全然準備をしておらずに考えていることを書くだけなのですみません。
「日本の作家で世界にも広く読まれているのは?」という質問があれば、それはやはり村上春樹と吉本ばななのツートップになる。 多分現在でもそうだろう。
そして、批評家の大塚英志は、その卓越した村上春樹論(著作のタイトルを失念してしまいました)において、ある論文の中で、村上春樹と吉本ばななの違いを考察していく。
まず、明らかな違いは、海外(主には英語だ)での彼らの翻訳本の表紙だそうだ。
どういうことかというと、吉本ばななの翻訳本の表紙は、いかにもどこにでもありそうな、つまり日本で売っているばなな作品の表紙とそう変わらない表紙らしい。
しかし、それに対して、村上春樹の翻訳本というと、例えば歌舞伎の絵がのっているやつがあるらしい。傾向的には、日本の伝統を思わせるような表紙が多い。
これらは重要な客観的事実である。 というのは、村上春樹がずっとノーベル文学賞候補に挙げられるように、村上春樹は「日本の偉大な文学者」として、流通しているということである。
それに比べると、吉本ばななの作品は、世界中のどこに言っても普遍的に見られる、楽しい・受け入れられやすい小説やエッセイ、という位置づけになる。
さて、この仮説を、次に内容面を検討することで試してみよう。
まず、肝心の作品の中身である。
それは、村上春樹だと、「ダンキンドーナツ」「コーヒー」「ホテル」「シガレット」と言った、このグローバル資本主義社会においてどこでも確認することのできるような固有名詞が見つかる。
そして、村上春樹は、ほとんど舞台の地名を明かさない。「舞鶴」とか「難波」とかの名前は彼の作品には一回も登場しない。
ちなみにであるが、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』においては、「ヘルシンキ」という固有名が登場する。 確かスウェーデンかどっかの有名都市である(なんで国名が思いだせない…)。
それにおいてすら、「日本の」街の名前ではない。かろうじて日本からはわりと離れた北欧の都市である。
さて、うってかわって、よしもとばななの作品においては、地名のオンパレードである。面白いタイトルの「なんくるない」の舞台は沖縄であるし、確か1P目から沖縄ということを明言していた気がする。
「アムリタ」は高知とサイパンだし、「アルゼンチンババア」に至ってはタイトルにもう地名が書いてある。
彼女の代表作のひとつ、「キッチン」においては、主人公と恋人が「吉野家の牛丼」を食べてお互い心の距離を縮める暖かいシーンがある。 「吉牛」は2010年代の今でこそやっと世界にも店舗をもつようになったが(多分)、「キッチン」は1988年の作品であり(注1)、そして1988年はソ連崩壊の3年前であり、吉野家はニホンの食べ物の代表であり、世界進出などは一ミリも起こっていなかった。
※注1 Wikipedeaによると、「キッチン」が単行本化されたのは1988年だが、あの海嚥賞を取ったのは1987年らしいので書かれたのはそれ以前であるという事である。
つまり吉本ばなな作品には固有名詞がたくさん存在する。なのに、なのにである。なのに、世界でどこでも普遍的に受け入れられる。 これはどういうことだろうか?
村上春樹の作品には、固有名詞は存在せず、しかし表紙はとても「日本」を思わせるものばかりである。
ここまで書いて、私は両者の本質的な差異が分からなくなってしまった。 村上春樹がノーベル賞候補なら、吉本ばななだって同じくらい候補に挙がってもよさそうなものを。
ここで出てくるのが、「文学的」というイメージである。
確かに、村上春樹はどちらかというとなんか文学的ぽい所が相対的に強く、対して吉本ばななはポップで大衆作品に属している気がする。
ここで、(高級?)文学/大衆、庶民作品 の差異がいったいなんなのかということをさらに考察する余地があるが、それは本論で言いたいことの範囲を超えているし、とても難しい問題なので、このへんで筆を置く。
ちなみに私の直観では、ハイカルチャーと大衆作品に本質的な差異などといったものはないが、お互いの傾向性が、量的にあるんじゃないのかなぁという気がしている。 質的な差異ではない。 しかしそれはここでは証明できない。
(終わり)