*言葉のオルゴール*

*言葉のオルゴール*

気の向くままに、ふらふらと

思うことを、感じたままに綴っています。


気の向くままにふらふらと、日々を過ごして思うことを
感じたままに綴っています。
Amebaでブログを始めよう!

やればできる、ってよく後輩や息子たちに叱咤激励するわたしです。



仲良しさんと、千歳ANAクラウンホテルのバイキングに行きました!

写真とってブログに書いちゃる!
…にわかに沸き上がる野望。

シェフのポットパイを待っている間に、手近なサラダをパシャリ。

お友だちはせっせと写真をとり、サクサクとスマホを操作しています。
聞けばインスタだそう。

ふーん。



片手にスマホを持って、バイキングを取りながらの写真は無理!





皆さん、どうやってうまいこと写真をとり、ブログにのせるのだろうか。

安易に、やればできるって言うのやめよう、って気づいた日。


この1年、以前にもまして「必然なのね」と
素直に思える出会いがあります。
人づてだったり、SNSだったり、そのきっかけは様々ですが、何かご縁に恵まれて。

Amebaのお勧めで見つけて、LINE@のメッセージには、ぴったり過ぎてびっくりして。
会いたいに理由などなくて「この方好き❤」のファーストインプレッションだけ。

偶然が重なり、お会いできた喜び✨
ブログより、数倍明るくて純粋で、まるで子供の頃に戻ったような楽しい時間は、あっという間に過ぎました。

またね、とお別れしたあと、すっと背筋が伸びて、自分らしく、楽しく幸せに生きていく❗って思いました😄
アラフィフのわたしも、まだまだ人生を開花させていけると思える、軽くて暖かい光を胸の奥に頂いて。

この先何かに悩んでも、陽子さんとならきっと答えが見つかる、そう信じられる。

巡り会えた奇跡に感謝です!
これからもよろしくお願いいたします。


 
「いつやるの?いまでしょ!」って、ちょっと前に流行っていたこと思い出しました。
 
最近、仲良くしている友人から、男女問わず恋愛相談を受けることが多いです。
みんな、真剣に悩んでいる。
でも・・・・
でも・・・・
 
 
「それって幸せなの?」って思うことも多い。
「彼が離婚してくれない」とか、「彼女が鬼電してくる」とか、原因はそう、あなたですね?・・・と何も言えなくなってしまうことがあります。
 
結婚しているとか、年上とか年下とか、そういうことをふわっと飛び越えて、ワクワク・ドキドキがあるから楽しいのであって、
あまりにも生活に密着してしまうと、お互いの「管理」でしかないよ、とは言います。
でも「私の思うとおりに行動して、思うとおりにリアクションして」という要求が高いから、相手の言動が気に入らない。
だから私に相談するのよね?と思うのです。
 
12年付き合った恋人と、別れたいけど切り出せない・・・なんて悩むのは、ナンセンス。
何のための時間なのか、わからない過ごし方はもったいないです。
いやならやめたらいいし、続けるなら楽しんだほうがいい。
そしてそのほうが、相手にとってもずっと幸せなことだと思うのです。
 
この先がいつまで、どうなっているか、なんて誰にもわからない。
終わった過去がどうだったかなんて、何回巻き戻して検証しても事実しかない。
 
だったら、いつでも「今この瞬間」を、存分に楽しく幸せだと思えるように過ごしたほうがよい、と思います。
もちろん、相手のあることだから、不満に思うことやもやもやすることだって、多少はあるけれど。
あんまり見えすぎていやなら、ちょっと肌の肌理なんてわからないくらいに離れてもみてもいいし、もっと離れて目が開いているのかどうかさえ、ちょっとみではわからないくらい距離を開けるのも、時にはいいかもしれません。
それで万一見失ってしまったら、それはそれ。
違うワクワクをみつけるだけのことでしょう?
 
今、この時は今しかない。
そう考えると、もっともっとやりたいことや、楽しむことに時間を使いたくて、不実な恋人のことで、くよくよするのはもったいないです。
その時間でお肌の手入れをしたり、明日の洋服を合わせてみたり、自分らしく輝くことをしたら、ちょっとだけ前向きになれます。
そして恋人に会うときは、その「今の瞬間」を楽しんで過ごせば、別れ話であったとしてもハッピー、と思います。
 
かくいう私は、深夜にシートマスクを張り付けてアメブロで遊んでいます(笑)
それもまた私なりの、今の楽しい過ごし方であったりもします。
 
人生は長いようで短い。
だったら、もう十分悲しい思いやつらい思いはしてきたから、これからは楽しく幸せに過ごせることだけ、選び取っていく。
そう決めています。
今というこの瞬間を最大限輝く時間にするために。
そして今が積み重なって、輝く軌跡が私の後ろにつながっていたらいいな、と思います。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

「貸すならあげるつもり」ではあったのだけど。
最初からもらったつもりでいるのかな?、ってふと思い出すことがある。

信用して貸した自分の責任ではあるものの、やっぱりちょっと甘いのかもしれない。
まあ、うっかりお財布にお金が入ってなくて、びっくりすることはよくあるけれど(笑) 
嘘をついてまで、誰かからお金を借りるほど、追い詰められたことがないからかもしれない。

仕事のかかわり合いではあるものの、人として信用できる人だった。だから突然退職して、それも金銭絡みで…って聞くと、驚きを通り越した衝撃で、何も考えられないゾーンまで到達した。
たぶんわたしの持っているその人に関するデータベースでは、処理しきれないのだと思う。
「とにかく困っている」ことは、何となくわかったけど…
お金が絡んだから、裏切られたように思うのかも知れない。


忘れられない思い出がある。
卒業してすぐ、銀行に勤めていた。
ある初夏の夕方、とっくに3時は過ぎて、裏口からお客様が出入していた。私の目の前に、馴染みの小売り店主のかたがいらした。
1枚の数万円の小切手を落とすために、午後から何度か見えていた。
カウンターで、子供の貯金箱を目の前で割られた。こぶたのお腹には数枚の千円札と、両手いっぱいの小銭が入っていた。
私のうしろに、上席の男性が二人、立っていた。
私は大急ぎで、お金を数えた。1万にも満たなかった。

店主のかたはガックリし、外に出ていった。
上席の指示で、私は窓口のお金を締め上げて、出納にわたす。私の窓口だけが締まらないので、全体が締め上げを待たれていた。
無事に勘定は合い、ぱらぱらとみんな帰り始めた。
私は、待つよう指示されて、窓口に座っていた。
ほどなく店主のかたが、守衛さんに伴われていらした。古めかしいアルバムに貼り付けた、昔の紙幣を剥がすことになった。私たち職員ではなく、お客様に剥がしてもらう決まりがあった。粘着した台紙に貼り付けたお札を剥がすことは、容易でなく、紙幣を破ることになった。
破損した紙幣は、確認してからでないと扱えない決まりだった。まして使えなくはないが、いまは流通していないものだ。

店主のかたは泣いていた。
私は、なぜだか悲しくて悲しくて、貰い泣きした。破れたお札を、震える手で店主のかたがカウンターに並べた。
うしろの上席の一人が、自分の財布を出して、破れたお札を確認して、同じだけの現行紙幣に両替した。
私は、上席から受け取ったお札を入金処理した。
…まだ、6,000円位足りなかった。

もう一人の上席が、店主のかたと応接に入られた。30分程して、店主のかたが1万円札を差し出した。「これで」と。
私が1万円の伝票を書こうとしたら、上席から「6,500円入金して」と言われた。お釣りを渡すと、その場で土下座してお札を言われた。
守衛さんに肩を支えられながら、二人の上席に付き添われながら出ていく店主のかたを見送り、ふと時計をみたら20時だった。

一月もたたずにお店は廃業した。
後にこのことを上席と話すことがあった。
 
あのまま帰したら、店主のかたが死んでしまうのではないか、それが怖かったからさ、と力なく笑った。お釣りを渡してよかったと言われた。

駐車場まで送って行ったら、車に家族がいたそうだ。別れ際「今日は遅いから、ラーメンでも食べて帰ってください」って上席が言ったら、お子さんがパアッと明るい顔をしたと。
「きっとご飯も食べないで、家中お金を探して来たんだと思って、1万円の入金にしなかった」

あの時の店主のかたに、偶然スーパー銭湯で会って、声をかけられた。20年以上経ったのに、よく覚えて下さっていた、と思った。
お嬢さんに子供が産まれた、と聞いた。


お金がなくても生きられる方法はあるのかもしれないけれど、今の日本では恐らく無理な気がする。
だから、お金を貸してと言われて、断ると見殺しにするような、後味の悪い後ろめたさもあった。

でも、今ならあっさりと「ごめんね。お金の貸し借りはしないの」て言える。
厳しいと思われても、それで離れる関係ならそれまでのことだから。