「読めない」
から、
「できない」
「AI 研究者が問う ロボットは読めない では、子どもたちは読めているのか」という記事を読みました。
読めていない子の割合があまりに多く、愕然しました。
自分が「読める」ようになったのは、高校生の時の、ある先生のおかげです。
その先生は、接続詞の使い方をいつもいつも、これでもか、と、説明してくれ、だいじなことは、ここだと説明してくれました。
本質の読み方を説明してくれました。
私は、英語を訳すとき、だいたいで訳すということが分からず、先生の訳を全て丸暗記していた子どもでした。数学なんかも丸暗記。
だから、定期テストだけ良くて、本当にだいじなことが分かっていませんでした。
子どもの時を振り返って、勉強の仕方でだいじなことを教えてくれた人って、高校まででは、その国語の先生しか思い浮かびません。
(予備校は、教え方の上手な先生がいっぱいおられました。一浪しています。)
当事は詰め込み型の学習だったので、とりあえず覚えなさい、という学習だったように思います。
話がそれてしまいました。
ここで言いたいことは、先生がどの子も「読める」ように意識して指導できているのか、ということ。
自分は、たまたまその先生に出会えたから、文章というものの読み方を知っており、それを子どもたちに伝えることができました。(伝えきれていない子もいると思いますが)
しかし、国語の指導書(赤本)には、いろんなことが書かれており、先生がもし、だいじなことが分かっていなかったとしたら、教えることができません。
残念ながら大学で文章の読ませ方は習っていません。
多読しているうちに自然に読めるようになっている先生が多いのではないかと思うのです。
(最近の教科書は、ずいぶん分かりやすくなっており、学び方が載っていて、すごくよくなっています。)
受験の参考書では、読み方を教えるのがありました。
1年生を教えていても、6年生を教えていても、だいじなことは同じ。
1年生のは、短い文の中にエッセンスが含まれており、とても分かりやすいです。
この時に、基本がおさえられていたら絶対にらくだと教えながらいつも思います。
「読めていない」という声をよく聞くし、テストの丸つけをしていても、「読めてないな」と分かることがあります。
公教育というのは、いろんな家庭の子どもに一定の学力をつけるためにあるものだと思うので、文の構造について、みんながしつこくやるという意識をもつといいと思いました。
または、日本語教師の人から教え方を学ぶというのもありかもしれません。
青年海外協力隊の訓練中に日本語教師の人のレッスンを受けたことがあり、あれは、目からウロコでした。
「うちの子、読めてない」
というおうちの方がいらっしゃったら、どうやったら読めるか教えることができますよ。
(何回かしないと伝えきれないと思います。依頼があればやりますが、仕事としてうけます。)
私は、三谷さんの「重要思考」やら、予備校経験やら、協力隊経験やら、その他のところで先生としての力をつけていることを感じます。
先生に「あそび」の部分が必要なんだろうなぁ。
No. 715