赤い光が灯るまで in 奄美大島 -25ページ目
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奄美な日々

$赤い光が灯るまで

22日。カンボジアから帰国して1日が経ちました。
カンボジアから帰る度に、道路が平であること(カンボジアの道路は舗装されていても凸凹です)、水道水が飲めること、治安が良いことなどに1つ1つ有り難みを感じます。

今日は、家内と娘を連れて笠利にある川が海に流れ込むスポットに釣りに行きました。
川辺で水遊びをしてはしゃぐ娘の奥に、釣りをしている家内が見えます。

釣れたかって?
それはどうでもいいことです(笑)

魚を入れるクーラーボックスは最後まで空でしたが、気持ちは幸せで満ちていました。

今日からまた、奄美な日々が始まります。

旅の終わりに

$赤い光が灯るまで



最終日、シェムリアップにあるマザーテレサの家を訪れました。特に孤児院としてではなく、託児所として子供が預けられ、食事が与えられます。

自分が去年から持ち歩いていたカンボジア語会話の本は、5歳くらいの子がとても気に入ったようで、楽しそうに見入っていました。自分にとってもお気に入りの本だったので少し迷いましたが、意を決してプレゼントしました。

日本から持ってきた紙風船に子供達はとても喜び、膨らませては遊んでくれ!と風船を持って笑顔で寄ってきました。だっこして木の実を取らせてあげたり、追いかけっこをしたり、最初は硬かった子供達の表情は次第に明るくなっていきました。

奄美の病院でともに働く作業療法士のTaku君からは、三味線の演奏とともに島唄がプレゼントされました。初めて見る楽器に子供達は興味津々で聞き入り、大きな拍手で応えてくれました。

琉球王朝、薩摩藩、アメリカ軍と、侵略の歴史を耐え抜いた奄美大島の島唄はどことなく物悲しさがあり、内戦で傷ついたカンボジアに驚くほどマッチしていました。

そして、カンボジアでのボランティアに参加したいと、Taku君は1年間貯金をしてこの旅に参加しており、その熱い想いを乗せた唄にメンバーも目頭を熱くしていました。

1000年前にあれだけの遺跡を築き、1960年代は東洋のパリと言われるほど栄えたカンボジア。
今は苦しくとも、これからの数十年で必ず先進化を遂げ、いずれは日本と肩を並べる日が来るでしょう。
その時に、あの子供達が、貧しい時代に日本から三味線を持って応援しにきてくれた人達がいたと、少しでも思い出してくれるのであれば、我々はカンボジアに渡る意味があるのだと思います。

アンコールワット

19日。1年越しの思いを胸にこの場所にたどり着きました。
昨年は南部の村々を回る医療活動だったため、カンボジアに来ながらも遺跡を1つも見ずに帰国していました。
やっと辿り着いたアンコールワットは朝焼けに照らされて、神々しくそこにありました。


赤い光が灯るまで

1日を観光に使い、バイヨン、タ・プロームを巡りました。
下の写真はバイヨンです。
12世紀末に建てられた寺院で、無数に突出する塔の頂きには写真の様な仏の顔が計50面以上刻まれており、すべて微妙な表情の違いがあります。


$赤い光が灯るまで

タ・プロームは、寺の上に大木が根を下ろしており、正に文明と自然が融合した状態。
宮崎駿監督が天空の城ラピュタのモデルにしたと言われている世界が広がっていました。



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洗礼

18日、午前中にヒーさん(今年の春まで早稲田大学に国費留学をしていたカンボジアの若者)が支援している小学校を視察したあと、メンバーはプノンペンからシェムリアップへ飛行機で移動。
トンレサップ湖近くで昼食後、景色が良さそうと近くの小山に登る事に・・・。

思ったより小山は高く、どこまでつづくのかな?と思いつつ、
何とか上り詰めると、目の前に突然遺跡が出現!

見るからにそれはアンコール時代の遺跡。
だとすれば、約1000年前に建てられた建造物。

偶然にして初めて見る遺跡に驚きと、感動が入り交じり、
何とも言えない神聖な雰囲気に言葉を失いました。


$赤い光が灯るまで

感動冷めやらぬまま遺跡の奥に足を進めると、さらに驚愕の景色が。

赤い光が灯るまで

地平線まで続く水田に沈む夕日。
赤く染まった空が水田に鏡のように映し出され、この世とは思えない景色。心が洗われて行く感覚。
すぐに、今まで自分が見てきた景色の中で最も美しい景色である事を確信しました。

ホテルに戻った後、遺跡の形をヒントにガイドブックをめくると、そこがプノン・バケンという有名な寺院の遺跡であったことが分かりました。

1000年前、カンボジアの人々はあの場所から同じように夕日を見て、そこに神を祀る寺を建てようと思ったのでしょう。
あの場所に立てば、誰もがそう思うはずです。

歴史が語る事

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17日、コンポンチュナム州の子供健診に続き、FIDRの農村開発を視察しました。
養鶏、ドジョウの養殖を見学した後、プロジェクトが推奨するSRI方式による田植えなるものを、実際田植えののお手伝いをしつつ学びました。

午後は、トゥール・スレン博物館に行き、ポルポト政権下に、スパイ容疑で逮捕された人とその家族が投獄され、拷問を受けたという建物を見学しました。

つい30年前の話、投獄された2万人のうち生還したのはたったの7人。
女、子供の隔たりなく、その建物で拷問を受けました。
展示場の最後には、大きな外力によって破壊された頭骸骨が無造作に棚に並べられていました。

これだけ残虐なポルポト政権が転覆後、ポルポトの返り咲きを支援した国の中に日本があったことを、どれだけの日本人が知っているでしょうか?

半世紀以上に渡り侵略戦争の謝罪をアジア諸国にしなかった日本。
教科書には、都合の悪い事実は臥せ、加害者としての反省から逃げ続けてきた日本と対照的に、カンボジアは自ら自国の傷を世界にさらしていました。

建物の入り口にあった、建物内で笑うことを禁止する看板から、
自国の民の屈辱的な骸をさらしても、過ちを繰り返さないで欲しいという想いが伝わってきました。



この国のために

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突然ですが、今カンボジアにいます。
昨年から参加している、病院のボランティアツアーで、昨日入国しました。

今日は、国立小児病院で地元の看護師の教育目的勉強会を行ってきました。

食い入るように勉強会に参加する地元ナースを見て、この国の医療はこれから大きく羽ばたいて行くのだろうという希望を感じました。

戦後の日本を救うため、時のカンボジアは自国の米を全て長米から短米に変えてまで、日本人の口に合う米を支援物資として贈り続けてくれた歴史があります。
内戦で荒れ果てたカンボジアを、今度は我々日本人が救う番です。

この国のために何ができるか、悩み悶える一週間が始まりました。

奄美の海が…

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最初に謝ります。

スイマセンm(_ _)m

これは昨朝のできごとです。
前日一匹も釣れなかった悔しさから、朝一で釣らざるを得ない状況でした。

出勤前に許された時間は1時間。

最初の30分、小魚にさえ無視され続けたのち、ぴちぴちのガラ(そういう魚です)が竿に!

うれしい…、楽しい…、オレ、、釣り、好き~~っ!!

昨日は竿を捨てることまで考えたのに、テンションはピークに…

興奮状態で流れる時間は早いもので、3匹目のガラを釣り上げたときには、1時間30分が…。

はい。そうです。
昨日の遅刻は釣りしてたからです!

ダメ人間?釣り馬鹿?
真摯に受け止めましょう。
家内に叱られながら苦し紛れにした言い訳。

『あ、奄美の海がそうさせた訳で…』

予想を遙かに超える冷たい視線が刺さりました(笑)

捨てる神、拾う神

$赤い光が灯るまで-ウニ丼

Gamac師匠に憧れ、先週から釣りバカの道を歩み始めた自分です。

昨晩の話です。
釣り経験2回なのに、なぜか沢山釣れる気がして、

『夕飯何作る?』と訊く妻に、
『ご飯だけ炊いといて、おかずは俺が釣る!』
『買い出しも行ってないよ』
『行かなくていい。俺が釣る!!』

と、強気で海に向かいました。
2時間の魚との激闘の末、収穫は・・・。

奇跡の0匹!!

お、おかずがない・・・
お腹を空かした1歳の娘は・・・

家に帰るとNatu先生から奇跡の差し入れがありました。
なんとウニ!

涙を流しながらウニ丼を食べたのは言うまでもありません。

告白

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読み始めると止まらなくなる一冊でした。
一つの殺人が、その関係者に殺人犯以上の狂気を生み出す構図がリアルに描かれていました。

この島は、親切な人だらけで、心底悪い人を見ません。
なぜ東京に住む人はあれほどまでに疲れ、人に当たり、傷つけあって生きるのでしょうか?

自分もその一人だったことが信じられぬほど、この島の人々に心を洗われた気がしますひらめき電球
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