2015年7月7日(火)友引

先日、利他についてブログを書いている時、たまたま出てきた考えに、モノの経済学からコト(≒心の豊かさ)の経済学というものがあった。(自分でも不思議なものなのであるが、これは予め考えていたことではない。たまたま書いている時に浮かび上がってきたことなのである笑い。あしからず。。。)この考えは、私が今まで研究してきた経済学にちょっと通じる気がしたので、考えてみた

私は長らく、情報経済学やコンテンツビジネス、サービスマーケティング、行動経済学なるものを研究してきた。すると、どうも今の経済学になじまず、なんともしっくりこない感じがあった。で、出てきたのが、コトの経済学である。これはそれら全てを包含しているような気がして、これを突き詰めてみようかと思った。

さて、モノからコトへ、と言われて久しいわけであるが、どうもこの考えは進みずらい。というのは、経済学には、消費という考え方がベースにあり、モノの消費は目に見えるが、コトの消費は目に見えずらいという弱点がある。人間は、目に見えるものには合点が得やすいが、目に見えないものはトンと受け入れない。極端な話をすると、食わず嫌いの拒絶反応さえされてしまう。そのため、まずもって聞く耳さえ持たないような状況に陥る。すると、どうなるか変化などから目をそむけ、いざ気付いてみたら崖っぷち、なんて状況はよくある話。そもそも、モノの消費とコトの消費の大きな違いは、所有の概念にある。人は、所有というと、手元や身近にあるものばかりに注目し、共有などという概念は蚊帳の外に追いやられる。簡単な話、汗水たらして働いて購入した、モノは丁寧に取り扱うくせに、汗水たらして働いている間に構築した仕事上の関係などは目先の利益に関係ない場合は蔑ろにされる。これらは、どちらも同等なのですが、どうしても大切にしていることが、モノになり、コトではなくなるのである。社長などという生き物はまさしくこのジレンマで、会社を残すために、人員整理をする。(そうしない社長もいるでしょうが。)そこで培われた仕事上の関係を簡単に崩すのである。重要なことは、会社ではなく、その人との信頼関係であるはずなのに、である。(そもそも信頼関係なんてない、などという社長もいるでしょうが。。。そういう会社は、早晩なくなっていっているのも事実です。)

最近の社会で求められている人間像として、勉強ができる人よりもコミュニケーションができる人に変化しつつある、ということが話題になることが多くなってきている。これは、まさしくモノの経済学からコトの経済学へ移行している象徴なのかもしれない。コトの経済学の世界では、会社に何年いるとか、記憶力がいいとか、会社を残すためにどうするかなどと考えているようでは、早晩必要なくなる世界なのかもしれない。その世界で必要なことは、社会全体でどのように共有するのか富の概念においても貨幣の量ではなく、愛の量へと変化していくのかもしれない。(愛の量などというと、恥ずかしがる人たちもいるでしょうが、それがまさしくコトの経済学でして。。。)さばさばとした、隣は何をする人ぞ、などと言っている世界ではなく、隣近所が困っていたら、助け合う、まさにお互い様の社会なのかもしれない

今の日本では、おもてなし、でさえ、貨幣価格を付けようとしている。おそろしい限りである。そこには、数値では表すことができない何かが存在しているはずなのに、その何かを解き明かすことなく数値化する。モノの経済学がそこにあり、コトの経済学は無視される。コトの経済学の分野には、文化があり、文明があり、個人がある。それが各国、全国で違いがあるからこそ、旅は楽しいのであり、知りたいと思うのだろう。インターネットが拡がった社会では、どこもかしこも情報が得られ、どこもかしこも同じような形を作りたがる。正直、個人的には東京には何らワクワク感がない。ワシントンでさえワクワク感がない。仕事で行っているだけですね、というのが、個人的感想。しかも、その仕事でさえ、貨幣を稼ぐためのものである。

昔のドラマで、そこに愛はあるのかいなどと言っていたものがあったが、今ではそんなことさえも陳腐になるような、愛のない世界が拡がってしまった。おそらく、これからの社会は、そんな人間愛を取り戻す作業に入っていくのかもしれない。(それは、過保護とは異なる。あしからず。)それが、コトの経済学の本質にあるような気がしている。そこには、消費などという言葉では語ることはできない何かがある。それは、消費した後の補充なのかもしれない。コトの経済学における、共有や補充について、今後もちょっと笑い考えていこうかと思う。。。
2015年7月5日(日)赤口

昨日、もったいない学会のサロンにて、今、地球上で起こっている問題点について議論があった。もったいない学会では、問題はオイルピークが前提にあり、そのために現在の延長線上にあるような経済成長はありえない、科学技術の進歩もありえない、ということである

たまたまであるが、昨日の朝、ラジオで瀬戸内寂聴、稲盛和夫の対談をおさめた「利他」という本の話をしていた。利他とは、コトバンクによると「他人の福利を願うこと。自分を犠牲にして,他人に利益を与えること。仏教用語では,人々に功徳,利益を施して救済すること。」とある。どうやらこの利他という精神は日本人には適しているが、海外の人には迷惑なこともあるらしい。(というのは、海外は個人主義が強いため、利他の精神を発揮されると、自分もその精神を強いられている気がするらしく、息苦しくなるらしい。そのために、論文として利他的な人は嫌われる、みたいなものが発表されていた。が、これは海外の論文であり、日本人を対象としたものではない。あしからず。)

この二つの出来事を照らし合わせてみると、どうも日本人がこれからの世界を牽引できるだけの素養が見えるにもかかわらず、そのことに対して、聞く耳を持っていないような気がする。というのは、サロン終わりの懇親会で、ヨーロッパの人々は、オイルピークを知っていて、経済成長もあり得ないといことも知っているということの話があった。しかし、日本人は知っていない。興味がないかというと、知れば興味は生まれる。(たまたま、お店の店員さんが聞いてきた。興味深そうに聞いていた笑い。)問題は、地球温暖化などではない。今の生活からのマインドセットにあるのだと思う。今の生活を進めていくと、ほぼすべての仕事は奪われる。奪われると、流通などといったサービス業は崩壊する。当然、金融サービスも同様である。いわゆる、より人間の生活に近い産業しか残らなくなるのである。このことに気付いているのか、いないのかおそらく、日本人の多くは気付いていない。どうも、今のままの生活が続くような感じを持っているらしい。(一部では、このことに気付いて動き出しているが、それも一部であり、どちらかというと、海外に出ていった秀才たちのほうが日本に密かに戻りつつあるらしい。)

経済学に片足を突っ込んでいる身からすると、日本の経済学界の不甲斐なさを覚える。というのは、日本の経済学界は、欧米、とりわけアメリカ経済学界ばかりを見ていて、足元の日本経済学界を見ない状態が感じられる。そのために、日本の状態とは異なるにもかかわらず、アメリカ経済学界が言うのだからと、それに迎合する。いまだに、対等な状態は作れていないのである。それに反逆しようものなら、数の原理で押しつぶされる。そのために、真実が語られず、不都合な真実となる。それはそうである。日本がアメリカのお財布なら、お財布は言いなりになっているのがアメリカにとって都合がいいのである。お金の価値は、社会に対する富の量である。言いなりで、モノを作り超効率的に供給してきた日本は、まさに世界に富を供給してきた優等生である。その優等生をアメリカは手離すはずもなく、そんなことに異論を唱える者がいようものなら、つぶしにかかるのは火を見るより明らかなことであろう。しかし、今の日本はそれが過去の遺産になりつつある。というのは、富の生産において、モノの供給から心の豊かさ(≒コト)の生産に移行しつつあるからである。これは世界の兆候であるのであろう。

だからこそ、利他を理解できる日本人、もったいないを理解できる日本人が、世界を牽引できる素養を兼ね備えていると言えるのだが、それが抑えられている。突破できずにいる。残念なことだ。牽引の形も、今までのような誰かが引っ張っていく形ではなく、周りと協調しながら方向性を指し示す、いわゆるファシリテーターのような形である。誰も、何かを押しのけて引っ張っていくような形とは言っていない。協調型のリーダーの形なのである。牽引型のリーダーは、これからの時代には駆逐される。アラブの春でそれを駆逐したはずなのに、その後の政治においては、アメリカが主導して牽引型を構築しようとしている。ので、うまくいかない。当たり前の話だと思う。

今の日本政治も、牽引型で首相を筆頭に引っ張ろうとしている。が、それが限界にあることに気付いていないことが懸念される。少し怖い気がする。これからは、政治に依存することなく、日本人本来の強みを強みと変えて、ひとりひとりがフォロワーシップを持ったリーダーとなって行動することこそが求めれているような気がする。そんな議論が起こることを祈っている。ここには、当然ドンパチの争いは存在しない。お互いの話し合いで納得しながら進めていく形になる。今年度のもったいない学会の大会(2016年1月23日東京にて開催予定。できれば多くの人に参加してほしい。)では、そんな議論がされるらしい。マイナーな学界ではあるが、しっかり議論をしてほしいと思う。そして、日本の学術界にも一石を投じてほしいとも思うのでした。。。
2015年5月31日(日)大安

昨日ラジオで、帝京大学ラグビー部監督である岩出雅之氏が著した「負けない法則」の内容について話されていた。その中で印象深かったのは、その負けない法則のまとめのところで書かれているという、最後は誠実にやったものが負けない、ということであった。(記憶が曖昧ではあるが、なんとなくそんなことを話していたのだと思う、、、あしからず。)

最近の若者と対峙していると、どうもそのことができていないようですっきりしなく思っていた。誠実とはどういうことかいろいろと考えはあるようだが、ネット上で調べたところ、そのいくつかとして、「自分の信念に1.一貫性があり、常に1.謙虚に学ぶ姿勢を持ち、困難な状況にあろうとも1.勇気をもって臨めること」とあったり、「1.真面目 1.正直 1.素直 1.嘘が嫌い 1.まっすぐ人と向き合う 1.仲間を裏切る行為をしない 1.悪口を陰で言わない 1.自分が決めたことは最後まで貫き通す」とあったりするようだ

先日は別のところではあるが、出る杭についての議論において、部分最適と全体最適において、部分最適の悪いところには、人間の業があるといったことが言われていた

そんなことを組み合わせて考えていくと、誠実とは「自己の我儘ではなく、仲間を思いやりながら正直に一生懸命に生きる姿」にあるのではないか、と考えた。難しいのは、仲間を思いやりながら、の部分である。仲間とは、あらゆるプロジェクトに集まってきたその時々のメンバーである。仕事であれば会社の仲間であり、大学のゼミであればそのゼミに集まった仲間であり、部活であればその部活に集まってきた仲間である。この集まってきた状態を考えると、自分の出世のためとか、自分ばかりとか、とかく自己の我儘が出やすくなるのだが、そこで我儘が出た時には、そこには誠実さはなくなり、その組織や広く社会は衰退していく。この話をしていくと、信念を貫くために頑固と比較されることもあると思うのだが、そこは謙虚な姿勢で臨み、その自分の持っている信念も、ときにブラッシュアップすることも必要になることを忘れてはならないのだと思う。このブラッシュアップの仕方を間違えると、頑固になり、誠実さがなくなることも出てくる。まずもって、難しい。今の政治家は、まさにこの誠実さが欠けた状態なのだろう。いつの間にか、頑固になっているのだと思う。そこには謙虚さがない。そうなってくると、仲間を思いやることができなくなり、仲間は離れていき、協力することや協力してもらうことを忘れてしまい、できることもできなくなる

昨日、ゼミ対抗のソフトボール大会があった。うちのゼミは、普段はそうでもないのだが、そういったくだらないと思えるようなイベントでさえ全員参加、一致団結して臨むことを常々言っている(つもりである笑い。)それは、これから社会に出てから、多くの理不尽に出会った時でも、誠実に対応していれば、いずれよい状況に導かれていくことを感じさせることにある。が、昨日の大会では、この誠実さがなく、仲間を裏切り、自己の我儘を存分に発揮していた。ゆえに、負けた。一番すっきりしない負け方である。部活でもそう。今の状態は、自己の我儘のみで、平気で仲間を裏切っている状態にある。いつ練習する、という約束も、バイトを理由に平気で休む。何人もの仲間が集まっているのにである。(少なくとも、私が行っている。)何やらわからないが、違うチームだからと、その時々に集まる仲間ではないと拒絶し、(もしくは自己弁護をし、)仲間にさえ加わろうとしない。そこには、誠実さなどかけらもない

私は言いたい。そんなことでは幸せな人生は待っていない、ということを。なぜ、誠実さを求めるのか、というと、そこは幸せな人生を望んでいるからなのではないだろうかそこでは自己の我儘をコントロールしなければならない。そんなことを理解しながら、謙虚に一生懸命に生きることが幸せな人生なのではないだろうか生きていく中で、時に戦わなければならないことが生まれるが、それは相手に誠実さがないときだろう。やはり、これからの自分の人生、ひいてはこれからの社会で必要なことは、この誠実さにあるのではないかと思うのです。。。