びっくりした。

もう、12月ではないか!

 

今は 自分に何のノルマも課していないから

特段 焦ることもないのだけれど、

何となく12月って 落ち着かない気分になってくる。

 

5月頃から のんびりと断捨離を始めて

少しずつ暮らしやすくなってきた。

お片づけが趣味だから もともと片づいてはいたのだけれど、

収納された持ち物を思い切って減らしたことで

想像以上に 心が軽くなったのだ。

この快感がたまらなくて、

もっと減らせるものはないだろうかと 家中を歩き回って物色し、

下手に捨てて、もう一度買う羽目になったものさえある。

 

それでも、手放して後悔はしていない。

以前持っていたものより、より今の自分の暮らしに合ったものを買い直せたからだ。

自分はこれからどうありたいかが、明確になってきたのだろう。

 

今日はFacebookをお休みする手続きをした。

Facebookは 仕事をするなら必要だと考えていたけれど、

本当にそうだろうか?

なければないで 何とかなるのではないだろうか。

色々な方々と繋がれる便利なツールだが、

今しばらくは 自分の内側を静かに見つめていたい。

外のことに気を散らしたくない気持ちになったので停止することにしたのだ。

 

目に見えない、自分でも気づかなかった諸々の呪縛から少し解放されて、

また仕事に対する意欲が湧き始めた。

来年から ボチボチ準備を始めましょう。

 

ひとつだけ決めているのは 焦らないこと。

焦れば視野が狭くなる。

焦りはどこかで小さな野望と繋がっている。

もう、そういう野望はいらない。

どうせたかが知れた人生だ。

のんびり空を渡る雲から ざっくりと世界を眺めるような気分で

楽しみながら生きてゆくと決めた。

 

数年前にHygge(ヒュッゲ)という言葉を聞いて気になっていた。

デンマーク語で「居心地がいい時間や空間」というような意味らしいが、

人によって含む意味は色々らしい。

(日本語には該当する言葉がないそうで、訳者によってニュアンスが異なる。)

私にとっては、まさにムーミン谷の暮らしを表す言葉だ。

 

今年の年末はHyggeな時間にしたい。

家族が健康でいられること、

暖かくて心地よいお家があること、

平和な国で暮らせること、

これ以上の幸せがあるだろうか。

だから

走る必要なんかないのだ。

 

最近、私はちょっと変だ。

(もともと変だ、という話はちょっと置いておいて)

大事なことを忘れる、

大切なものを失くす、

信じられない失敗をする。。。

挙げ出したらキリがない。

 

確かに少しずつ壊れてくるお年頃ではあるけれど、まだ早いでしょう。

この衰えは歳のせいなんかじゃない、間違いなく生き方の問題だ。

 

以前は コンペが来るたびに緊張し、歓喜して苦しみながら詞を書いた。

そうして 生きている実感と喜びを確認できていたのだ。

だが作詞をお休みしてからというもの 色々忙しくはしていたけれど、

あの、コンペに臨んでいたときのような

血圧がガンッと上がって頭の中で血管がドクンドクンするのを感じながら

無我夢中で言葉を引っ張り出す作業とは

まったく無縁になっている。

 

私、なにかを創らなければ。

今の半分寝ているような自分を壊して

新しい自分を生み出さなければ。

 

一度、無になりたい。

 

たまたま、今の心境にぴったりの言葉を見つけた。

岡本 太郎の言葉だ。

 

「人生は積み重ねだと誰でも思っているようだ。

 僕は逆に、積み減らすべきだと思う。

 財産も知識も、蓄えれば蓄えるほど、かえって人間は自在さを失ってしまう。

 過去の蓄積にこだわると、いつの間にか堆積物に埋もれて身動きができなくなる。」

 

『蓄積』と呼べるほどのものは 持ってないけれど

惰性で積まれた周囲のものは整理していきましょう。

 

 

私は幼い頃からバッグが大好きだった。

三歳の頃だったろうか、

それを知っているサンタさんが

真っ赤なナイロンのシャギー(フェイクファーのような感じ)の

がま口型のバッグを枕元に置いておいてくれた。

留め金やチェーンのハンドルはゴールドで、

憧れの大人のバッグのように光り輝いていた。

自分の身に起きたこの嬉し過ぎる出来事が嘘のようで、

踊り出したいほど、いや、実際に踊り出すほど歓喜したのを覚えている。

私にとって、クリスマスプレゼントと言えば あの赤いバッグだ。

後にも先にも あれ以上感激したプレゼントはない。

 

そのバッグも長い年月を経て、いつだったか処分したらしい。

 

私のバッグ好きは今も健在だが、

以前ほど数を持ちたいとは思わなくなった。

流行もあるし、飽きっぽい性格だから

きっと またバッグが欲しくなるだろうが、

その時は 現在持っているもののどれかを手放す、

と決めている。

 

さて、そのバッグ、以前はアトリエ兼納戸の収納に収まっていた。

 

気の変わりやすい私、翌日のコーディネートもコロコロ変わる。

それで夜、 アトリエで集中している息子を邪魔することが多かった。

これはまずい。

そこで バッグ類を自分の部屋のウォークインクローゼットに移すことにした。

 

 

以前は向かって右手に浅い引き出しが2列並んだいたのだが、

幸い、そこに収めていた手持ちのニット類は

吊り下げても型が崩れにくいものばかりだったので吊り下げ収納に変更。

引き出しを撤去し、シンプルな4段の木製棚を入れた。

幅も奥行きも、これまで入っていた引き出しと同じくらいのサイズだ。

 

その棚にMUJIのファイルボックスを使って仕事の書類と

バッグ類、袋物、ストッキングの予備などを収めている。

 

 

今の私にちょうどいいサイズ、色、デザインのものだけを残した。

 

 

取り出しやすくしまいやすい。数の把握も容易だ。

それから、一望できること。

これが 私の考えるコレクション収納の必須条件だ。

 

時々 ニンマリしながら眺める。

至福のときだ。

 

以前はもっと違う感じのピンクも持っていたけれど

今の私には必要ない、と

仲良しの友だちに無理矢理引き取ってもらった。

これには 私の色に対するこだわりが関係しているのだけれど、

そのお話は また別の機会に。

 

断捨離をしていると、

これまで当たり前のように繰り返してきた日常の様々な工程を

見直すこともある。

 

本当にこういうやり方しかないのかな?

もっと「合理的な」やり方はないのかな?

この「 」内には、「楽な」、「楽しい」、「美しい」などなど

好みによって色々な言葉が入る。

 

例えば お料理。

若い頃は 固めの野菜は面取りをしていた。

でも、段々面倒くさくなってきて、ある時 止めた。

家族は全く気付かず、別に支障はなかった。

ジャガイモやホウレンソウを調理する前、昔は水に晒していた。

これも面倒になって、ま、いいかと手抜きした。

家族はまたもや気付かず、別に支障はなかった。

もやしのひげ。以前は全部取り除いていた。

でも、忙しくて調理にかかるのが遅くなった夜、取るのをさぼった。

家族はこれまた気付かず、別に支障はなかった。

 

少し前、シャンプーをコンディショナーがいらないタイプに変えた。

シャンプーするだけでよい。

たったこれだけのことで 髪を洗うのが気楽になった。

 

最近、アイシャドーやチークを付けるのを止めた。

ファンデーションも たまにしか塗らなくなった。

毎朝の身支度がとても楽になった。

 

ひとつひとつは大したことではない。

でも、小さな手間を 私たちは意外と負担に感じているのかも知れない。

 

ただね、矛盾するようだけれど 愛着のある行為は

たとえ他人の目には どんなに不合理に映ったとしても

味わいながら続ければいいと思う。

 

私は『クマのプーさん』の冒頭部分が大好きだ。

クマのプーは、クリストファーロビンと手を繋いで階段を降りる時、

いつも頭を階段にバタン バタンとぶつけながら降りて来る。

「ときには、かんがえることもあるのです、このバタン・バタンをちょっとやめて、

 かんがえてみさえしたら、ほんとは、またべつなおりかたがあるんじゃないかな・・・・」

(『クマのプーさん』より抜粋 A.A.ミルン 著  石井 桃子 訳)

でも、プーは 結局はこれしかないと思ってしまう。

幼い私はプーが痛い思いをしているのが気が気でなくて、

「あと、もう ちょっと考えてみればいいのに!」

と歯がゆい思いをした記憶がある。

あれから50年を経て、現在は これもアリなのだ、と思う。

 

暮らし方に決まりはない。

自分のサイズ、自分の色に合わせればいいのだ。

そうして初めて 何でもない日常が輝きだすのではないだろうか。

昔、私の母は食べきれない程のおかずを作ると

「足りないよりは余る方がいいでしょ?」

と言った。

買い物に行っても

「足りないといけないから 多めに買っておきましょう」

と言った。

 

母が大正生まれの人間で、

物のない戦争時代の記憶があるから こういう価値観になった、

という解釈も成り立つだろう。

だが、もともと大ざっぱで 大らか、豊かで楽しいのが大好きな女性だったから、

という解釈の方が 娘の私にはピッタリくる。

というのも、母は一旦余分だと判断すると、

バッサバッサと手放したからだ。

物のありがたみが身に染みているという感じじゃない。

合理的で割り切りのいい人だった。

 

母にべったりくっついて育ってきた私も

食材をつい多めに買って腐らせる、

おかずを作り過ぎて息子を太らせる、

ストック品や洋服を買い過ぎて収納をギチギチの状態にする・・・

そして ある日思い立って、

大量のモノを寄付したり、処分したりする。。。

を繰り返して来た。

 

ミニマリストに憧れる今でも、

子ども時代からのモノとの習慣的な関係性は変わっていない。

だからよほど意識しないと買い過ぎてしまう。

 

息子はコレクターだ。

何かにはまると、とことん集める。

そして なかなか手放せない。

(教科書の類は喜々として捨てるが。)

 

私には思い当たることがある。

幼い頃の息子は

偏食で少食、 しょっちゅう熱を出していた。

熱性痙攣があるので、熱が出ると幼稚園をお休みし、

痙攣止めの座薬を入れて様子を見なければならなかった。
また持病の検査で大嫌いな血液検査なども

月に1度は受けなければならなかった。

初めての子どもで心配でたまらなかったのと、

専業主婦で暇だった私は

「かわいそう、かわいそう」と

外で遊べない息子に 次から次へとおもちゃを買い与えた。

病院で辛い検査を我慢できると、

「偉かったね、がんばったね」と

病院の売店でドラえもんの本を1冊買った。

 

彼が今大量のモノに囲まれているのは 私の責任だ。

 

「私が悪かったの。でも今のあなたの部屋はあなたを生きにくくしてる。

 お願いだからお片づけしよう!」

と息子に何度も言ったけれど、なかなか上手くは行かない。

 

でも、私はこの点については 楽観的だ。

もし親の影響があるのなら、

彼も いつか人生に躓いた時、

突如 「片づけたい病」を発症するはずなのだから。

 

私はお掃除が大嫌いである。

もちろん、スッキリして気分爽快になれるけれど

これほどキリのないものもない。

今、掃除機をかけるこの瞬間にも

埃は空気の中を自由に舞い漂い、

綺麗にしたばかりの表面に遠慮会釈もなく舞い降りる。

だとしたら、今、お掃除をする意味は何なんだろう?

もう少し後でも何の変化もないんじゃない?

と、怠け心が言い訳を始めるのだ。

 

これがインテリアデコレーションとなれば、

変えた瞬間から 新しい雰囲気になって

気分も そこで過ごす時間も変わるから、

思い立ったときがタイミング、と考えられる。

お掃除って 他の楽しい作業に比べると創造的じゃないじゃない?

それよりも

「そうだ、もう使わなくなったあのネックレス、

 あの絵皿のフックに掛けて、絵皿の下に下げてみたらどうかな?」

なんて思いつきの方が 私には10倍楽しく感じられるのだ。

 

とは言え、汚れているのも嫌いだから

やはりお掃除はやらなきゃならない、いや、やりたい作業ではある。

だから あの手この手でハードルを下げる。

自然に、毎朝 顔を洗うみたいに

あら、気づいたら 廊下をお掃除しちゃってたわ

みたいになるのが理想だ。

(難しいけど・・・)

 

我が家には お掃除の難所がいくつかあるが、

ひとつが廊下に沿って置かれた収納の上だった。

カウンター下用の奥行きの浅い収納の上に

思い出の写真や物を いくつかのコーナーに分けて飾ってあった。

そのごちゃごちゃした品々のせいで

棚の上をサーッと拭くことができない。

ひとつひとつ物をどかして、

それぞれの物自体も拭きながら棚をちょこちょこと拭く。

これが私には面倒くさくてたまらなかった。

その結果、結構埃が溜まってから

どっこいしょと重い腰を上げていた。

 

ついにこの夏、やっと廊下の棚上と向き合った。

Beforeの全体写真が無いのが残念なのだが、以前はこういう状態。

 

 

現在はこんな状態。

 

 

小さな写真立てに入っていた写真を全部大きな額縁に移し、

以前から掛けてあった家族写真と並べて壁に掛けた。

ひとつだけ上手く壁に掛けられなかったので、

棚の上に立てかけてあるが、これひとつだけならさほど邪魔にならない。

こちらは反対側から見たアングル。

 

 

一か所額のかかっていないところがあるが、

ちょうどいい額縁が見つからなかったので空けてある。

この写真では分かりにくいが、

額縁のデザインや大きさはバランスを考えて配置したので、

イメージにピッタリ合うデザインが見つかるまで待つことにした。

家は そこに住む人間と共に変化していくものだから

余白があるとワクワクする。

 

こうして我が家の廊下は

クイックルワイパーで楽にお掃除できる楽チン空間になった。

この棚の上には もう物を置かないルールだ。

ただひとつ、翌朝絶対に忘れてはいけない郵便物がある時だけ

置いてもいいことにしている。

置いてはいけない所にあると、目立つから絶対忘れなくなった。

 

持って出た郵便物を そのまま持って帰ってきちゃったりするけど

それはまた 別の話。

断捨離にはまりだしてから

ミニマリストの方々の本を読むようになった。

みなさん、素晴らしくスッキリした暮らしを実践していて

参考になることが多い。

 

けれども ミニマリストのお宅はとても快適そうだけれど、

少し飾り気に乏しい気もするのだ。

もともと飾ることが大好きな私にとって

綺麗なもの、可愛いものは幸せに直結する大切なものだから、

暮らしから排除してしまうと きっと幸せ感も失われてしまう。

だが、ミニマリズムへの憧れも強い。

 

母の遺品整理を経験し、

自分の生活が色々な意味で破綻しかけている今、

モノを所有することは 私にとって負担になっている。

そこで こう考えた。

 

必要最小限のモノを

全部、可愛くて綺麗なお気に入りのものにすればいいんじゃない?

見栄えが良くないモノは見えない所に片づければOK!

必要じゃないけど飾りたいものは

掃除の邪魔にならないように飾ればいい。

 

もともと 道具のデザインや色にこだわるタイプだ。

使い勝手は何より大事だが、

見た目が悪かったり、他のモノとの調和が取れないのは

とてもとても気持ちが落ちて やる気が削がれる。

こういう感じ方は少数派かも知れない。

気に入ったモノを手に入れるために 余計な手間やお金もかかるかも知れない。

でも、私の人生にとって美しさはかなり重要なファクターなのだ。

到底切り捨てることはできない。

 

という訳で 私は家の中で美観的に気になっていた部分を点検し始めた。

 

以前から浴室が気に入らなかった。

お掃除嫌いで 何となくいつもピカピカじゃない、

というのが一番の原因だが、他にも理由はあった。

浴室に浴室用の掃除道具や洗剤が置きっ放しだったのだ。

シャンプーやソープ類がごちゃごちゃ置いてあるのも

湯船に浸かる時 目に入って嫌だった。

それに浴室乾燥機を利用しているので、

洗剤類が高温になることも気になっていた。

 

そこでお掃除道具はひとまとめにして隣の洗面所の流しの下へ移動した。

但し、スクイーパーだけは入浴中に使うので残した。

スクイーパーの下のタオルバーに掛けてあるのは小さなS字フック。

ここで掃除道具を乾かしてからバケツにしまう。

 

そしてシャンプー類とお掃除用洗剤も外に出してしまうことにした。

いちいち持ち込み、持ち出すのも面倒なので、

浴室のドアを開けた所に置きっ放しにすることにした。

息子は使うものだけ持って入り、

私はドアを開けて使って戻すやり方。

見栄えが悪いので、同じシリーズの白い容器を購入した。

一番右から 浴室用洗剤、フェイシャルソープ、息子用シャンプー、私用シャンプー。

全部同じ容器に揃えたかったが、息子が間違える可能性があるので、

容器がそれほどうるさくない私のシャンプーはそのままにした。

2人とも コンディショナーの要らないシャンプーを使っているのでこれだけ。

ただ並べて置くだけだとまとまりがないので、MUJIの容器でグルーピングした。

以前はボディーソープを使っていたが、

マグネット式のソープホルダーを見つけたので そちらに変更。

棚の左側に浮いて見えるのがマグネット式のソープホルダー。

石鹸が乾きやすく、ぬるぬるにならないので気に入っている。

 

このやり方に変えてから お風呂で寛げるようになった。

視界に目障りなものが入らないことが これほど快適とは!

 

ね、ちょっとスッキリしたからさ、

可愛いキャンドル置いちゃおうかな。

 

洗面所の棚に LEDのキャンドル型ライトを待機させた。

ミニマリストへの道は遠し。。。

クローゼットは重要だ。

何を着るかは その人がどう生きて行きたいかに直接関わるからだ。

流行に敏感に、お洒落を楽しみながら生きて行きたいのか、

流行には感知せず、自分なりのファッションを楽しみたいのか、

ファッションには全く関心がないか、もしくは関心を捨て、

機能性だけで洋服を選ぶのか。

その趣味によって 必要な量も質も全く違う。

 

私自身は 亡くなった母がとてもお洒落な人だったから、

自分もなるべくお洒落にしたいと思っている。

でも、経済的な制約やスペースを考えると 量は持てない。

管理の面から言っても、なるべく数は絞り込みたい。

という訳で 普段の生活に必要十分な洋服と

たまにお洒落したい時に着る洋服を少し

それらに合うバッグ類をいくつか選んだ。

 

必要な枚数とはどれ位か?

私は

しょっちゅう同じ服を着ていてもいいが、

洗濯に追われなくても済む数

と決めた。

これからの季節のトップスで言えば、

冬用のパーカー 2枚(洗濯機で洗える)

普段着のセーター 3枚(洗濯機で洗えるのは1枚)

普段着のカーディガン 2枚(自宅では洗えない)

お出かけ用のカーディガン 2枚(自宅では洗えない)

になった。

カーデイガンはセーターとしても着られるもので、

普段着・外出着のワンピースの上に羽織ることもある。

長袖のTシャツやトレーナーを持っていないので、

いいのがあれば買うかも知れない。

その場合は買った数だけ あるものを処分する。

 

これが今のクローゼット。

一年中の洋服が入っているので衣替えはしない。

ビフォーの写真がないので変化が分からないが・・・。

 

枚数を絞り込んだので、着る時に迷うことがなくなった。

好きなものだけを残したので、いつも好きな洋服を着ていることになった。

数を絞る時に 外出着と普段着の境界が曖昧になり、

普段にしか着られない洋服を手放したことで、

いつもお洒落しているような気分が味わえるようになった。

結果、洋服の傷みが早くなるが、

どうせ流行遅れになったり 飽きたりするのだから

お気に入りを着倒す方が経済的だと考えた。

 

ここに収まっていないのは コートと喪服、スーツそして運動用のジャージだけ。

それ以外の身に付けるもの全てが収まっている。

 

全て吊り下げ収納にした。

自宅で洗濯できるものは、

   着る

  ↓

 ハンガーを洗濯機の近くの棚に移動

  ↓

 洗濯

  ↓

 ハンガーに掛けて浴室乾燥へ

  ↓

 そのままクローゼットに戻す

という着用から片づけまでの流れができている。

全てこの方式だから、たたむという手間が省ける。

 

何を着るかは自己表現だ。

たとえファッションに関心が無くても、

そこには自分の選択がある。

 

クローゼットに残ったモノは

今の私の自画像だ。

今年度に入ってから 全く仕事をしていない。

以前 お世話になっていた事務所を辞めたから

やれることがなくなってしまったのだ。

辞める時には 次の活動をあれこれ考えていたのだけれど

実際には動かなかった。

いや、動きかけて止めた。

自分でもよく分からないけれど、

「一度立ち止まれ」という声が

体の奥から聞こえて来たような感覚だ。

 

3年ほど前、約4年間寝たきりだった母を見送り、

私は半分燃え尽きてしまった。

一度リセットしないと 新しいスタートを切れないのだろう。

 

母を見送ってから どう死ぬかということばかり考えるようになった。

どう死ぬかを考えることは

どう生きたいかを考えることだ。

 

自然に断捨離を始めていた。

もともと職業にしたいほど整理収納が大好きだが、

もっとモノを手放したいという欲求に突き動かされていた。

どう生きるかは 何と生きるかということでもある。

私とモノとの向き合いが始まった。

少し早めの終活でもある。

それは 過去の自分と折り合いをつけることであり、

自分のある部分を切り捨て、

新しい自分を作る余地を生み出す作業だ。

 

少しモノが減って家の中が落ち着いて来た頃、

息子の就活が始まった。

 

私自身、就活の経験がない。

就活が必要な仕事に就いたことがないのだ。

息子の横で 初めての就活というものを観察している。

なかなかに緊張感のある日々だ。

若く未熟な息子が 自分なりに考え、悩み、選択して行動する。

ハラハラしながらも 少しずつ変化して行く様子を見るのは

嬉しいし、大いに刺激になる。

これまでエスカレーター式の学校で 苦労を知らずに生きて来た彼が

身を持って「人生は上手く行かないこともある」と感じられるのは

本当に貴重な経験だ。

もう何年かすると、彼は「人生は上手く行かないことばかりだ」と感じるかも知れない。

その痛みに負けず、進むべき道を探し出すには

今の痛みが役に立つはずだ。

 

親子して 人生のひとつの岐路に立っているのだな。

お互い、シュウカツ 頑張りましょう。