短編小説です。
 最初から構成について話すとつまらないので何も言わずに載せたたいと思います。
短編でも、これで終わりではなくて、今後書いてつづきを載せていきたいと思います。




光枝 初朗




 姉は、生け花の名手だった。
私は物ごころついた頃から、姉が生け花をやっているのを眺めていた、と思う。これはもうはっきりとしたことだ。姉が畳の部屋にて狂おしいほど物静かに、厳かに花をひとつひとつ活けているイメージが、今でも鮮明に思いだせる。色とりどりの花たち。
 いくぶん身勝手な順位に生まれた次女の私は、好きに習い事をやってよかった。それで、姉の生け花を眺めるのが好きだったのである。自分ですすんでやりたいとはとても思えなかった。幼稚園の真ん中の年次のころ、当時仲のよかった子がピアノを習いだしたのがうらやましくて、それで私もはじめてみた。思ったよりも楽しい世界だった。
 お金を惜しまない親の努力と、我慢強い指導のおかげで、私はこうして大学までピアノを弾いている。私と姉は、おそらく一つのことを割かし長続きできる性質なのだろう。嬉しく思う。

 姉はよく剣山で指にけがをしていた。
生け花を志す人ならよくあることなのだろう。私は剣山が昔から苦手だった。その先端の細さと鋭利さを思い浮かべるだけで、剣山が丸ごと頭から落ちて、大量に血を流して死ぬことが想像さ
れた。私はその度想像の中でみじめに朽ちていった。
 母は姉に期待を寄せていた。それでも極めて優しい母だった。私たち二人のどちらにも。
姉が生け花のことで母に叱られたあと、剣山でケガした指をそっと舐めた時があった。あれほど深く紅い血を私は見たことが無い。それは姉の透き通った肌や、着ていた純白の唐衣との対称
でも際だっていた。紅い血。あの光景ほど、私が胸を痛めたことはない。姉はまだ子供心ながらに母に叱られたことで自分を悪く思いながら、官能的にも見えるしぐさで自分の傷ついた部分をそっと舐めていたのだった。






(現代、妹 篇)

推敲する余地はマダありますが、そのままのを。  散文詩です。




声 


       蜜江田初朗


…内、内なる生命のほとばしり、たとえばそれが〈一〉ではなくけっかとして〈二〉に分かれるようなことがあるのですか?



たった今述べた「けっかとして」という言葉は誤りでしょうか。



 しかしたとえば。真実を知ったからといって、それが何になるのでしょう。真実を知る、そのこと自体は大切ですしかし、認識主体が十人いればおそらく各々が覚知する「真実」も十通りになるでしょう。だからたった一つの真実というものは存在しない。

 そう、違うのです。たった一つの真実は存在しないからといって、じゃあ真理探索はやーめだやーめだ、というのもまた違う。

 大切なのは、まず自分なりに真実までたどりついてみること――それが君のための真実であるという視点を必ず忘れないように――、そして、そこからいかに「世界」を「変革」できるか、ということなのです。



 自分なりの真実までたどりついたとき、世界は自分でもある、世界の一部は自分であることに気付くはずです。この時点で、「自分探しの旅」は終わります。




 そして私は、それまで自分が抱えていた痛みや苦しみを、抑圧―隠すのではなく、別の方法を探した。



 つまり、自分のなかで経験された苦しみや、痛みは、他の人も味わっているかもしれない、いや少なくない人が味わっている、と思った。



 それは、精神病でもいいし、集団内での孤立でもいいし、秩序や伝統にうまくなじめないことでもいいし、現代の労働形態に苛立つばかり、とか、なんでもいい。



 この弱さを、痛さを、別の方向に持っていけないか。

世界の一部に自分がいると再確認できたとき、私はやはり何らかの「力」を行使して、この行動をしていく。力かもしれないし、意志かもしれないし、好運かもしれない。




 〈一〉でも〈二〉でもない、さらにいえばヘーゲル的弁証法=〈三〉でもない方向へ――。 世界は数的であったし、これからもそうである。



 冷えた思考と情熱を秘めた感性が人間に希望をもたらしてくれるだろうと願いながら、この声=文をひとまず終わらせる。(了)

























 情熱の国・スペイン。


 前回大会では、情熱の精神を持ったシャビなどの芸術的/詩的なプレイに加え、全体としてはシステム・サッカーとしてのパスサッカーをみごとに完成させ、優勝という責務を果たして見せた。


 なぜ、そのスペインが、今回もっともはやく一次リーグ敗退を決めてしまったのか。


 それは、やはり結論から言うと、主にはメンタルの問題がある。


 オランダのあまりの5バックの体制に、スペインはたじろいでしまった。


なんとチリにいたってさえ、オランダのかたすぎる守備を守ることができなかった。


 そしてパスサッカーを超え得る5バックの守備に、スペインは情熱と詩的な心を忘れて、完全に打ち砕かれてしまったのだ。


 今回のワールドカップの開催国は、ラテンの国・ブラジル。


日本の80年代的(ディスコブーム的?)、スコールと蒸し暑さを繰り返す”狂った”ムードで、全ては混乱する。破壊する。酔いしれる。


 その中で、不屈の精神と、見事な統一を見せた国が、優勝するのだろう。



 ヨーロッパからの期待の綱は、もうドイツとフランス、もしかしたらイタリアの意地があるのかもしれない。


アフリカからはナイジェリア、そして中田英寿の友人たるラムシ監督率いるコートジボワール。


南米からは、ブラジル・アルゼンチン・チリ・そしてコロンビア。



アジアにいたっては、もうイランくらいしか頼みはないだろう。



残りの枠を、誰がどう取っていくか。とても楽しみである。


 ちなみに、スペインはオーストラリアを相手に、3戦目にしてようやく落ち着きを取り戻し、自分達の強い、そして芸術的なサッカーを見事に果たしてみせた。


ういろう


 全然準備をしておらずに考えていることを書くだけなのですみません。



 「日本の作家で世界にも広く読まれているのは?」という質問があれば、それはやはり村上春樹と吉本ばななのツートップになる。 多分現在でもそうだろう。


 そして、批評家の大塚英志は、その卓越した村上春樹論(著作のタイトルを失念してしまいました)において、ある論文の中で、村上春樹と吉本ばななの違いを考察していく。



 まず、明らかな違いは、海外(主には英語だ)での彼らの翻訳本の表紙だそうだ。 


どういうことかというと、吉本ばななの翻訳本の表紙は、いかにもどこにでもありそうな、つまり日本で売っているばなな作品の表紙とそう変わらない表紙らしい。


 しかし、それに対して、村上春樹の翻訳本というと、例えば歌舞伎の絵がのっているやつがあるらしい。傾向的には、日本の伝統を思わせるような表紙が多い。


 これらは重要な客観的事実である。 というのは、村上春樹がずっとノーベル文学賞候補に挙げられるように、村上春樹は「日本の偉大な文学者」として、流通しているということである。


 それに比べると、吉本ばななの作品は、世界中のどこに言っても普遍的に見られる、楽しい・受け入れられやすい小説やエッセイ、という位置づけになる。


 さて、この仮説を、次に内容面を検討することで試してみよう。



 まず、肝心の作品の中身である。


 それは、村上春樹だと、「ダンキンドーナツ」「コーヒー」「ホテル」「シガレット」と言った、このグローバル資本主義社会においてどこでも確認することのできるような固有名詞が見つかる。



 そして、村上春樹は、ほとんど舞台の地名を明かさない。「舞鶴」とか「難波」とかの名前は彼の作品には一回も登場しない。


 ちなみにであるが、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』においては、「ヘルシンキ」という固有名が登場する。 確かスウェーデンかどっかの有名都市である(なんで国名が思いだせない…)。


 それにおいてすら、「日本の」街の名前ではない。かろうじて日本からはわりと離れた北欧の都市である。



さて、うってかわって、よしもとばななの作品においては、地名のオンパレードである。面白いタイトルの「なんくるない」の舞台は沖縄であるし、確か1P目から沖縄ということを明言していた気がする。


 「アムリタ」は高知とサイパンだし、「アルゼンチンババア」に至ってはタイトルにもう地名が書いてある。


 彼女の代表作のひとつ、「キッチン」においては、主人公と恋人が「吉野家の牛丼」を食べてお互い心の距離を縮める暖かいシーンがある。 「吉牛」は2010年代の今でこそやっと世界にも店舗をもつようになったが(多分)、「キッチン」は1988年の作品であり(注1)、そして1988年はソ連崩壊の3年前であり、吉野家はニホンの食べ物の代表であり、世界進出などは一ミリも起こっていなかった。


 ※注1 Wikipedeaによると、「キッチン」が単行本化されたのは1988年だが、あの海嚥賞を取ったのは1987年らしいので書かれたのはそれ以前であるという事である。



 つまり吉本ばなな作品には固有名詞がたくさん存在する。なのに、なのにである。なのに、世界でどこでも普遍的に受け入れられる。 これはどういうことだろうか?


 村上春樹の作品には、固有名詞は存在せず、しかし表紙はとても「日本」を思わせるものばかりである。



 ここまで書いて、私は両者の本質的な差異が分からなくなってしまった。 村上春樹がノーベル賞候補なら、吉本ばななだって同じくらい候補に挙がってもよさそうなものを。


 ここで出てくるのが、「文学的」というイメージである。


 確かに、村上春樹はどちらかというとなんか文学的ぽい所が相対的に強く、対して吉本ばななはポップで大衆作品に属している気がする。



 ここで、(高級?)文学/大衆、庶民作品 の差異がいったいなんなのかということをさらに考察する余地があるが、それは本論で言いたいことの範囲を超えているし、とても難しい問題なので、このへんで筆を置く。


 ちなみに私の直観では、ハイカルチャーと大衆作品に本質的な差異などといったものはないが、お互いの傾向性が、量的にあるんじゃないのかなぁという気がしている。 質的な差異ではない。 しかしそれはここでは証明できない。


(終わり)



 自分は、文学作品にあまり詳しくない。哲学は、20の時以来一生懸命に読んでいるけれども、その忙しさ?も手伝って、「普通の本好き」くらいしか読んでいない。


 だけど、前から「フランス」というのは軸にして、哲学でも文学でもある程度の座標を占めている。


そうしてやはり、フランス哲学といわれるものにも、一定の傾向があるのが分かり、まぁぼんやりとではあるのだが、どういう傾向に自分が魅かれているのか、もおぼろげながら分かったりする時がある。


 サルトルの『自由への道』。 第三巻まで、岩波文庫の読みやすい版のおかげで楽しんだ。

サルトルは戯曲もうまいと聞いているが、『自由への道』からでも戯曲がうまいんだろうなぁということが分かる。


 登場人物たちは悲哀な運命をたどるにもかかわらず、きらきらした美しいシーンが多い。


 ル・クレジオの『調書』には、叙述スタイルからしてやられるところがあった。 なんだろう、この小説を一言で表すとしたら、照りつける太陽の下、砂の上で喉が焼けるように乾いていく、そのぬめりのような、でもそのぬめりは美しい、といったかんじだ。あまり日本語にはなっていないが、とにかくそんな、とろみのある美しさがある。


 ドゥルトゥール『少女と煙草』。これはいかにも現代的な作品だと思った。風刺めいているし、しかししつこくはなく、そのあっさりとした感じがいかにも現代っぽい。


 ゾラ『パリの胃袋』。 ゾラはたんたんと書くイメージ。 『パリの胃袋』では、パリの食の風景がまざまざと語られるわけだが、そこに展開される人物関係も全て「パリ」という概念一つに収斂していく趣があって、面白い。


 シャン・サ『碁を打つ女』。 彼女の文体は非常にあっさりとしていて、無駄を省いているという感じ。まだ文豪と呼ぶには程遠い気がするが、その短い文節と構成は、美しさに向けられている。 物語は普通になじむことができて、なかなか大衆にも開かれた作家だと思う。



 あとは、ウェルベックだとかバタイユの小説とか、古典だとスタンダール『赤と黒』、バルザックだとかもあるが、ほんとまだまだだなぁ。


おいしいものをつまみ食いしていきたいですね。