その一秒一秒の自己決定で行ってきた行動が、今の自分を築き上げてきた。子供の頃、親や他人に従ってきたのであって、自分の意思で動いたのではないと言う人もいるだろう。しかし、「従う」と決定したのは自分である。その時、反抗することも出来たのです。確かに、幼い頃、大人の力で身体の動きは制限されたでしょう。しかし、意思は自由に働き、燥いでいたに違いない。親は一定の影響を与えるでしょう。しかし、最終的に決めるのは自己決定です。

私は双子として生まれ、身体としてはそっくりです。そして、両親は平等に育てる努力の下で教育を受けてきました。それでも、社会人としては、別世界を歩んできました。私たち夫々の意思決定で進んだ道です。仮に、両親が権力的に私たちの将来を決めたとしても、それに従う、又は従わないは私たち自身の自己決定です。織田信長が自分の息子が自分に従わなかったが為、切腹命令をした事例もある。しかし、その切腹命令に従ったのも、息子の自己決定です。命を落としても、自分自身を変えなかった断固たる決意だったのではないか。

同じことは、社会人としての人生です。全て、己自身の意思決定で築かれた世界で生きているのです。ニート生活も、独身生活も、就職を選ぶのも、最終的には自己決定の結果です。最近、過労死、過労自殺が問題化されている。しかし、その本人がその立場から解脱すると自己決定し、行動していたら、結果は違っていたのではないか。彼たちの死は、他人が与えた過労労働が原因ではなく、それに対して己自身の自己決定した行動、即ち、アドラー心理博士の解釈通り、己自身が抱いた目的が実の原因です。

では、個人的人生はどうだろう。それも同じです。朝、目覚めて起きて、服を着替え、歯を磨き、仕事に出かけるのも、全て、自己決定で行っているのです。目覚めても起きない選択もあった。仕事に出かけない選択もあった。いや、社会人としての責任感が働いていると思うでしょう。しかし、その責任を果たすと自己決定した自分が起こしている行動に過ぎない。次の角を右折する、或いは左折する、又は直進するのも、止まるのも自己決定で動いている。自動販売機でコーヒ、又はお茶を買うのも自己決定で行う。一歩歩くのも、腕を振るのも自己決定。

習慣、常識、仕来り、法律、ルール等、全てが人間社会が定めたものであり、それに従うか従わないかは自己決定次第です。例え、自己決定によって迎える結果を念頭に置いて行動するとしても、その選択は自己決定で行っている。

結論として、要は、自分の人生の有様全てが自己決定の結果であり、その責任を他人に押し付ける、又は、世間のせいにすることは、決して自分の為にはならないと言うことです。最後に、自分の世界を変えたければ、先ず、自分自身の自己決定を見直すことが重要です。