具体的に言えば、日本語には、「長幼の序」・「贈与・互酬の関係」・「共通の時間意識」・「自己決定の不在」・「呪術性・神秘性」・「差別性・排他性」等々の「世間」の特徴とされる性質にぴたりと符合すると言っても過言ではない諸々の文法的特徴が認められる。(注1)


2.世間学における指摘に符合する日本語のあり方
以下、世間学における指摘のそれぞれにつき、日本語との関連を見ていきたい。

2.1 「長幼の序」 … 敬語・人称詞のあり方
2.1.1 敬語体系を持つことの意味

日本語では相手との関係性(上下・親疎)を無視して自然な会話を行うことは不可能である。

(1)(目上の人に対して)
??「これはペンだよ。」
(2)(弟・妹・親友等に対して)
??「これはペンです。」/???「これはペンでございます。」
(3)(目上の人に対して)
??「行く?」
(4)(弟・妹・親友等に対して)
??「行きますか?」/???「いらっしゃいますか?」

日本語には「誰に対してもどんなときにも用いうる」中立的な文体がない。このことはつまり、日本語にあっては「文」を作るそのたびごとに「自分と相手との関係性」(上下・親疎)を意識していることを意味する。
(このような観点から早くに敬語を問題にしたのは、森有正『経験と思想』岩波書店、1977年、p.126~131。なお、初出は「出発点 日本人とその経験(b)」『思想』568号(1971年))
ちなみに、日本語のような「敬語」(尊敬語・謙譲語・丁寧語)の体系を持つ言語は、日本語以外では、インドネシアのジャワ語、韓国・朝鮮語くらいであると言われている(ヒンディ語には尊敬語に相当するものはある)。
(J.V.ネウストプニー「世界の敬語 ―敬語は日本語だけのものではない―」(林, 南編『敬語講座8 世界の敬語』明治書院、1974年)、杉戸清樹「世界の敬意表現と日本語」(『国文学 解釈と教材の研究』1988年12月号)
 
なお、日本語には多様な人称詞が存在するが、その使い分けは、敬語と同様、相手との関係性(相手が上か下か、親か疎か)を反映する。

2.1.2「敬語行動」をめぐる日米比較 
単語レベルの「敬語」の体系を持つ言語は確かにごく少数だとしても、単語の組み合わせによる「敬意表現」なら多くの言語に認められるとし、敬語を日本語の特徴と見なすことに否定的な立場もある(城生佰太郎・松崎寛(1995)『日本語「らしさ」の言語学』講談社、p.149~154)。
では、表現レベルで見た場合、敬語をめぐる日本語の個性はなくなるのだろうか?この点を考えるために、「敬語行動」をめぐる日・米比較を行った研究を見ておきたい。

井出祥子他(1986)『日本人とアメリカ人の敬語行動 大学生の場合』(南雲堂)

調査方法
日米の大学生それぞれ約500人を対象に、日常接する様々な相手に、ペンを借りるときにどのような表現を使うかをアンケート調査し、その結果を分析したものである。

表現と人物カテゴリーの丁寧度
井出他(1986)では、日本語と英語それぞれについて約20の表現を考察の対象とする。そして、それらの表現の「丁寧度」の違いを問題にする。「丁寧度」は、「最も改まった時」に用いられるものの丁寧度を5、「もっとも気楽な時」に用いられるものの丁寧度を1とする5段階評価によるアンケート調査によって算出される。また、人物カテゴリーも20設けられ、その丁寧度も同様に算出される。日米双方とも、最も丁寧度が高い人物カテゴリーは「教授」であり、最も丁寧度が低いのは「弟・妹」であった。

分析の結果とそこから分かること
日本語における特に丁寧度の高い表現としては、「お借りしてもよろしいでしょうか」「貸していただけませんか」等があり、英語のほうでは、“May I borrow”“Would you mind if I borrow”等がある。いっぽう、丁寧度が特に低い表現としては、日本語では、「借りるよ」「貸して」「ある」等があり、英語では、“Can I Steal”“Let me borrow”“Gimme”などである。
井出他(1986)によると、「ある表現をどのような相手に使うか」という観点から見た場合、英語にも一定の使い分けが認められる。すなわち、“Can I Steal”“Let me borrow”“Gimme”等の特に丁寧度の低い表現は、アルバイト仲間や親友や兄弟等の気楽な相手にしか使われないし、逆に、“Would you mind if I borrowed”“Do you mind if I borrow”のような表現は、気の張る相手には使われるが、気楽な相手にはふつう使われないという結果が出ている。英語にも家族や親友などにしか使えないぶっきらぼうな表現と、逆に、家族や親友にはふつう使われない持って回ったご丁寧な表現があることが分かる。
しかし、ここから単純に、英語にも日本語と同じように「敬語」が存在するとするのには問題がある。確かに、上に見たような部分だけを見ると、英語も日本語も変わらないのではないかと思いたくなる。しかしながら、英語では、“Could I borrow a pen?”“Can I borrow a pen?”“Can I use a pen?”等の丁寧度中位の表現では、もっとも気の張る相手からもっとも気楽な相手までのすべての相手にほぼ均等に使われるという調査結果が出ていることに留意したい。さらには、もっとも丁寧度が高いとの結果が出ている“May I borrow”であっても、確かに気の張る相手に比較的使われる傾向は認められるものの、いっぽうで、アルバイト仲間や親友や恋人といった「ごく気楽な相手」にも使われているのである。
それに対して、日本語においてもっとも丁寧度が高いとされる「お借りしてもよろしいでしょうか」はアルバイト仲間や親友や恋人といった「ごく気楽な相手」に使われることなど通常の状況では考えられない。

英語の場合、(たとえ命令・依頼文であれ)①相手が誰であっても使える中立的な表現が存在する。 ②丁寧度が非常に高い表現が「ごく気楽な相手」にも使われることが分かる。これらの点から、英語にも「丁寧な表現」はあるとしても、それは、日本語の敬語におけるような「上下・親疎」の「恒久的な人間関係」と固く結びついたものではない、ということが言える。(注2)


2.2 「贈与・互酬の関係」… 授受に関わる表現
日本語の中には、「贈与・互酬の関係」と深く関わるものとして注目すべき表現がある。
英語なら「give」の一語で表現されるところが、日本語では、自分が相手に「与える」ときには「あげる」、いっぽう、相手が自分に「与える」ときには「くれる」となる。

(1) He 【gave】 it to me. (彼は私にそれを【くれた】。)
(2) I 【gave】 it to you. (私は彼にそれを【あげた】。)

このような使い分けは、世界の言語の中で日本語以外には南アフリカのマサイ族の言語くらいにしか認められないと言われている。
(Newman,John(1996)Give:A Cognitive Linguistic Study.Berlin:Mouton de Gruyter.P.26~27)
中国語や韓国語も英語と同様、「自分」が与え手であれ受け手であれ一つの動詞が使われる。中国語「給」、韓国語「주다(チュダ)」。

そして、「あげる・くれる」のもう一つ注目される特徴として、「良いこと」にしか使われないということが挙げられる。つまり、「損害を相手にあげる」という言い方は基本的にはできない。それに対し、英語の「give」、中国語の「給」、韓国語の「주다(チュダ)」などは「悪いこと」にも使われる。
つまり、日本語の「あげる」と「くれる」の使い分けは、自分が恩恵の与え手側なのか受け手側なのかに日本人が強いこだわりを持つことの現われではないかと考えられる。

さらに、授受益の補助動詞「~てあげる」「~てくれる」「~てもらう」の存在も特徴的だ。日本語では、「相手が自分に対して何かよいことをした」場合には、「~てくれる」か「~てもらう」をつけないことには自然な表現にはならない。
「道に迷っていたら、親切な人が駅まで案内した。」は変で、ふつうは「道に迷っていたら、親切な人が駅まで案内してくれた。」などと表現される。
そして、「~てくれる」「~てもらう」のような授受益の補助動詞を持つ言語もやはりかなり限られた言語だけである。山田敏弘(2004)『日本語のベネファクティブ ―「てやる」「てくれる」「てもらう」の文法―』(明治書院)によると、日本語以外に授受の補助動詞を用いて恩恵性を表わすのは、韓国語、ヒンディ語、モンゴル語、カザフ語などかなり限定された言語に限られる(p.341~355)。(注3) この補助動詞の使われ方も、日本人の贈与意識を考える上で注目される。


2.3 「共通の時間意識(自立した個人の不在)」… 敬語・人称詞・終助詞
2.3.1 敬語と人称詞
敬語と多様な人称詞の存在:文体つまり「語り」のスタイルと言語上の自己規定が「相手」のあり方に依存していることを示す。つまり、「個」が自立していないと言える。

2.3.2 終助詞の必須性とバリエーション

(1)「It’s raining.」

これは、この言い切りの形で自然な「文」として十分に成り立つ。そこに何も足す必要はない。それに対して、日本語の

(2)「雨が降っている。」

は、どうだろうか? 独り言であるならばこの言い切りの形で自然な「文」として成り立つだろうが、相手に向っての発言としては不自然だろう。
池上(1989)「日本語のテクストとコミュニケーション」『日本文法小事典』(井上和子編、大修館)は、相手に向っての自然な発言としては、「話し手と聞き手の間の微妙な対人的な関わり」に応じて、

 (3)「雨が降っているよ」「雨が降っているね」「雨が降っているわ」「雨が降っているの」「雨が降っているぞ」「雨が降っているな」「雨が降っているさ」「雨が降っているよね」「雨が降っているわよ」「雨が降っているわね」「雨が降っているわよね」

など、「たいてい何らかの終助詞のついた発話になる」とする。
そして、「これらの助詞は雨が降っているという事実との関連で、話し手がそれをどのような気持ちで受け取っているかを表示したり(その際、聞き手がそれをどう受け取るかということへの配慮もたいてい含まれているものである)、あるいは、聞き手もすでに気づいているか、いないか、そして、気づいているなら共感を求め、気づいていないなら、注意を喚起するといったふうに話し手の側からの直接の働きかけの気持ちを表示したりする。」と指摘している。

自然な「文」の成立のためには「対人的な関わり」を表わす終助詞の付加が必須的であり、しかも、その相手との関わりの微妙な違いに応じて種々様々なバリエーションを持つ日本語。「ね」をはじめとする終助詞の存在とその用いられ方は、日本人が相手との関係性の中にいかに深く浸かってあるかをしているように思われる。

なお、日本語における終助詞(それ相当の表現を含む)と英語における終助詞相当表現の対比を試みた研究として、泉子・K・メイナード(1993)『会話分析』(くろしお出版)がある。そこでは、日本語の会話においては約9割が終助詞ないしはそれに相当する対人配慮的な表現で終わるのに対して、英語の文末表現において「聞き手めあての感情表現のついたもの」の出現割合はわずか2.26%であったという興味深いデータが紹介されている(p.124~126)。(注4)


2.4「自己決定の不在」…「自発」
「自己決定の不在」とは:
おそらく西欧では、「なるべくしてなった」「いつの間にかこうなってしまった」という私たちの意思決定の仕方は、まるで理解されないのではないかと思う。(佐藤直樹(2001)『「世間」の現象学』(青弓社)p.63)

2.4.1 「自発表現」 ―「場所」としての「私」
日本語では、

(1)「私は~と思う」
(2)「私は~と考える」

という言い方の他に、次のような言い方が存在し好まれている。

(3)「(私には)~と思われる」
(4)「(私には)~と考えられる」

「私」は能動的・積極的に結論を導き出す「主体」ではなく、結論が出来する「場所」となっている。「私」が「主体」ならぬ「場所」になる例としては、次のものもある。

(5)「(私には)星が見える」
(6) 「(私には)雷鳴が聞こえる」

2.4.2 「~ことになる」 ―「主体性」を秘す「私」

(7)「結婚することになりました。」

この表現における「私」も、「積極的に行為する主体」ではなく、結果を受け止める存在になっている。

(8)今度の正月休みにはハワイへ行くことにした。(「自らの意思で主体的に決めたこと」)
(9)今度、出張で中国に行くことになった。(「自らの意思とは別のところで決まったこと」)
((8)(9)例とその解釈は、『中上級を教える人のための 日本語文法ハンドブック』スリーエー)

2.4.3 尊敬語と謙譲語の成り立ち ―「自然発生」を尊び、「行為」を卑しむ心根
能動性・意思性・制御性、くくって言えば、<主体性>というものに対する日本人の深層心理の現れと言えるのが、敬語の成り立ちである。
 日本語では、自然発生に関わる「なる」が「お~になる」(お持ちになる)のように、相手を尊ぶ尊敬語に使われ、主体性や能動性に関わる「する」が「お~する」(お持ちする)のように、自らを卑しめる謙譲語に用いられている(この点を指摘したのは、牧野誠一(1978)『ことばと空間』(東海大学出版会))
※「尊敬」の意味を持つ助動詞の「れる」「られる」のそもそもの意味は「自発」とされている。


2.5空気の支配・所与性 …「S」が析出されない構文的傾向
2.5.1 「空気の支配」と「世間の所与性」とは

「空気の支配」:
問題なのは、その決定が理屈のうえで合理的にではなく、非合理的に「空気」によって「なるべくしてなった」「いつのまにかこうなってしまった」というかたちでおこなわれる点である。(『世間の現象学』p.81)

「世間の所与性」:
(社会は「個人の意志が結集されれば変えることができる」)
「世間」と社会の違いは、「世間」が日本人にとっては変えられないものとされ、所与とされている点である。(略)「世間」は天から与えられたもののごとく個人の意志ではどうにもならないものと受けとめられていた。(阿部謹也(2001)『学問と「世間」』(岩波新書)P.111~112)

2.5.2 日本語における自動詞構文への好み ―非分析的傾向
(以下は、池上嘉彦他(2009)『自然な日本語を教えるために 認知言語学を踏まえて』(ひつじ書房)の池上氏担当部分を基にまとめた。)

1.(子どもがミルクをこぼしてしまって)
「あ、ミルク(が)こぼれちゃったよ。」
⇔“Oh, no, she spilled the milk.”(子どもがミルクをこぼしてしまったよ。)

(参考)「整理したため物が動いているかもしれません。よろしくお願いします。」

2.「彼は戦争で死んだ。」
⇔He was killed in the war.(彼は戦争で殺された。)

英語の方では、他動詞を使うことで彼を殺した主体の存在が暗示される。

3.同様の日英の間の対立は、感情を表す一連の表現の間にも認められる。
日本語では、
「喜ぶ」、「がっかりする」、「満足する」、「驚く」
と自動詞が使われるところで、英語では、
   be delighted、be disappointed、be satisfied、be surprised
と、他動詞の受動態が使われる。
「日本語話者にとっては<自然とそうなる>ものとして受け止められているが、英語話者にとっては<何かがそうさせる>として捉えられている」と池上氏は指摘している。
上に見たような日本語話者に見られる「自動詞構文」への好みから、池上氏は、日英語両話者について次のような傾向の違いを指摘する(前掲書、p.22)。

英語話者:
<起因>に拘り<事態把握>をする傾向が認められる。

日本語話者:
<起因>を考慮外に置いて出来事そのものの<出来>に焦点を当てて<事態把握>を行う 傾向が認められる。
(加藤要約)

また、『英語の発想』(ちくま学芸文庫、2000年。元、講談社現代新書、1983年)において、安西徹雄氏も次のように述べている。

*****
確かに英語は、ある情況ないしは出来事を言語化しようとする時、まずこれを論理的に分析し、分節化して、一個のアイデンティティーをもつと考えられる項を析出し、ある実体的な<もの>として名詞化する(この場合もちろん<もの>とは、単に物ばかりではなく者、つまり人間をさすことも多い―というより、むしろ典型的には動作主としての人間である)。さて、こうして名詞として定着された<もの>が、もう一つの、同じように抽出された<もの>にたいして、なんらかの動作を働きかけ、その結果として一つの情況なり出来事なりが成立した ― 英語は、こういう捉え方をする傾向が強いのである。
 これにたいして日本語は、情況ないしは出来事を、できるだけこれに密着して、まるごとすくい取ろうとする。抽象的に分節化して、実体的な<もの>が、もう一つの<もの>に働きかける関係として捉えるよりは、
あたかも情況が、全体としておのずから成ったというように ― つまり、要するに<こと>として捉えようとする傾向が強い。往々にして、主語を明確に取り出すことさえしないのである。(太字、引用者)
*****

池上氏の「起因」、安西氏の「出来事を成立させる『もの』」とは、他動詞構文の「主語」のことである。

英語においては析出されるその「主語」が日本語においては往々にして析出されない傾向を持つことは、「事態を成り立たせるもの(=起因)」を問うていこうとする分析的な志向の希薄さを意味するだろう。この日本語の構文的特徴としての分析的志向の希薄さと、われわれ日本人が往々にして「空気」に支配されてしまうこと、世の中を「所与」のものとみなしてしまうことは関連すると思われる。

われわれにとって、結果は、「主語」によってつくりだされるものではなく、「自ずから成る」ものなのだ。


2.6 「差別性・排他性」…「自己」中心性と二人称志向性
2.6.1 「自己中心性」と「差別性・排他性」 ― 差別性の背景

2.5で見たように、「出来事を成立させる主体」に関しては、英語がそれを析出しようとする傾向を強く持つのに対して、日本語はそうではなかった。いっぽう、2.1~2.3でとりあげた、敬語や人称詞のバリエーション、「あげる」と「くれる」の使い分け、終助詞の用法などが関わる、「私」と「相手」との関係性については、日本語がそれを積極的に表わそうとするのに対して、英語はそうではない。英語では「主体」と「客体」の関係が問題にされるのに対して、日本語では「自分」と「相手」との関係が問題にされるという対比が成り立つ。(加藤薫(2012)「日本語の構文的特徴から見えてくるもの ―「主体・客体」と「自分・相手」―」『文化学園大学紀要 人文・社会科学研究』20号)

この違いは、両言語における表現主体の「視点」の違いを示唆するものと思われる。すなわち、英語の方は、第三者的視点から事態を把握しようとする傾向が強く、それに対して、日本語の方は、自己中心的な視点から事態を把握しようとする傾向が強いと考えられる。
 上にあげた例のほかに、日本語の自己中心性を示唆するものとしては、補助動詞「~てくる」と受身の用法がある。これらは、「私」と「出来事」との関係性を表す。(注5)

 「世間」に認められる、「他者」を「身内」と「他人」とに分ける傾向は、この「自己中心性」と関わるのではないだろうか。第三者的な視点からはフラットに存在する各人称が、自己中心的な視点においては、自己を中心として色分けされることになるからである。

2.6.2「二人称」への過剰とも言うべき配慮
① 敬語、②人称詞、③終助詞、④あいづち
 自己中心的な視点と二人称への過剰な配慮は通底する。第三者的な視点ではなく自己中心的な視点をとる場合、「相手」の存在は大きなものになる。

2.6.3「三人称」への冷淡な扱い
二人称のための特別な表現が種々用意される一方(2.6.2)、二人称に(さえ)了解可能な内容であれば、主語や目的語等の文の骨格的内容が大胆に省略される。その結果、その場に居合わせる人間でないと何を言っているのか意味不明になる傾向が認められる。

「二人称」に厚く、「三人称」に対して冷淡な日本語の構文的な姿は、身内に厚く、他人に薄情な「世間」のあり方の、原型と言えないか。


3.まとめに代えて -今後の課題
今回の発表では、日本語の構文的特徴が世間学における諸指摘と符合することを見てきた。とりあげた日本語の構文的特徴は、その多くが、単に欧米の言語との比較において言えるというものではなく、同じアジアの国々の言語の中でも特異性が認められるものである。

今後の課題としては、言語類型学的な考察をすすめ、日本語の特徴付けの精度を高めるように努めることと、そのことと関連させつつ、「世間」を成り立たせているものは何なのか?(つまり、「世間」の背景)について考えていくことである。

これまでの「世間学」においては、「世間」と「社会」を分かつものとしてキリスト教の存在が注目されてきた。「社会」の成立にキリスト教の存在が影響していることは確かだとして、その範囲、その程度を見極めていきたいと思う。そのためには様々な方面からの考察が必要となろうが、発表者は「ことば」を手がかりに進めていければと思っている。



(注)
注1 「世間学における指摘」として六つの指摘を取り上げるにあたっては、阿部謹也の著作のほか、佐藤直樹(2001)『世間の現象学』(青弓社)と鴻上尚史(2009)『「世間」と「空気」』(講談社現代新書)を参考にした。

注2 水谷(1985)『日英比較 話しことばの文法』(くろしお出版)では、「日本語のほうは、同じ相手には同じ丁寧さをまもることが多く、英語では相手との恒久的な関係よりも発話の場面と目的によって変わる」とし、14才の姉が弟に、「Could you pass me the salt,please?」という丁寧な依頼文を用いているケースを紹介している(P.194)。

注3 しかも、それらの言語も日本語に比べると用法が限定的であることが山田(2004)に指摘されている。例えば、韓国語は(日本語と文法的に共通する要素が多い言語だが)「~てあげる」と「~てくれる」の区別はなく、また、「もらう」に相当する動詞を用いて「~てもらう」のような表現をすることは通常ないとされている。ヒンディ語も韓国語と同様である。カザフ語は「~てもらう」に相当する形式を持つが、「~てあげる」と「~てくれる」をひとつの形式で表わすという。

注4 なお、「聞き手めあての感情表現」に数えられているのは、
1.“you know”“right”“OK”等
2.付加疑問
3.相手をファーストネームで呼ぶ。
4.“or something”“like”などのあいまいさ、躊躇を表わす表現を文末に加える。
5.接続詞“though”や“but”を文末につけて表現を和らげる。
等のものである(p.124)。

注5 日本語では「母が弟にリンゴを送ったそうだ。」とは言えても、「母が私にリンゴを送った。」とはならず、通常、「母が(私に)リンゴを送ってきた。」という言い方になる。このような補助動詞「~てくる」の用法は、英語や韓国語には見られない。南アジアの諸言語も同様。中国語は同様の言い方があるが、使わないこともできる。ただし、東南アジアの諸言語には同様の用法が認められる(堀江薫,ブラシャント・パルデシ(2009)『言語のタイポロジー ― 認知類型論のアプローチ ―』研究社、p.205~211)。
  日本語の場合、話者が被害者になったときは、「(私は)財布をとられてしまった。」のように、話者が文の主題となり受身文が使われることが普通であるが、そのような場合、英語では能動文が用いられる。日本語に最も近い言語と言われる韓国語も英語と同様である。
なお、日本語における「視点」の特徴については、大江三郎、森田良行、池上嘉彦、金谷武洋氏などが言及している。
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2012-10-14 14:00:09

「小平の風」に「世間学と日本語」と題して書きました

テーマ:エビデンスとしての日本語
勤務校のブログ「小平の風」に、今回は、世間学における主張と日本語のあり方の“符合性”について書きました。

こちら です。

そこでも触れましたが、上記テーマをめぐり、次の第28回日本世間学会研究大会で発表します。
学会に提出した発表の概要は次のようなものです。


++++++++++
世間と日本語に通底するもの
-主体性と第三者的視点の欠如-

この国には、なぜ「個人」と「社会」が存在しないのか。この問いに対して、日本語論の立場から考察する。

日本語には、「長幼の序」、「贈与・互酬の関係」、「共通の時間意識」、「自己決定の不在」、「差別性・排他性」、「呪術性・神秘性」等々の「世間」の特徴とされる性質にぴたりと符合するといっても過言ではない諸々の文法的特徴が認められる。
「敬語」、「多様な人称詞」、「授受に関わる表現」、「終助詞『ね』」、「SVO的把握の希薄さ(ナル的把握の強さ)」、「自己密着的視点」、「二人称志向性の強さと三人称指向性の弱さ」などである。

これらの日本語の特徴は、欧米の言語に認められないというだけではなく、世界の多くの言語に認められないものである。「世間」の背景をキリスト教の影響の有無から考えることの妥当性についても少し触れてみたい。
++++++++++


<「小平の風」の過去記事>
・神戸・京都・奈良研修 ~伝統文化と欧米の文化~

・This is a pen. を日本語にできるか?

・「好きです」に面くらったフランス人の日本文化論-主体=「創造主」不在の文化-

・日本語とPTA -「主体性と公共性」の希薄さをめぐって―

・日本世間学会

・「ネット」の力 ― 仙台市教育課題研究発表会に参加して


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2011-01-05 11:54:04

「好きです」に面くらったフランス人の日本文化論        主体=「創造主」不在の文化

テーマ:エビデンスとしての日本語
前々回のエントリの中でもとりあげたオギュスタン・ベルク氏の所説の紹介を、上記のタイトルで勤め先のブログに書きました。

こちらです。


その文章の最後の段落で次のように述べました。

**
では、なぜ、日本人は、日本の文化は、<主体>に対する拘りをあまり持たないのか?
ベルク氏は、日・欧・中の神話に描かれた宇宙の発端の姿の違いにもふれつつ、そのカギは、「与えられたままの現実」、つまり「自然」というものの価値を積極的に認める日本人のあり方にあるとしています。
**


「日・欧・中の神話に描かれた宇宙の発端の姿の違い」とは具体的にどういうことなのかについては、字数制限もあって触れられなかったので、補足しておきたいと思います。

それは、欧州や中国の宇宙開闢論においては天地は「創造」されるものとして描かれているのに対して、日本の神話においては天地は「生起」するもの、「なる」ものとして描かれている、ということです。

この論点については、丸山眞男に本格的な論考があります(「歴史意識の『古層』」)。
いずれじっくりとご紹介したいと思っています。

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2011-01-03 15:37:24

文法的観点から見た「主体」に対する意識の希薄さ ― PTA問題の底流にあるもの(4)

テーマ:エビデンスとしての日本語
(一応、完成…)
∞「自発」を尊び、「行為」を卑しむ心性∞

<敬語の成り立ちが示す主体性に対する日本人の深層心理>
能動性・意思性・制御性、くくって言えば、<主体性>というものに対する日本人の深層心理の現れと言えるのが、敬語の成り立ちである。
非常に興味深いことに、日本語では、自然発生に関わる「なる」が「お~になる」(お持ちになる)のように、相手を尊ぶ尊敬語に使われ、主体性や能動性に関わる「する」が「お~する」(お持ちする)のように、自らを卑しめる謙譲語に用いられている(この点を指摘したのは、牧野誠一氏(1978)『ことばと空間』(東海大学出版会))。


<尊敬語成立の事情>
尊敬語には、「言う」に対する「おっしゃる」とか、「いる」に対する「いらっしゃる」、「食べる」に対する「召しあがる」のように、特別な形を持つものがあるが、尊敬語をつくるための汎用的な形としては、

「喜ぶ」→「お喜びになる」
「悲しむ」→「お悲しみになる」
「読む」→「お読みになる」

というように、「お~になる」の形がある。
相手の行為・作用を高く扱う尊敬表現を作るのに非作為的・非意思的な出来事の成立、つまり「成り行き」を表す「なる」が使われているわけである。

尊敬語を作るためのもう一つの汎用形式が、

「喜ばれる」
「読まれる」
「来られる」

のような「れる・られる」である。
ここで注目すべきなのは、「れる・られる」は、尊敬のほかに、受身・可能(※)・自発としての用法も持つが、「れる・られる」のおおもとの用法は「自発」であるとする考えが有力な点である(金田一京助・橋本進吉・荒木博之・尾上圭介・森田良行等)。

「自発」が「尊敬」に用いられるようになる筋道立ては論者により様々であるが、

「尊敬の対象となる人物の行為をあたかも自然に起きたかのように表現することが尊敬表現につながるのだ」

という説明が最大公約数的なものと言える(川村大(2004)「受身・自発・可能・尊敬 ―動詞ラレル形の世界―」『朝倉日本語講座6 文法Ⅱ』)。
※「れる」の「可能」用法は、「行かれる」等を除いて現在ほとんど用いられなくなっている。代わりに用いられているのが、「行ける」、「飲める」等の「可能動詞」。

ここでは、初期のものとして橋本進吉の説、近年のものとして尾上圭介氏の説、そして日本の文化との関連に触れた説としてを荒木博之氏の説を紹介しておこう。

橋本は、『助詞・助動詞の研究(講義集三)』(岩波書店)中の「助動詞の研究」の中で、次のように述べている。(「助動詞の研究」は、東京帝國大学における昭和6年の同題の講義の講義案)

**
敬語はやはり自然動から發生したものであろうとおもはれる。我國では、他人の動作をその人がするとして直接に云ひあらはさず、間接に自然の状態として云いあらわすのが鄭重であるとせられてゐる。
**

「間接に自然の状態として云いあらわすのが鄭重」となることのエビデンスとしては、

「庭をはきましたか」

「庭がはけましたか」

の対比が提示されている。橋本によれば、後者の方が鄭重ということになる。

さらに、橋本は、

ご覧になる
御幸なる
御尋ある

等の例をあげ、「自然のはたらきのやうに言つて敬語としたものは各時代に見出される」とし、「さすれば、「る」「らる」の敬語としての用法も、自然のはたらきとしての意味から展開したものと考えて、少しも不自然な點はないとおもはれる。」と述べている。

尾上圭介氏は次のように述べている((1999)「文法を考える(7):出来文(3)」『日本語学』18巻1号)。

**
動作主に対する尊敬の気持ちを表現する方法はいくつかあり得るが、その中の一つとして、その動作を自然発生風に語るという方法がある。動作主が自らの意思により自分の力を使って何かしたと言うより、その動作的事態が自然に生起したように語る方が、動作主の(われわれと同じ人間としての)なまなましさや、行為の直接性が消えて、高貴な事態として表現することになるという事情である
**

日本文化の特質と自発から尊敬語への展開とを関連させて論じたものとして、荒木博之氏の説がある。氏は、『日本語から日本人を考える』(朝日新聞社、1980)、『やまと言葉の人類学』(朝日選書、1983)の中で、自発・自然展開が日本人にとってはあらまほしきあり方・価値なのであり、その結果として、自発が尊敬へと意味展開を遂げていくとしている。

確かに、動作主のなまなましさが消えることが高貴さの演出につながるとする尾上氏の考察はなるほどと思わせられる。しかし、自発から尊敬語への意味展開がどの国の言語にも認められるものではないことを考えるとき、自発・自然展開をあらまほしきことと価値づける日本人の「深層意識」に注目しておく必要があると思われる。


<尊敬語と謙譲語の成り立ちと、そこから言えること>
フランス人の日本学者であるオギュスタン・ベルク氏は、自発的な意味がその中心、あるいは出発点にある「れる」「られる」が尊敬語としても用いられることに注目し(荒木博之氏の説を踏まえている)、

(日本語の尊敬語における)「敬意は、主体と行動とのつながりの結びつきを緩めることで表されている。」

とする。そして、「られる」表現、「なる」的表現にあっては、行動の主体と行動そのものの間の主語述語的連鎖が溶解し、「行動」が自発的に現われる「生成」(「なる」)にと変貌する、と語る。

ベルク氏は、牧野氏の説(前掲)も踏まえ、いっぽうで、謙譲語の成立についても言及する。

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目上の人間の行為を、直接化し、自然なものにしようとする傾向は、その反面で、相手に対する敬意から自分自身を卑しめる話手が、自分の行為の、非自然的、努力を要する性格、間接的な相を強調する傾向とつながっている。つまり行為を表わす動詞に、「します」、さらに丁寧には「いたします」という行為詞が追加されるのである。
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「お―送り―いたします」は、フランス語に訳すとすると、「私は(自分自身を)、(あなたを)送るようさせる」、「(私は)(あなたへの)随伴の原因を作る」と分析できるとのことである。

こうした分析を踏まえ、ベルク氏は、以下のような総括を行う。

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 こうした分析から、行為緩和の論理が、原因づくりに対する軽蔑が、明白になる。(…)自発的生成の価値づけは、同時に、自然なもの、動的なものの価値づけでもある。

なるほどラテン語naturaも、動詞nasci=「生まれる」の未来分詞であり、したがって日本語の場合と似た観念(誕生と同時にその行きつくさき)を想定する。ただラテン語の場合は、事態の高揚ではなく、単なる確認にすぎないと言うべきだろう。
そもそも我々の文化(まるお注:西欧の文化)は、主体の行動との、また意思の実践との、主語・述語的関係を強調することによって、自然なものが干渉すればこの関係に導入されるかもしれない非合理性を最小限にくい止めようとしているのである。

反対に日本では、自発性の尊重が、右のいくつかの例から始まって住居構造の物質面にわたる一連の行動形態のすべてに現われている。(…)
(改行、引用者)
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第一段中に出てくる「自然なもの、動的なものの価値づけ」とは、意思や秩序による制御外のものが尊ばれる、ということであろう。
第二段後半に出てくる、ヨーロッパにおいて強調されてきたとされる「主体の行動との、また意思の実践との、主語・述語的関係」とは、主体による結果に対する制御性を問題にしていると思われる。
主体による事態に対する制御がなくなれば、どんなとんでもない(「非合理」な)ことになるやもしれぬ。であればこそ、ヨーロッパの文化においては、長年、主体を析出することに拘ってきたというわけであろう。

ベルク氏の言う「主語・述語的関係」とは、「結果」、つまり「述語」だけがそのものとして出現するのではなく、その結果を成り立たせている「主語」、言えば、造物主・創造主としての「主語」が析出されている関係のことと言っていいように思う。

日本の文化に認められる、このような意味での「主語」(=「起因」としての「主語」)に対する意識の希薄さこそが、PTAの自動的・強制的加入体制(― それは主体の意思を問わず事態に巻き込む=事態を成立させることに他ならない ―)を深層で支えているように思われてならない。
(追記(2011.5.14):英語等における「主語と述語の一致現象」は、上に触れた「主体による結果に対する制御性」に対するこだわりの一つの「現れ」と言えるだろう。)

以上。


(つぶやき)
今必要なことは、ひとりひとりの個人に対して、正直に判断の材料となる情報を提示し、ひとりひとりの主体が能動的・意思的に自らの進む道を選び取ることができる環境整備ではないのだろうか。
そもそも、それが<民主主義>なのであり、「本当のことを知らせたら、熱心に取り組む人がいなくなるから」との理由で、情報を与えず、選択もさせず、というのは、反民主主義的であると言わざるを得ない。

この点をめぐっては、憲法に照らしつつ、神奈川県教委から届いた文書を検討するなかで、さらに考えていきたいと思っています。
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