改めましてのご挨拶。。。
開設して表紙だけ作ってしばらくそのまんま。。。失礼いたしました。改めまして、よろしくお願いします。koba-yoshiでございます。ご挨拶がわりに、先日、フェイスブックのあるグループで「30分無料セミナー講師」を勤めた時の台本をこちらに載せます。バルトークとミクロコスモスちょっと、についてでありました。...................ここから。。。。。。。。今日取り上げるハンガリーの作曲家 バルトークの本名は、バルトーク ベーラ ヴィクトル ヤーノシュ と言います。ハンガリーでは日本と同じように、名字が先、名前が後になりますので、バルトークは名字、ベーラ以下は名前です。ここからは、バルトークという呼び方で統一します。バルトークは1881年に、オーストリア=ハンガリー二重帝国のハンガリー王国、現在はルーマニア領となっているナジセントミクローシュに生まれました。父親は農学校の教師で後に校長先生になります。母親は音楽家でピアノ教師でした。バルトークは母親からピアノの手ほどきを受け、4歳になると曲を作り、5歳から正式なピアノ教育を受けるようになりました。父親が32歳で亡くなったため、母親がピアノ教師として生計を立てなければならなくなり、ナジセーレーシュという街へ引っ越します。そこでバルトークは音楽教育ではなく普通教育を受けます。1893年、バルトークは、現在はスロバキアの首都ブラチスラバであるポジョニのギムナジウムに入学します。そこでハンガリーの大音楽家ドホナーニと知り合います。そこでバルトークはピアノやオルガンを弾き、ブラームスの作品を学び、リヒャルトシュトラウスの管弦楽曲をピアノで弾きまくったりします。1898年、音楽的能力を認められたバルトークはウイーン音楽院に入学許可されますが、ドホナーニが違ったアドバイスをします。「国際色豊かなウイーンへ行くよりも、ハンガリー人の作曲家としての意識を持った方が良い」というアドバイスです。忠告を受け入れたバルトークは、リスト音楽院の前進であるブダペシュト王立音楽院に入学します。そこで作曲をケスラーに、ピアノをトマーンに習います。このピアノ教師トマーンは大作曲家リストフェレンツの弟子でした。ここで、ベートーベン→チェルニー→リスト→トマーン→バルトーク というピアニスト系譜が生まれます。1905年、パリで行われたルービンシュタインコンクールに、作曲とピアノで参加します。この時の収穫は2つありました。1つは、ドビュッシーの音楽に触れたことで、もう1つは、同じハンガリー人の作曲家で、ハンガリー民謡を科学的な方法で研究していたコダーイと知り合ったことです。バルトークはコダーイに強く影響を受け、自分も民謡を収集したり分析したりするようになります。バルトークやコダーイが「ハンガリー民謡」と捉えているのはハンガリー人、、、、ハンガリー人は自分たちのことをマジャールと呼びます。つまり、ここでいうハンガリー民謡とは、マジャール人の農民の音楽のことです。ブラームスやリストが作曲した「ハンガリー舞曲」「ハンガリー狂詩曲」は、ハンガリーの地域で活躍していた通称ジプシー、正式にはロマ民族の音楽の影響を強く受けています。ジプシー楽団はカフェやレストランでお客さんに向けて演奏をして、お金をいただくことがあります。一方、農民の音楽は自分たちの村の行事や結婚式、お葬式など、閉じられたコミュニティーの中で歌われます。これら2つの音楽は演奏される機会も動機も違いますし、性質も違います。余談ですが、バルトークはロマの音楽を自分の作品に取り入れていません(意識的に境界線を引いています。)コダーイの曲には、ロマの音楽の要素を取り入れていると感じさせるものがあります。ハンガリーは、トルコの支配下にあったり、その後はオーストリアとの二重帝国という状況で外国から支配され、文化的にも音楽においても強く影響を受けてきました。そのような中、都市部から離れた貧しい農村では、外国文化の影響をほとんど受けていない、昔からの民謡が受け継がれていました。それらの民謡を収集、分析しながら、ハンガリー音楽の源泉となるものを、バルトークは農民音楽の中に見出して行きました。さらに、ハンガリー民謡だけでなく、スロバキア、ルーマニア、ブルガリア、など、近隣の民族の民謡も分析していくうちに、各民族音楽に共通する要素があることを見出し、民謡を通して人類の系譜を明らかにさせたいという願望を抱くようになりました。(ひのまどか著「バルトーク 歌のなる木と亡命の日々)残念なことに、世界大戦、政治的抑圧のため、バルトークもコダーイも、民謡の収集活動を断念することになってしまいました。その後、バルトークはアメリカへ亡命しますが、それまで蓄積した音楽的財産を用いて、自分独自の音楽スタイル、作曲技法を作り上げていきます。言葉だけの紹介になりますが、音組織における中心軸システム(調性と調性の関係)、音楽の形式に黄金分割を取り入れる方法、フィボナッチ数列を自分の音楽に適用する方法、独自の音階、独自の和声法(アルファアコードシステム)などがあります。大雑把にいうと、自然界の法則を作曲法に取り入れていると考えることができます。バルトークが子どものために作った大きな曲集は2つあります。1つは、民謡のメロディーをそのまま用いて編曲されている 「子どものために」です。これは全部で4巻あります。1巻2巻はハンガリーの民謡とわらべうたを編曲したもの、3巻と4巻はスロバキアの民謡とわらべうたを編曲したものです。19世紀中頃に活躍した民族楽派と呼ばれる作曲家(チャイコフスキー、グリーク、ドボルザーク、スメタナ、シベリウスなど)たちのハーモニーとは随分と傾向の違う音(和音)の使い方をしています。また、ドビュッシーとも違います。もう1つは、独自の作曲技法を生かし多種多様な音楽要素を盛り込んた曲集、ミクロコスモスです。ミクロコスモスとは、小さな宇宙、という意味です。こちらは全部で6巻あります。一巻から6巻に向けて技術的にも音楽的にも難しくなっていきます。そのうち、初心者用の1巻2巻は、バルトーク自身の次男 ペーテルのために作曲されています。1巻と2巻はそれぞれの巻の最後の曲の直後に、「ペーテルのために」と書かれています。一巻は単純で短い曲が収められていますが、小さなピアニストが学びを深め広げていくために蒔かれる種のような、大切な要素がてんこ盛りです。一曲一曲、色々な仕掛けが隠されています。バルトークは自分の曲についてあまり解説したがらず、息子のペーテルにも、自分で見つけて欲しいと望んでいるようだった、とペーテル自身が「父バルトーク」という書物に書いています。(バルトーク ペーテル「父バルトーク」)では、ミクロコスモス1巻からいくつかの曲をご紹介いたします。。。。。。(ここまで台本)というわけでして、次回からはミクロコスモス一巻からご紹介させていただきます。よろしくお願いします。