先日、仕事の面接に行って

「あなたの長所と短所を述べてください」という

質問を受けました。


正直、

「ああ、またかよ」

と思いました。

こういう場合、質問者が期待する答えは

「長所:協調性がある

短所:優柔不断など(協調性の言い換え)」

なんだと思いますが、

この面接の前置きで

「自分の判断で責任を持ってやれる人

(つまり、従来の協調性だけでは治まらなくなってきているので

協調性プラス、ちょっと新しい風を自主責任で起こす人)

を求めています」と言われてたので、

「長所:責任感がある

短所:頑張りすぎる」と

いちお、答えておきました。




「あなたの長所と短所を述べてください」

と言われたら、

私は大抵さっきのように

「長所:責任感  短所:頑張りすぎ」

と言うようにしてました。

でもこれは、私のほんとの長所短所ではない。

ADHD(注意欠陥多動性障害)のある私の

実際の長所は、

ADHDの長所である「発想力・行動力・好きなことを追求する能力」で、

実際の短所は、ADHDの短所である

「片づけが苦手・管理が苦手・飽きっぽい・我慢強くない」です。

でも、そんなの『普通の場所』で言えないしなぁ。


では、「長所:責任感  短所:頑張りすぎ」は

何なのか、というと

それは、ADHD持ちで「なんか周りと考え方や行動が違うな」

と思い続けてきて、

自分は社会の少数派だと自覚してきた私が

何とか「普通のみんなに合わせられるようにしてきた」

その涙ぐましい努力の結果身についた、

後天的な長所・短所です。





うちの家系は芸術家肌、

もしくは気ちがい家系、

もれなく「発達障害」です。


障害って定義が嫌なんだけど、

例えばADHDは全人口の約5%というデータもあって、

明らかに少数派なので、

「普通の人」から見たら

付き合いにくく理解しにくい障害だから

そう名づけられてるんだと思う。

(これが、もしADHDが95%だったらどうだったか?

まぁいいけど)



自閉・アスペルガー・LD(学習障害)・ADHDなど

いわゆる発達障害満載の環境の中で、

私が「自分も絶対なんかおかしいわ」と思いながらも

自分に課してきた役割は

「周りがみんなおかしいから、

私だけでも普通でまともでしっかりしていなくては」

でした。


しんどかったです、ほんと。

発達障害そのものもきついけど、

自分の発達障害を否定しながら、周りの発達障害をサポートするというのは。



それは、ずっとずっと

結婚してからも続きました。

私にとっての希望は、

「いつか、私が普通の人になれて

普通の人の中で、普通の愛情を感じて暮らすこと」。


早く人間になりたかったです、ほんと。

ベラだわな。妖怪人間の。

イメージはぜひ杏さんで。




普通になりたかったです、

だから発達障害やADHDの情報や記事を見るのが大嫌いでした。

「(そんなもん私もあるけど、普通になじもうと頑張ってるんだから)

甘えんな」という思い、

うっかり「私、そっち側だわ」と認めてしまったら

もう普通の社会に入れてもらえないという恐れ。

「普通の愛情」というステキなものがあると信じていて、

「普通じゃない」と認めてしまったりしたら最後、

もう「普通の愛情」もない傷つけあう気ちがいの世界で

一生を過ごさなければいけないんだ・・・という恐怖。


私の中には常に

「傷つけあう気ちがいの世界」

がありました。

そこから逃れたくて、逃れたくて

あらゆる努力をするのに、逃げられない。




 


カズ姐さんの、この記事

「またか」って感じで、初めは気分が悪くてスルーしました。

でも、気になってよく読み返してみて、

紹介してくださっているリンクを見に行ってみて

(とくに「漫画で解説ADHD」がとっても分かりやすい!)、


「ま、最後はここで生きるか」


と、

腑に落ちたというか、覚悟が決まったというか。



いやぁ、逃げた逃げた。

「責任感があって、頑張りすぎるわたくし」に

ビシビシ切りつけられて、

「この気ちがいめ、成敗してやる!!」って

追い立てられながら。



ふと立ち止まって振り向きざまに

そんな責任感女にアッカンべーし、

「あたし、責任感もないし頑張るのも苦手な

気ちがいベラちゃん(ビジュアルはあくまでも杏さん)でーす」と

宣言したような。

仕事の面接官さんにもごめん、嘘つきました私。





普通ってなんだろう、と

思います。

上記の「漫画で解説ADHD」中の

「普通の人との付き合い方」で、

『普通の人を、安心させてあげること』とあって、

そうか、普通の人って

そういえばとても慎重だ、と思い至りました。

することも慎重だし、言うことも慎重、

生活も考え方も慎重。



慎重第一王国、の中で

変化を好む少数派。

少数民族はどうやって生きるのか?


私は、自分の血を否定して

自分をけなし、同族にしらんぷりして

周りの「慎重族」に自分を似せたつもりで

「ねぇ一緒でしょ、仲間に入れて」と擦り寄って、

それでも「あんた少数民族でしょ」と周りにもしっかりばれてて

あんた何者、とさりげなくはじかれていた、という感じ。


少数民族こそ、

誇りを捨ててはいけなかったのに。




そんなわけで、

まだ着られたかなぁ、と思いながら

民族衣装を取り出す気持ちで、

少数民族を生きている。