お久しぶりです。愛深です。

10年ほど働いた総合病院を先月末で退職しました。


沢山お世話になった病院でした。

給料良かったし辞めるのが惜しかったですw


そして


この度結婚することになりました(,,・ω・,,)


ようやく…と言った感じですが、とても素敵な方と出会えたので、この歳まで結婚出来なかったのも、それはそれで良かったかなーと思っています(*´罒`*)


最近は色々な手続きしなくては行けなくて慌ただしいです。


次の職場は車で20分圏内にあります。前の所は歩いて5分の所に住んでたので、少し不安もあります( ᐛ )


でも、運転慣れするかなーとは思うので、良いこととします( ´罒`*)✧"

4月以内に手続きは終わらせなくてはダメなのでダッシュで頑張ろうと思います( *˙ω˙*)و グッ!





お久しぶりです。愛深です。

気持ちにゆとりがない日々を送ってきましたので、今になっての報告となります。



昨年9月19日午前8時17分

母が亡くなりました。




肺腺がんでした。



66歳でした。



コロナ禍ではありましたが、病院のご厚意で、毎日面会が
許されていました。
泊まり込みもOKでした。

おそらく私が勤めている病院だった…

というのがあるとおもいます。

母の隣に、簡易ベッドを設置してもらい、そこで私が寝て、

少しでも父が休めるように、家族控え室に父が寝ていました。




19日の深夜1時を過ぎた頃。



私がベッドに横になっていた時、おそらく母が自分で酸素マスクを外したのでしょう。

心電図の異常を知らせるアラームに、



気が付かなかった私がいけないのです。




突如看護師さんが2人、病室に入って来ました。

私は

え?

と、飛び起きました。

酸素化が急に悪くなったらしく、リザーバーマスク12Lに変えていきました。



あ、私が横になってる時に、母が酸素マスクを無意識に外したんだ…




と、すぐに分かりました。


看護師さんが、酸素マスクを当て直したからです。



酸素マスクは口をモゴモゴするだけで、簡単にズレてしまいます。



インスピロンという機械を使わなかったので、この時点で、

リザーバーマスクで投与する酸素の流量は最大量でした。


インスピロンを使うと酸素の濃度は濃くできますが、父も私も、入院時に、DNAR【延命措置を望みませんという同意書】にサインをしていますので、そこまでは看護師さんはしませんでした。



母が楽なら何を使っても正直、良かったのですが、一日のトータル尿量も少なく、もう、母は、多臓器不全になっているのだと分かっていたので、インスピロンを使ってくださいとも言えませんでした。


使ったとしても酸素化が良くなるのは一時。


…お母さん…苦しい時間が長くなるだけだよね?


勿論

家族なので、使って欲しい気持ちと、使って母に何かいいことが起こるのではないか…結構悩んだことは事実です。


でも、


苦しい時間が続いて、命が伸びるだけだと、私には分かってしまいました。


そこから、SPO2という、酸素が体を指先までのしっかりと巡っているかを表す値が



88%からあまり上がりませんでした。普通の方なら96%から100%が基準値です。



例えばですが、普通の方が限界に息を止めて、ぐーーーっと息するのをこらえて、限界の時の値が88%程度です。これは私が実験した数値ですが…



苦しいね、お母さん。苦しいね。



最初にマスクを外したと思われる口のモゴモゴした動きも、もうありません。


両上肢も、もう、挙げる力もありません。


私の声も聞こえてるのだろうか…やや難聴だった母

耳元で

「お母さん、お母さん!!」

声をかけました。

しかし、反応はありませんでした。

頷きもしません。




心電図モニターという、患者さんの側につけている、心拍や呼吸数、SPO2を測るモニターを見ながら、心拍はまだ問題ないと判断しました。【一応ですが私は看護師なので】

看護師さんがサクションという、喉元や気管にある痰がらみを機械で吸い取る処置をするため、私は病室を出ました。




私は

お父さんに教えなくちゃ!!!

と思い、急いで父のいる家族待機室へ向かいました。


もしかしたら、驚かせてしまうかもしれない。スマホで連絡した方が、父は焦らないかもしれない


そう思いながらも


私は家族待機室をノックしました。








父は起きてました








「どうした?!」



と、すぐに返事が返ってきました。声色が焦っているかのように聞こえました。




「お母さん、呼吸が苦しいみたい。そばにいた方がいいかも。びっくりしたでしょ、ごめんね!!」




そう伝えました。




「分かった、今行くから。」 





急いで出てくる父。

「今、看護師さんが処置してくれてるよ。落ち着いたらお母さんのそばに居てあげよう。」

泣きそうになりながら、父に伝えました。




「そうか。」





父の焦りが声から分かりました。

30分くらい、母の元を離れない看護師さん。

病室の扉は閉められていました。



廊下で待機する父と私。




ようやくドアが開き、看護師さんに頭を下げたあと
私たちは母の傍に近寄りました。



呼吸は荒く、呼吸数も多く、
、苦しそうでした。




父を気にしていたので、座っていて楽な簡易ベッドに誘導し、私はパイプ椅子に座りました。


「お母さん…あー。お母さん。」

父が嘆き始めました。


この時は、まだ、心拍が早いくらいでしたので、父が、何を嘆いても、咎めませんでした。本当は悲観的な言葉は言って欲しくなかったのですが、我慢しました。父は動揺していましたので…



それから眠らずに母を見守る父と私。



5時をすぎた頃でしょうか。


私は、兄や、親族【母の兄、姉】に連絡をするタイミングを見計らっていました。



尿はほぼ出ていませんでした。

無尿です。

人は、おしっこが出なくなってきたら死期は近いです。

血圧の数値や排尿量をみて、









あ、多分今日だな…









と、確信しました。




明け方、兄が起きる頃を何となく見計らった

5時50分

「今日仕事休める?お母さん、多分今日だよ。」


と、LINEしました。




兄からは



「もう少ししたら会社にお伺い立てていくわ。」


と返信がありました。



その後に、母の実兄宅に、

「お母さん、         多分もう、......だと思う」

と電話で連絡しました。




実兄はお嫁さんが電話に出たので、
私が泣きなが電話をして、声に出せずに居たら、

「分かったよ。すぐに行くからね。」

と、察してくれました。

私は

「うん。おねがしいます」

と、いい、

「気をつけてゆっくり来てね!」

と言うのが精一杯でした。






次に、母のお姉さん。

電話を掛けたら、私の涙が止まらず、泣きじゃくっている最中

「ママ?【私は母の実姉をママと呼んでいました。】」

と、声を出すことが精一杯でした。涙で声が出ませんでした。




焦った声で



「はい!あみ?」
     




と出てくれました。






私は精一杯母の状況を伝えました。

分かってくれたようで

すぐに向かってくれるということになりました。


勿論、私としては、母の実姉の方がずっと近所にいて【実家から徒歩5分】、幼い頃の私の面倒を見てくれて、家族旅行の温泉なのに私を一緒連れて行ってくれて慕っている方なのでした。

 






父はかなり動揺していました。




「あー、お母さんは、あー、


もうダメかー…



あー、ダメかー。」





と、頭を抱えて嘆いていました。






私は遂に我慢できなくなり、父に

「そういうことは、言わないで。人の耳は最期まで聞こえるんだよ?」

と、涙ながらに話しました。



父は


俯き、私に両手を合わせて





「ごめん。…ごめん…。」






と言っていました。



程なくして私の兄が到着しました。

母にかける声も、死んでしまう恐怖からか
どこかおぼつかない様子でした。


無理しなくていいんだよ、お兄ちゃん…なんでもいいの。声を聞かせてあげて…



次に7時過ぎ、母の実兄とお嫁さんが到着しました。




お嫁さんは私のことを抱きしめてくれました。





良く頑張ったね







と、抱きしめてくれました。涙が出ました。





しばらくして8時頃でしょうか



母の実姉と、旦那さんが到着しました。


実姉は


「いっこー、【郁子の愛称】おねーちゃんだよー。」




とボロボロと泣きながら声かけてくれました。








その時です











母が、









首を大きく縦に振り、頷きました。



まるで、


うん、おねーちゃん。分かるよ。


と、言っているようにみえました。




大きく相づちを打った母を見て



まぐれかと思いました。








もう一度実姉が










「いっこー!!お姉ちゃん来たからね!!」






 

と言うと、

また、

大きく頷くのです。



きっとお母さんは、お姉ちゃんの声を聞いて安心したのだと思います。


お母さん。よかったね。大好きなお姉ちゃんの声聞けて、よかったね( ´•̥̥̥ω•̥̥̥`)



家族全員と、母の身内が全員揃って





ひとしきり労いの言葉をかけ





落ち着いた午前8時頃



心電図モニターをみて、


母の心拍が徐々に低下しているのを察した私は



遂に最期のお別れの言葉を言う時だと思いました。





 




「お母さん、お疲れさん!!今まで、ありがとうね!」











何故かお疲れ様という、言葉がどうしても言えなくて、




おつかれさん




と言うのが精一杯でした。















心拍が40台になり














やがて母の心拍が止まりました。














お母さん






 







苦しかったね。
お疲れ様…











母は、



ひとしきり




大切な人に


【さよなら】


の挨拶を聞いたあと










まるで安心したかのように
息を引き取りました。














とっても安らかな最期でした。



















脳外科での放射線治療を終えて、自宅で療養していました。
私が帰ると、喜んでくれて、
『 何食べたい?』
って言ってくれる母。

身体は辛いはずなのに、私のことを考えてくれています。

私が帰ろうとすると、
『 ほら、ビール持っていきなさい!』
『 これ、夜ご飯のおかず作ったから持っていきなさい!』
って…

涙が出ます。

母親には、なるべく日記を付けるように話をしていました。

ある日、見てもいいよと言われて日記を読むと

『 あみが帰ってしまった。寂しい。寂しい。』
って書いてあって…

また泣きそうになるのを堪えました。

少し時が過ぎ、肺がんの治療が始まりました。
化学療法をやったのですが、あまり効果はありませんでした。

薬を変えようということになり、免疫療法として、

キイトルーダ

が開始になりました。

それで、肺がんを表す数値が一気に下がり、希望が見えてきました。

3回目のキイトルーダをする予定の前に

腰が痛い、腰が痛いと、苦痛表情を浮かべる母。

こしのMRIを撮ると、腰に骨腫瘍が出来ていました。

これは痛いね…ごめんね、すぐに病院行けばよかった…

痛みを止めるのにオピオイドの内服が始ましました。

それを飲んでから、意識が朦朧として、ずっと傾眠傾向。

水もご飯も受け付け無くなりました。

このままでは衰弱してしまう…

腰の放射線療法の為、病院へ行った際、

医師から、家でみるのは大変だったでしょう。このまま入院して、放射線療法やりましょう

と、提案をして頂きました。

点滴もして下さるということで、頭を下げてお願いしました。
よろしくお願いしますと。

昨日で、放射線も終わり、今日からは、その効果が現れるのを待つだけです。

コロナの影響でなかなか会えないため、今日は特別に会わせてもらえました。

痛み止めの麻薬のせいでぽんやりしてました。
話してる言葉も辻褄が合わない様子でした。

でも、
『 あんた、昨日仕事は?』
って、ましな質問を投げかけてくることも。

母親のために、電動ベッドを買いました。それが届いたことを伝えると、意味がわかったようで

『 おー』と、微笑んでいました。
そして、
『 家に帰りたい』と。

お母さん。帰ろうね。絶対に帰ろうね。

私介護休暇貰うから。

お母さんのそばについてるから。

もう少しそばにいさせてください。