85キロを前にして、三たび仮設トイレに駆け込む。
いい加減嫌になってくる。
もちろん、ガスが抜けるばかりで出ない。
しかし、この便意は止まない。
時間的に余裕があるとはいえ、決して楽しくはない。
和式にしゃがむものそろそろ限界だ。
汗ばんだウエアに個室の中でさらに汗が落ちる。
nanoからはグロリア・エスティファンが気だるいスペイン語の歌詞をつむいでる。
歌の名前は覚えてない。
一時スペイン語をやっていたときに教材代わりに使っていた。
Se que aun queda una oppotunidad
まだチャンスは残されているはず。
とかいうような感じの意味だったような気がするが、最近めっきり鳥頭なもので確かではない。
チャンスは残されている、というよりかなり余裕を持ってるはずだ。
が、ワッカの仮設トイレで独り時間を使うこのこっけいな図式はなんなんだろう。
何とかコースに復帰するも、もはや万全ではない。
脚や身体も辛いのだが、かなりの神経が腸に向いている。
が、とにかく進まないと何も変らない。
前に前に、という意識だけで先に進む。
87キロを過ぎたあたりだろうか、前方からDoさんがやってきた。
脚も上がってるし、かなり調子いいみたいだ。
両手でハイタッチを交わす。
「ゴールで待ってます!」
と、反対方向に走り去っていった。
あ、そういえば、手を洗っていなかった…。
もちろん手を洗う場所もなかったのだけど…。
その後、言おう言おうと思って言えなかったのですが、ここに懺悔します。
次のエイドのかぶり水で手を洗う。
しかしいつまで経っても折り返しがこない。
そんなにペースが落ちているわけではないはずなのに、妙にキロ標識が遠い。
やっと「あと1キロで折り返し」との標示がでる。
え?
見えない。そのポイントが視界に入らない。
1キロってそんなに遠いのか?
このころになると、ぽつぽつと雨が落ちてくる。
風も強い。
完全に曇った空のもとで、先行するランナーが列をなしているが、その先の折り返しまでがものすごく遠い。
そして、寒い。
エイドでウエストポーチからゴミ袋を出してかぶる。
これで大分と寒さが緩和される。
木曜日にアートスポーツに行くまではワッカが寒いなんて考えてもいなかった。
晴れたら暑い、そればかりが頭にあったが、現在、インナーとアウターとゴミ袋の3枚重ね。
それでも結構冷えてきてる。
ようやく折り返しに到着。
そういえばポイントポイントで並走してきたメンバーとすれ違っていない。
トイレに行ってるときにパスされた可能性は高い。
が、折り返しまで会わない、というのはどういうことなんだろう?
折り返して90キロ地点前方でchamaさんとすれ違う。
ガッツポーズをしてくれている。
「すごいじゃん、初ウルトラで完走だよ、完走。やったね」
という言葉を貰う。
続いて、トン子さん、マミックさん、カナダさんとすれ違う。
どうやら鶴雅で抜いたようだ。
アートの鈴木さんもやってくる。
顔がゆがんでいるが脚自体は着実だ。
鶴雅で相当辛そうだったN社長もいらっしゃる。
顔に大分と余裕がでてきている。これは間に合うな。
そして最後にOgamanさんがやってきた。
かなり辛そうだが、どうなんだろう。この1年の辛い思いへのリベンジはなるのか?
90キロ関門を過ぎる。
11時間06分。
残り10キロ。
残り時間は1時間54分。
歩いてもたどり着く。
残すところはこの10キロを楽しめばいい。
携帯電話が鳴る。
フチエ女史からだ。
「あと10キロじゃん。もう少し!」
「多分大丈夫。初ウルトラで完走しちゃうよ」
「ちょっと待って、替わるから」
へ?誰に?
「すごいですねえ。ホントに90キロ走ってきたんですか」
あ、会社のK川だ。
ということは休日出勤してるわけね、この人たち。
「いやあ、スゴイですね、頑張ってください。」
こんどは今月末で退職する中国人のLくんの声がする
「お前、ドコにいるんだぁ。XX(フチエ女史の本名)が休出しているのに、北海道だとぉ」
と笑いを含んだ先輩のサトシさんの声も聞こえてきた。
「ま、そういうことだがら、お土産ヨロシク」
とフチエ女史の電話が終わる。
なんか妙に可笑しい。
独りじゃない。
鉛色の空からは雨が落ち出したが、その中を独りでにやにや笑いながら進んでいく。
が、雨脚が強くなってきた。
さっきまで携帯電話で会話をしながら走れていたのに、もうそんなことはできない。
あっという間に水溜りができ、脚を踏み込むと靴の内まで濡れる。
寒い。
そして、再び襲ってくる便意。
95キロを前にして4回目のトイレへ。
雨は激しく仮設の屋根を叩いている。
何分時間を使ったのか、定かではない。
が、完走への時間的猶予はたっぷりある。
再びコースへ戻る。
が、ワッカは雨にけぶり、灰色の海と化したオホーツク海で遠雷が光る。
エイドも店じまいのようで、高校生たちが寒そうに肩を寄せ合っている。
寒い。かなり寒い。
このゴミ袋がなければ相当辛い想いをしただろうな、と思いつつ脚を進める。
が、冷え切った筋肉が走ることを拒絶する。
残り5キロ。
歩こう。
もう、どうやったって間に合うだろう。
タイムを狙っていたわけじゃない。
制限時間内でゴールできればそれでいい。
歩き出した。
当然後ろからきたランナーにはパスされる。
が、もういい。
たどり着けばそれでいい。
やはり歩くと身体的には相当楽だ。
が、運動量は落ちるので当然ますます寒さが堪える。
横殴りの雨の中、キロ標識が進んでいく。
残り、3キロ。
ワッカの出口だ。
坂を上りきり振り返る。
入ったときに列をなしていたランナーももう数えるほど。
ちょっと明るかった空も土砂降り。
でも、ワッカに来て、ワッカを走り、ワッカを去る。
もう見ない光景かもしれないが、やはり一番の場所だった。
トウフツ、って昔はいってたんだよな。
国語の教科書が頭に浮かび、独りつぶやく。
満足したか?
自分に聞いてみる。
が、今答えは出ない。
再度前を向き、最後の森に入る。
坂を下る。
80キロのエイドも撤収がほぼ済みつつあるようだ。
ここからは残り2キロ。
そして最後の直線へ。
この大雨の中、沿道には多くの人が応援に出てくれている。
もちろん、もう何時間も前にゴールしたランナーも声を嗄らしてくれている。
でも寒い。
走れない。
ひらすら歩く。
雨は止む気配もない。
残り1キロになったら走ろうかな、とか思っていたがそれもできない。
寒さが全ての思考を奪っている。
ゴールのアナウンスが聞こえてきた。
その角を右に折れれば残りわずか。
ビクトリーロードだ。
「遅いよ~」
とDoさんとカメKAYOさんが、沿道で応援してくれている。
「写真撮るから、はい、走っているポーズとって」
と言われ、その場で足踏み。
なんとも胡散臭い写真になってるんだろうなあ。
(胡散臭い写真。Doさん提供)
右に曲がる。
残すところはあと80メートル。
昨日下見したゴール地点が、眼の前にある。
この激しい雨の中でも、ビクトリーロードの左右には応援してくれる人が沢山いる。
ゴールの時の写真は独りで撮ってもらいたい。
前後のランナーの間隔を確かめる。
とすると、ものすごい勢いで走りこんでくるランナーがいた。
ここで脚遣うならもっと早いタイミングで遣えばいいのに。
と思いつつ、再度前後の間隔をチェックする。
残りは30メートルだ。
雨脚は強く、風景も霞んでいる。
そこに、100キロのゴールが「在る」。
もう少し、とはこのこと。
あと少し、あと少し、格好をつけてゴールしろ。
走れ、走れ、そこには何かがあるはずだ。
脚を前に出せ。
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2週間経った。
もう2週間、とでもいうのだろう。
日常生活に戻り、あのハレの日は既に遠いところにある。
午前様の残業もあり、L君の送別会も終わり、何事もなかったかのように日々が流れていく。
終わった直後に感じたのは、まあ感情の機微が少ない人間らしく、
「まあ、こんなものか。割と走れるもんだ」
というフルの時と同じものだった。
100キロのゴールしても今のところ何も見つかってはいない。
ただ100キロ走りきった、という事実はそこにある。
アメリカ横断ウルトラクイズのキーワードは
「知力・体力・時の運」
だったが、今回はまさにこの「時の運」に恵まれた。
>出発前のアートの鈴木さんの「寒くなるよ」という情報
>夜久さんの「制限時間内で移動すればいい」という考えかた
>レース前半の好気候
>30キロ付近の仲間との並走
>50キロ前のchamaさんのアドバイス
>ふと思い立ってウエストポーチに押し込んだゴミ袋
どれか一つ欠けたら、相当辛い状況を招いたに違いない。
こんなにも僥倖が重なったのは時が味方したとか思えない。
もちろん十分で無いにしても、それ相応の練習は積んできた。
だからこそ完走はできたのだろう。
でもそれだけでは成しえない。
今回一番強く感じたのは「仲間のありがたさ」だった。
独りじゃない。
この心強さは半端ではない。
長距離になればなるほど仲間のありがたさは強くなる。
並走しているわけではなくても、そこに人を感じられること。
これほど貴重なものはない。
グロス 12時間44分26秒、ネット12時間42分33秒。
初ウルトラ初完走。
そして今回一緒のチームとして挑んだ13人(フル10人ハーフ3人)、
全員完走。
誰か一人リタイアしてたら、きっと心の底からは喜べなかっただろう。
あんなに降っていた雨もいつの間にか止んでいる。
最後に駐車場で、鴇の声を挙げ、みんなで写真を撮る。
ひさびさに心の底から出た笑いだった。(FIN)
FIN (Doさん提供)