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ノルウェイの森で思い出すこと

なぜ僕が『ノルウェイの森』の映画を見たくないかについて、自分でもなんでだろう、と思っていた。小説や漫画の実写版にはだいたい裏切られるので、今回もそういうことだろうとおもっていたのだが、予告編を観たらとても好きな雰囲気の映画に仕上がっていそうだった。でも観る気がしない。観たくない。『ノルウェイの森』は確実に僕の人生の少なからぬ部分を構成している小説だ。多感な大学一年のときに読んで、なんだかよくわからんけど結構おもしろいな、と思った。それがなんだかよくわからんうちに人生で一番大切な作品になった。小説というのはそれ自体で完結するものじゃなく、読んだそのときの空気、飲んだコーヒーの甘さやおぼえたての煙草の苦さ、窓を開けて吹き込んでくる若葉の香りや、あとは恋とか別れとか。そういったものがひとページずつに織り込まれていくものだと思う。僕はそういった隙のある小説を好む。『ノルウェイの森』がどんなにすばらしくてどんなメタファーがこめられていてクリスマスプレゼントにぴったりで、なんてことはさっぱりわからない。だけど、少なくともこの小説を読んだ時期、空気、そばにいた人は、僕にとってかけがえのない大切なもので、『ノルウェイの森』のひとページひとページにその記憶が織り込まれ、静かに眠っている。氷河のなかで眠るマンモスみたいに。



先日急によしもとばななの小説が読みたくなり、本屋に走った。文庫本のコーナーで、村上春樹特集をやっていて、ある棚に彼の小説がまとめてあった。はかってかはからずか、赤緑白、バランスよく本が並べられていて、押し付けがましくなくまとまっていた。その上、ちょうど目線くらいの高さに小さい画面があり、そこからはビートルズの曲とともに『ノルウェイの森』の予告編が流れていた。
「1969年の夏、二十歳になろうとしていた僕は、そのとき恋をしていて、その恋はひどくややこしい場所に僕を運び込んでいた・・・」
全身の血液がどろどろになってしまったみたいに、生暖かくて、ゆっくりで、それゆえにあらがい難い不快が僕を襲い、なにかが思い出せそうな予感、でも期待ではなく、真夜中にコンコン、コンコンとノックされたような、不安を伴う予感がした。僕はその棚を足早に離れて予感をまた奥へと押し込めた。思い出そうとすればすぐにでも思い出せる記憶。取り出せば美しい。でも空気に触れてしまえばぱらぱらと表面がはげていくたぐいの、そういう儚い美しさ。生まれたときから死んでいく運命を受け入れた美しさ。そうした意味で言えば、僕は醜いということになるんだろう。過去にいつまでも固執してるんだから。「やれやれ」。



大学を卒業する間際に、もういちどあの小説を読み返してみようと思う。ひとつの区切りとして。もしかしたら重要なのはどの小説かよりもむしろ読んだ時期で、あのころ別の小説を読んでたら違う人生になってたかもしれない。『限りなく透明に近いブルー』なんて読んでたらどうなってただろう。そう考えると、『ノルウェイの森』との出会いもよかったのかどうか・・・ともあれそのうち映画も観る気になれたらいいのだけれど。



iPhoneからの投稿

限りなく透明に近いブルー(ネタバレあり)

「リュウ、あなた変な人よ、かわいそうな人だわ、目を閉じても浮かんでくるいろんなことを見ようとしてるんじゃないの?」
恋人のリリーが言うように、主人公のリュウの視線は無慈悲で公平だ。一般には忌避されるもの、セックスや暴力やドラッグを、リュウは善悪のフィルターなしに見据える。言い換えれば、透明な視線で見ているといえる。

過剰な刺激は人々の感性を飽和させいずれちれぢれに引き裂くが、リュウの透明な視線は、刺激を人間の容量を超えて導きいれ、やがてリュウを感性の麻痺によるより深い退廃と、感性の分裂病的症状に導いていく。
そのなかでリュウは、精神の統一性を維持するために踏みとどまろうとする。
「恐がるな世界はまだ俺の下にあるんだぞ。」

リュウはドラッグによってばらばらに霧散しそうになる意識のなかで、自身を内側から支配し苦しめている不可視のなにかを「黒い鳥」だと認識し、その抹殺を試みる。しかし腕に突き刺したグラスの破片は鮮血に染まったが、自身が黒い鳥に支配されている感覚は変わらない。

絶望的な状況の中で、リュウは血をぬぐったグラスの破片が街の稜線を映しているのをみた。
「限りなく透明に近いブルーだ。僕は立ち上がり、自分のアパートに向かって歩きながら、このガラスみたいになりたいと思った。そして自分でこのなだらかな白い起伏を映してみたいと思った。僕自身に映った優しい起伏を他の人々にも見せたいと思った。」

完全に透明であればなにも映すことはできない。このラストシーンは、透明な視線で「黒い鳥」を鋭く見通しつつも、そこからかすかに反射するような優しいなにかを他者に伝えようという筆者の小説観の表れなのではないだろうか。

哀しい予感(レビューじゃないなこれ)

子供時代の呪縛からは、だれも逃れられないのだ。


ずっと忘れていても、それはたしかに心の底のほうでうずくまっていて。
それはもしかして、いまの僕たちの息の吸い方から珈琲の飲み方までかかわっている。それって哀しいことなんだろうか。


たのしいこと、つらいこと、うれしかったことや悔しかったこと、哀しかったこと。そしてその予感。ぼくらは時間の海の中を泳ぎ続けて、それらはすぎさってしまったけれどたしかに、海の水のようにぼくらを包んでくれている。そのことに気づいたら、なんて安心するんだろう!


「ほんとうに、わからないままでいいことなんてひとつもないのだ。」
知ってしまって傷つくことはたくさんあるけれど、それすらいつかはちょうどいい温度で僕らをつつむ。だからきっとやってけるんだな、これからも。
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