僕の3.11

 仕事は現場に言っての取材か、会社でのデスクワークの二択。その日は会社でのデスクワークだった。

 グラッと揺れたときは椅子に座っていつものようにパソコンと向き合っていた。余りに揺れが強いから「ビルの崩壊も」と思って会社の外に出た。地面が信じられないほど揺れていて、周りのビルは壁面のレンガが剥がれてパリパリパリッと落ちていたのを良く覚えている。程なくしてゆれが収まる。机に戻ったら逃げたことを揶揄されたが最悪の事態を想定しての動きだったから胸を張れる。

 その後は皆、仕事どころじゃなくなり地上派のテレビで情報収拾。そこには信じられない光景が広がっていたが、その辺の映像は既知の通りなので省略させてもらう。

 会社からの指示は家に“帰れる人は帰っても良い”。ちょっと雑な指示だった。電車は軒並み止まっていたので物理的に帰れない人も多く居た。自分は普段から家まで歩いて帰っていたし、その日も歩いて帰ろうとした。そしたら、会社で定年を数カ月後に控えた大先輩が「俺も連れてってくれ」と言ってきた。その日、たまたま鹿児島から上京して泊まりにくる予定だった弟は、飛行機が飛ばずに来れなかったので、人を泊める準備はできていた。大先輩を連れて自宅へと向かった。

 約2時間のウォーキング。普段歩いてるので道を迷うことはなかったし、話をしながらなのでそんなに長くは感じなかった。ただ普段と違うのは、スーツ、革靴で家へと向かっている、普段は見かけないような格好の人がたくさん歩いていた。家があと1kmほどに迫ったところで、公衆電話を見つけた。ツイッターなどで、公衆電話は無料で開放されているとの情報を得ていたので、大先輩にそのことを伝える。携帯電話はつながらない状態が続いていたけど、公衆電話からは普通に電話ができた。大先輩は自宅へと電話をし、地震の後、奥さんと初めて連絡がついたようで安堵の表情を見せてくれた。

 自宅についた。僕自身はテレビと言う機器を所持しておらず、情報収集に戸惑った。携帯電話付属のワンセグはあったけど、部屋の中には電波が届いてこないので使えず。でもインターネットを開いてみたら、ニコニコ生放送やUstreamなど、様々な方法で地上波の映像を無料で見られるようになっていた。こういう時の結束力というか、対応力というのは、心の底からすごいなと思ったことを今でも覚えている。

 その後は軽く食事をし、風呂に入って就寝。自宅についた時点で、僕自身は日常を取り戻すことが出来たと思う。

 振り返ってみれば、僕も被災者だったが、それはたった1日、いや数時間のことだ。次の日からは普通とは言わないまでも日常を過ごせていたし、生活にもほとんど影響はなかった。被災地の方々の苦労と比べると、苦労はミジンコ、いやミジンコ以下の大きさだろう。

 ほかにもたくさんのことが思い出される。ただ、今、この日だからこそ振り返らないといけない。あの日のことを忘れないように、自分が生きていることを噛み締め、自分の人生を全うしなければいけないと改めて思った。人間だもの、たまにはハメを外したり、大騒ぎをしたくなったりするけど、今生きている意味を考え、今生きているということを大切に。

 2011年3月11日、東日本大震災でお亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りいたします。

 2014年3月11日