「ここは地獄。在宅避難民に食料届かない」“第二の故郷”宮城を取材して
2011.4.3 13:02

 半年前まで東北総局(仙台市)にいた。新聞記者になって最初に赴任した宮城県は、陳腐な表現だが“第二の故郷”と思っている。だから東日本大震災はショックだ。発生直後、当時取材でお世話になった方々や友人に電話をしたが、全員不通。メールを送ると、翌日になって「死ぬかと思った」「停電が続きラジオだけが頼りだ」などと返ってきて、少しほっとした。思い出深い街並みの、変わり果てた映像は直視できないものだったが、兵庫県のボランティア先遣隊に同行し、発生8日後の19日に宮城県入りした。

 石巻市に足を踏み入れると、見慣れた街並みは跡形もなかった。取材で何度も訪れたJR石巻駅前の商店街は、いくつもの漁船が路上に倒れ、商店街の1階店舗は軒並み泥まみれ。住宅街は津波にのみ込まれ、がれきの山となっていた。漂うほこりにむせた。

 津波にさらわれた孫を捜す男性や、自宅の跡地周辺で、身元不明の遺体を見つけた男性と出会った。路上に落ちていたスナップ写真には、幸せそうな家族が写っていたが、ただ立ちつくすことしかできなかった。

 駅前の商店街でCD販売店を経営する小幡恵子さん(58)の言葉が忘れられない。損壊を免れた住宅部分で生活していた。一斗缶で暖を取る小幡さんは、沸かした鍋のお湯を見ながら、まくし立てた。

 「ここは地獄。在宅避難民には、食料が届かない。津波から助かっても、寒さと飢えで死んでしまう。そういうことを、あんたたちが報道してくれないと。来るのが遅い」

 ぶっきらぼうだが、真剣な言葉が胸に突き刺さった。あまりの光景で失いかけていた記者の本分を取り戻すことができた気もした。「必ず記事にしますから」。小幡さんはようやく、目を合わせてくれた。(神戸総局 吉原知也)










今回の震災とは比較になりませんが、東海豪雨のときにもマスコミは同じことをしています。

被害の大きなところしか報道せず、そのため支援物資も報道された枇杷島地区に集中、同じく被災した私の地元の名古屋市南区には支援物資など一切来ませんでした。

まぁ、地元のテレビ局、新聞も枇杷島地区の状況ばかり報道して、他の地域はおざなりの報道しかしませんでしたが。

そういった報道の集中が、支援空白エリアを生み出していることに気づいてもらいたいですね。


この産経の記者も、今回の思いを忘れずにいてもらいたいですが、無理だろうなぁ。